クタビレ爺イの山日記

諸先達の記録などを後追いして高崎近辺の低山中心に歩いています。

観音山万灯会 2013 H-25- 8-24

2013-08-25 14:23:42 | その他
何となく酷暑が遠ざかったかと思わせる土曜日の夕方、雷雨の気配も
無いので高崎観音山・万灯会(マンドウエ)見物に出かけた。
元々は慈眼院の行事だったらしいが次第に盛んになり今年で17回目。
駐車場所の確保が心配だったので未だ明るいうちに臨時駐車場に
入ると未だ半分ぐらい。
急坂を上って平和塔広場に来ると高崎駅西口からのシャトルバスと某社の
路線バスが連続して観客を運んできた事もあって既にメイン会場では
灯明(カップローソク)の点灯作業の真っ最中。だが、例年と違って
皆さんが蚊取り線香の切れ端を使って簡単に点灯していた。聞いてみると
今年からのカップローソクは芯の部分にマッチ棒の頭が埋め込まれているので
何時ものようにガスライターで点灯するより簡単になったとの事。

広場脇には高崎・雷舞で御馴染みの「虎舞士」のメンバーが大田楽を演ずる為に
待機中。



時間つぶしに清水寺方面の細道に入る。清水寺の読みは「キヨミズ」ではなく
「セイスイジ」。808年の開基でご本尊は「千手観音」であることから周辺の
丘陵の名称が「観音山」になったとの事。白衣観音の建設は1936年、高崎の
実業家井上保三郎氏が高崎十五連隊の戦没者の霊を慰め、世の中に観世音菩薩の
慈悲の光明を降り注ぎたいと念じ、さらに高崎の発展を願って建立したもので
あるので白衣観音があるから観音山ではない。慈眼院も1941年に高野山から移管
されたものである。




清水寺は500段を超える石段が有名。その石段の両側に灯明が置かれている。
周辺が暗くなると見事な眺めと聞いているので帰路に再び寄る事にした。



境内の端に「田村堂」がある。「田村」とは勿論開基とされる坂上田村麻呂
(758-811)の像が安置してあるからである。田村麻呂、高橋克彦描く所の
「火怨(カエン)」の世界だ。
この田村堂には「下仁田戦争(1864年)」の高崎藩戦死者36名の木像も展示されている。
天狗党の行軍が、一ノ宮(現:富岡市一ノ宮)に入ると、幕命を受けた高崎藩は藩兵
320人余りの追撃隊を下仁田に向かわせ、先回りし下仁田の先の下小坂に本陣を構えた。
1864年11月16日未明、天狗党920余名と高崎藩により『下仁田戦争』がはじまり
 戦いは一進一退であったが、天狗党の奇襲によって高崎藩は敗れ、残兵は中山道で高崎に
敗走した。この戦いで高崎藩は36名、天狗党4人の戦死者を出したのである。
天狗党とは幕末の水戸藩の超過激派で武田耕雲斎を首領に、藤田小四郎を副将とし、
上洛して禁裏御守衛総督・一橋慶喜を通じて朝廷へ尊皇攘夷の志を訴えようとした
集団であるが越前で投降し処刑・追放などで壊滅している。




再び平和塔広場に戻ると先ほどの虎舞士の演技が最高潮で観客から盛んな拍手。







暫く見てから参道商店街を通って白衣観音方面に。



やがて観音が見える位置、通過する人達は多いがどう見ても商店を覗く客は
殆ど居ない。



広場の東隅に陣取って夕焼けをバックにした白衣観音と広場の灯明。





慈眼院本堂への階段の様子。



観音像への石段は灯篭。



これが円光くぐり。暫く見ていたが出口に僧侶が数人いるので遠慮がちなのか
誰も潜る人が居なかった。



観音様の前にこんな飾り。今回の万灯会の実行委員長で事故で急死されたとか。



再び平和塔広場、燈籠や灯明の明かりが鮮やか。







帰路にもう一度清水寺の階段上に行ってみたが上手い写真は撮れなかった。



駐車場から往路の逆で洞窟観音に向かったが入り口から混雑していたので
パス。大事な対横浜戦のテレビ観戦もあるので。
兎に角、阪神がしつこく勝ち続けているので今日は連敗を止めないとヤバイ。




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