クタビレ爺イの山日記

諸先達の記録などを後追いして高崎近辺の低山中心に歩いています。

国峰城訪問 R-2-12-18

2020-12-20 18:51:57 | 妙義・下仁田・富岡・南牧
先日、神成九連峰ハイキングの時、宮崎城址や神成城址に
触れたのでその本城たる国峰城址に行くことにした。

記録によると宮崎城は国峰城に次ぐ小幡氏の支城で神成城は
宮崎城の「詰城」だったという。支城と詰城はどう違うのか
と言えば本来本城の支配下の城は総じて支城なのだが
その役割によって色々な名称があるのだそうだ。
防衛拠点の支城が「詰城」で宮崎城の様な平城の近くで
神成山などの防衛に適した場所に作られるもので
城攻めの時に敵に相対して作られたものなら「付城」。

簡単に言えば防衛力に弱い宮崎城が攻撃されて苦しく
なったら神成城に引いて防衛すると云うもので
この近辺では関東管領上杉氏の拠点が平地の平井城だった
ので詰城として近くに「平井金井城」を持っていたのと同じ。


数日来の真冬並みの寒気がやや緩んだようなので曇天にも
拘わらず甘楽町に向かった。ここは桜見物や小幡武者行列、
或いは低山徘徊などで馴染みが深い地域。
中心街の「小幡」信号を北に向かって右折、三つ目信号の
「善慶寺」を左折して西進、一つ目信号の「善慶寺原」で
左折して道なりに南進。
暫く進んで橋を渡った所でこの道標で左折してさっきの川を
渡り返す。



そのまま狭い田舎道を進むと人家が切れ
再び数軒が見えた所のこの道標脇の空き地に駐車。



歩き出した道ははっきりした轍の痕もあるが
直ぐ先で悪路になるので軽の四駆ならまだしも
普通車での年寄りが走行できる道ではない。



少し登り加減になったら忽ち小石交じりの荒れ道。



フッと気が付くと右前方に巨大な山、まさかあれでは
無かろうなーーと思えた。何故ならその山域とこの
林道の間には深い沢があるから大丈夫と。



だが、林道は意地悪くも右に曲がって行き、遂に
深かった沢の末端を右旋回で回ってしまい
否応なくさっきの山に向かった。



林道には何本かの分岐があるが轍跡の有無や
荒れ方で本道は外す心配はない。偶には
分岐に表示も。これは「下鳥屋ドヤ林道」、
下鳥屋と言えば甘楽の峠巡りの拠点になる
天引森林公園に近いのでその名が懐かしい。



こんな荒れ道を進むと



突然に前方が開けて広場着。



脇に「御殿平」の標識。既に城址の一角で居館跡の
ようだ。そうすると出発地点辺りも城詰武士たちの
居住区たる根小屋だったのかな?



未だ登路の中盤らしくその先にずっと道が続く。



傾斜の緩い林道歩きに飽きたころ、漸く山登りが
始まるようで急斜面に丸太段。



丸太段はクネクネと曲がりくねるので体の反転に
忙しい。



やがて斜面を右斜め上に登って行く。



前方に尾根が見えてホッとする。



尾根に立つと数メートルの段差で台地に上がる。



そこは細長い尾根上の平地、50-60mもありそうだ。



意外にもこんな所に鳥居出現。掲額は擦れていて
正確には読み取れないが多分「城山大権現」。



途中から右手に進むと



漸く本丸が見えた。だが、如何にも小さい。



右手から丸太段を登る。



おやおや、先客がいて盛んに西方の浅間山方面に
カメラを向けて撮影中。爺イも真似して隣で
撮ったがコンデジの限界は明らかでこんな写真だけ。



本丸と言うには余りに狭く精々指揮所程度の
スペースには「本丸」の標識。



木製らしい社の前で本日の爺イ。



説明板は文字が小さく擦れていて判読不能。他には
何もないので北尾根の三角点探しで危険な堀切を
渡る。



台地の突端に三角点。四等で点名「城」 428.4m



帰路は落葉に隠れた丸太段に注意しながら無事
下山。近くの家々に居住者のいる気配なし。



甘楽に来た序に小幡氏関連の菩提寺寶積寺を
訪問。小幡氏歴代の墓所とかつて小幡氏の絡む
お菊伝承の跡を追いかけた時期があるので
お菊関連参拝。

歴代の墓



お菊母娘の墓




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