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旧中仙道に思いを馳せて
坂本宿から旧18号を碓井湖・めがね橋方面に進むと霧積への分岐の先に旧中仙道への山道の入り口がある。この中山道には尾根道に慶長以前の古道跡が残っていて、東山道の碓氷峠越えの道との説がある。入り口の案内板には、熊野神社まで8㌔強との表示があるので、山道往復17㌔の大行軍は午後出発では無理を覚悟で山に入る。
入り口から直ぐ物凄い登りとなり、旧道とは凄いものだと驚きながら進むと、途中にどのくらいの年月が掛かったのか解らないが巨大なケルンがあつた。どうやら「刎石山」の尾根を登っているらしい。
急坂を登りきると右側に「大日尊」「馬頭観音」と読める大きな石塔があり、その先に「覗き」の看板がある。ここは南が開けていて、看板通りに坂本宿の町並みが見事に見下ろせるし、「坂本や 袂の下の夕ひばり」の一茶の句が添えられている。
この後、道は広くなり、これなら昔の軍馬も通れたなと、将門、武田、秀忠の馬上の姿を想像して独り納得。暫く行くと右が大きく切り開かれ「弘法の井戸」と書いてある。昔、旱魃に苦しむ農民に弘法大師が井戸を掘らせたとの謂れがあるとのこと。いきなり弘法大師が出てくると中山道と繋がらないので吃驚する。刎石山の頂上には「四軒茶屋跡」の標識があり石垣も残っている。
峠道の中では中山茶屋に次ぐ規模だったようで刎石茶屋跡とも言うらしく、休憩用の東屋があつた。この近くに「碓井坂関所跡」の看板もある。碓井坂関所とは始めて聞く気がするが、899年の設置とある。
調べると、当時の状況からこんな山中に関所なんかあった筈はないとの説もあり、真偽の程は怪しいが、茶屋跡以前の施設跡があると言うことからすると、全く否定は出来なく、938年には京都に逃げる平貞盛を追った将門が碓井坂を急行し、上田で追いつき千曲で合戦をしたとか、その後、940年に廃止されたと「貞盛記」に記載があると聞く。
これから広い平坦な道を進むと道の両側がえぐられ「掘りきり」の看板がある。ここは1590年の秀吉の小田原北条攻めの時、合流しようとした北陸・信州勢を大道寺・松井田城主が道を狭めて食い止めた場所らしい。
「掘りきり」から狭い道が続くがやがて右側に南向馬頭観音、少し先の左に北向馬頭観音がある。馬頭観音のある場所は危険な所と決まっているが、この先の「座頭ころがし」と言われる急坂難所があるためか? 説明板にある様に山賊が多かったのか? 座頭転がしの先は広い道が続き、「栗ヶ原」で左からの道が合流する。現在は遮断されているが、碓井湖の西端から発する「ご巡幸道路」で1.878年の明治天皇北陸巡幸の為に作った道とのこと。それに先立つ1.875年、ここに「見回り方屯所」が作られ日本の交番の始まりとなったそうである。余談だかこの時、明治天皇は駕籠でこの難所に来たが、余りの
急坂で駕籠が進まず、天皇は自分で歩いたと言う記録がある。
ここからは、杉林の中を進み、「入道くぼ」を経て「山中茶屋跡」に来ます。17世紀には13軒の茶屋が繁盛しており、巡幸の時も天皇の休息場所となり、この茶屋集落だけで山中村落学校がある事を知り奨学金25円を下賜したと言う記録もあるそうです。この付近に熊野神社まであと3㌔の看板があり、やれやれと思うのと、未だ3㌔もあるのか?と複雑な思いです。この先は別名「飯食い坂」といわれる厳しい登りの山中坂で、壊れた建物を横目で見ながら子持山山頂の裾を通過し、「一つ家跡」を過ぎると「陣場ヶ原」に出ます。道はここで二つに分かれ、左が旧中山道、右が安政遠足に使われている「和宮道」です。和宮道とは孝明天皇の妹の和宮が1.861年に将軍家茂に降嫁するとき、新たに開設された道で、暫く行くと左は熊野神社、右は霧積への道にぶつかります。
陣場け原とはこの辺り一帯が太平記の新田・足利碓井合戦や「源平盛衰記」の頼朝の義仲牽制、武田・上杉の度々の碓井合戦の現場だからです。尚、頼朝1193年の浅間山麓牧狩りのときは、大軍が万騎峠で碓井を越えたようです。
旧中山道を行くと、峠町への旅人が姿・形を整えたと言う「化粧水跡」を過ぎ、左に碓井川源流標を見て急坂を登り林道にでます。この林道は熊野神社から霧積への道で少し霧積方面へ行くと、仁王門跡・「思婦石」「碓井貞光神社」を見られます。貞光とは源頼光の四天王の一人です。
熊野神社は群馬と長野の境界に跨る大きな神社で軽井沢や碓井峠経由の観光客が多く、力もちを売る売店が多数軒を並べています。熊野神社に参拝し、展望台で景色を眺め、力もちを食べると中山道を辿る8㌔のハイキングは終わりです。帰りは下りが殆どなので楽が出来ます。
写真は坂本宿。
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坂本宿から旧18号を碓井湖・めがね橋方面に進むと霧積への分岐の先に旧中仙道への山道の入り口がある。この中山道には尾根道に慶長以前の古道跡が残っていて、東山道の碓氷峠越えの道との説がある。入り口の案内板には、熊野神社まで8㌔強との表示があるので、山道往復17㌔の大行軍は午後出発では無理を覚悟で山に入る。
入り口から直ぐ物凄い登りとなり、旧道とは凄いものだと驚きながら進むと、途中にどのくらいの年月が掛かったのか解らないが巨大なケルンがあつた。どうやら「刎石山」の尾根を登っているらしい。
急坂を登りきると右側に「大日尊」「馬頭観音」と読める大きな石塔があり、その先に「覗き」の看板がある。ここは南が開けていて、看板通りに坂本宿の町並みが見事に見下ろせるし、「坂本や 袂の下の夕ひばり」の一茶の句が添えられている。
この後、道は広くなり、これなら昔の軍馬も通れたなと、将門、武田、秀忠の馬上の姿を想像して独り納得。暫く行くと右が大きく切り開かれ「弘法の井戸」と書いてある。昔、旱魃に苦しむ農民に弘法大師が井戸を掘らせたとの謂れがあるとのこと。いきなり弘法大師が出てくると中山道と繋がらないので吃驚する。刎石山の頂上には「四軒茶屋跡」の標識があり石垣も残っている。
峠道の中では中山茶屋に次ぐ規模だったようで刎石茶屋跡とも言うらしく、休憩用の東屋があつた。この近くに「碓井坂関所跡」の看板もある。碓井坂関所とは始めて聞く気がするが、899年の設置とある。
調べると、当時の状況からこんな山中に関所なんかあった筈はないとの説もあり、真偽の程は怪しいが、茶屋跡以前の施設跡があると言うことからすると、全く否定は出来なく、938年には京都に逃げる平貞盛を追った将門が碓井坂を急行し、上田で追いつき千曲で合戦をしたとか、その後、940年に廃止されたと「貞盛記」に記載があると聞く。
これから広い平坦な道を進むと道の両側がえぐられ「掘りきり」の看板がある。ここは1590年の秀吉の小田原北条攻めの時、合流しようとした北陸・信州勢を大道寺・松井田城主が道を狭めて食い止めた場所らしい。
「掘りきり」から狭い道が続くがやがて右側に南向馬頭観音、少し先の左に北向馬頭観音がある。馬頭観音のある場所は危険な所と決まっているが、この先の「座頭ころがし」と言われる急坂難所があるためか? 説明板にある様に山賊が多かったのか? 座頭転がしの先は広い道が続き、「栗ヶ原」で左からの道が合流する。現在は遮断されているが、碓井湖の西端から発する「ご巡幸道路」で1.878年の明治天皇北陸巡幸の為に作った道とのこと。それに先立つ1.875年、ここに「見回り方屯所」が作られ日本の交番の始まりとなったそうである。余談だかこの時、明治天皇は駕籠でこの難所に来たが、余りの
急坂で駕籠が進まず、天皇は自分で歩いたと言う記録がある。
ここからは、杉林の中を進み、「入道くぼ」を経て「山中茶屋跡」に来ます。17世紀には13軒の茶屋が繁盛しており、巡幸の時も天皇の休息場所となり、この茶屋集落だけで山中村落学校がある事を知り奨学金25円を下賜したと言う記録もあるそうです。この付近に熊野神社まであと3㌔の看板があり、やれやれと思うのと、未だ3㌔もあるのか?と複雑な思いです。この先は別名「飯食い坂」といわれる厳しい登りの山中坂で、壊れた建物を横目で見ながら子持山山頂の裾を通過し、「一つ家跡」を過ぎると「陣場ヶ原」に出ます。道はここで二つに分かれ、左が旧中山道、右が安政遠足に使われている「和宮道」です。和宮道とは孝明天皇の妹の和宮が1.861年に将軍家茂に降嫁するとき、新たに開設された道で、暫く行くと左は熊野神社、右は霧積への道にぶつかります。
陣場け原とはこの辺り一帯が太平記の新田・足利碓井合戦や「源平盛衰記」の頼朝の義仲牽制、武田・上杉の度々の碓井合戦の現場だからです。尚、頼朝1193年の浅間山麓牧狩りのときは、大軍が万騎峠で碓井を越えたようです。
旧中山道を行くと、峠町への旅人が姿・形を整えたと言う「化粧水跡」を過ぎ、左に碓井川源流標を見て急坂を登り林道にでます。この林道は熊野神社から霧積への道で少し霧積方面へ行くと、仁王門跡・「思婦石」「碓井貞光神社」を見られます。貞光とは源頼光の四天王の一人です。
熊野神社は群馬と長野の境界に跨る大きな神社で軽井沢や碓井峠経由の観光客が多く、力もちを売る売店が多数軒を並べています。熊野神社に参拝し、展望台で景色を眺め、力もちを食べると中山道を辿る8㌔のハイキングは終わりです。帰りは下りが殆どなので楽が出来ます。
写真は坂本宿。
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「さて、御巡幸道路ですが、遊歩道として整備されている旧中山道に比べ、標識も少なく、わかりにくい道です。
遭難事故もたびたび起きておりますので、御巡幸道路を歩かれるのは避けた方が良いと思います。
また、明治26年の碓氷線開業に伴い、御巡幸道路の一部が寸断されています。
峠の入口や坂本宿側の道(荒れています)は、かなりわかりにくい状態です。」
碓氷峠観光案内所
usuitouge@s5.dion.ne.jp
http://www.k2.dion.ne.jp/~usui/
土木課の人は大丈夫って言ってたんですけどねえ・・・
距離も、それ程ではないようですし(1時間程度)
ある程度、装備を持って、覗きに行こうかと思います。
有難うございます
何箇所か、危険と言うか、気をつけなければいけない箇所がありましたね。
初めは、川の横の道路が終わって、川を渡るところです。
すべりますし、急なガケを登る感じですね・・・
その後は、誰かが通った感じのする道(ある程度整備されていますが、随分端が崩れています。)を、トレースしながら、くねった道を登りました。今の季節でも、多少藪みたいになっていますので、長袖が必須でしょうね・・・
一箇所、堤防のような箇所の道が寸断されておりましたが、気をつけながら、渡る事が出来ました。
途中、ぬかるんだ場所が何箇所もありました。雨の日や、雨の後はチョット無理な感じの道でしたね・・・
なんか、ロッククライミングによさそうな岩場が沢山あり、そこの下の猪が通った後の感じの道を行きました。
途中、急な箇所がありましたが、初心者レベルの私でも旧中仙道まででる事が出来ました。
約1時間半かかりました・・・
2人で行ったのですが、ロープは使いませんでしたが、ストックはあったほうがいいかも知れません・・・
いい感じの道でした。秋頃また行こうかな?
色々とありがとうございました。
どうにか、旧中仙道までたどり着いたら、出口には「立入り禁止(松井田警察)」の看板が・・・
後で、気になって、警察に電話して「あそこに入って、警察に見つかると、どうなるのか?」と聞いたら、「厳重注意ですかねえ・・。気をつけて行ってください・・・」なんて言われました・・・
あまり厳しくはないようです・・・
観光課にも問い言わせたところ、以前にあそこに、「上から降りてきた車が入って行って、立ち往生したり、ガケから落ちて、何人か怪我したとか」で、立入り禁止になったようです・・・
警察が言うには、「下にも、立入り禁止の看板がある」と言っていたのですが、無かったように思います。
つまり、上から入るのは、まずい事になるかも知れませんね・・・(^^;)
結構、いい感じの道なので、整備してくれるとありがたいのになあ・・・「爺イ」のお力で、どうにかならんですかねえ・・・
この機会に、「御巡幸道路」も復活しないかと、願っているのですが・・・
そうでしょ?「御巡幸道路復活委員会」ってのは?
たのしみですね。