クタビレ爺イの山日記

諸先達の記録などを後追いして高崎近辺の低山中心に歩いています。

甘楽町周遊 R- 5- 6-16

2023-06-19 07:04:23 | 高崎・甘楽・藤岡方面
市街地の空は快晴なのに予報は「気流が
不安定、突然の降雨に注意」だ。
予定は下仁田・アジサイ園か甘楽・宝積寺の
アジサイ。走行しながら決めるが突然の夕立
から逃げやすいのは宝積寺、大丈夫と読めたら
下仁田だ。
R-18を西進しながら空の様子を見ると北の
榛名方面は奇麗に晴れて山もくっきり。一方の
西上州方面だけ不穏な黒雲で山も見えない。
「岩井」からr-10で南下していると「藤木」手前で
早くも大粒、下仁田を諦めて「下高尾」から
甘楽方面へ。「福島」で雨の領域を抜けたので
そのまま宝積寺へ。
この寺は入口看板にある様に枝垂れ桜が売りだが今の時期は
駐車場から境内中盤までアジサイが咲き誇っている。
勿論、独立したアジサイ園に比べたら規模は格段に
小さいが散策と考えれば十分な景観。
じっくり花を楽しみ境内の施設を見て斜面最高地点から
下って本堂脇の枝垂れ桜に来た時に又、突然の降雨。今度は
本格的な豪雨で濡れながら大急ぎで車に逃避、約20分の
車中立てこもり我慢で西から急速に晴れ間。

宝積寺アジサイ


時間も早いので市街地への途中にある「長厳寺」を久し振りに訪問。
入口では定番の六地蔵が出迎え。



石段を登ると山門だが控え柱がある薬醫門
で古い木魚が健在。上を見ると扁額の代わりに
何やら彫刻品、「鬼面」と云われるものらしいが
見た目には判然としない。



入口にこんな石碑。
「三界萬霊」と読めるが爺イは仏教用語には疎く帰宅後
ネットで調べたら「三界とは、欲界・色界・無色界
をいい、萬霊というのは欲・色・無色界の有情無情の
精霊などのあらゆる世界をさしている。
それらを供養することが三界萬霊塔である」とあったが
良く理解できない。



本堂に一礼して右手に進み薬師堂・観音堂・毘沙門天を
見ながら裏山の連石山に向かう。



石段に入ると先程の夕立の雨粒が樹葉から猛烈に滴り落ちて
くるのでまるで雨中の登山。



濡れた石段も堆積する笹の葉も滑り易く一歩を慎重に
進めると巨大摩崖仏の一部が見えた。



連石山中腹の平地で巨大摩崖仏をじっくりと拝観するが
これはさして古いものではなく篤志家が1979年から
6年かけて制作したもの。記録によると高さ10M、幅8M、
奥行き2Mもあるそうだ。



手前に大型の亀やカエルと思われる石造物。役割不明、守り神?



左手に33観音がある周回登山口の案内があるが
水滴の落下と下地の悪さで今日はパス。
この裏山の連石山は、多くの修験僧が修行を積んだ聖域の
山で、三十三観音が祀られているのもそのためとか。



山からの下りは慎重に補助クサリのお世話になって
次の織田家七代の墓に向かう。

七代の墓は今は公園となって整備が進みすっきりしている。
先ず西側の織田家菩提寺・崇福寺から見学。
この地に封ぜられた織田氏も旧領主小幡氏の菩提寺が
宝積寺で格式も高かったため、三代までこの宝積寺を
菩提寺としていたのだが儀式に際しての織田家の席次に
不満を持ったのが原因で四代・織田信久は廃寺であった
崇福寺を改築し、臨済宗に改めて菩提寺として、
宝積寺から三代の墓石をここへ移したとーーー伝わる。



その隣に位牌堂。此処には二代信良と七代信富を除き
十代信美までの位牌があるとの事。



公園に回ると織田家七代の墓が立派な建屋に収まっていて
壮観。



小幡氏滅亡の1590年から関ケ原決戦直後の1601年までの
11年間は、小幡領2万石で奥平信昌が領主となり、国峯城の
支城であった富岡の宮崎城に入った。
1601年から1602年は、信昌四男・松平忠明、1602年
から1615年までは水野忠清。そして1615年7月、信長
の二男信雄に大和国宇陀郡3万石・上州小幡2万石が
与えられ、1616年に信雄の子信良が福島の陣屋に入り、
織田氏による小幡支配が開始されたのである。
そして152年が過ぎ、8代信邦の1767年に不祥事により
信邦蟄居、弟・信浮は養子として出羽高畠2万石に
移封。跡に座ったのは松平忠恒でその4代目忠恕は、
小幡藩最後の藩主として1869年に版籍奉還。
従って織田家累代の墓は七代までで信邦は入っていない。
(サムネイル画像は左クリックで拡大、左上の左向き矢印で元に戻る)



その墓所の背後には小幡氏関連の墓が幾つか並んでいる。



本日の周遊はここまで。明日は好天なので下仁田へ出直し予定。

(蛇足)
小幡氏の盛衰
鎌倉時代には既に児玉党の一派として小幡氏の活躍がみられ
13世紀初頭には小幡の地に居住し、勢力を確立していた。
南北朝時代以降、山の内上杉氏が上野国守護となりその
支配力が強固になると、箕輪の雄・長野氏が婚姻政策で
束ねる西上野の拠点の一つとして甘楽の地が重要視され
白倉城、国峯城、庭谷城、天引城などが築城された。
戦国時代の主役は信貞だがこの御仁、人生の節目に改名する
癖があり1552年・小幡重定。1561年・信実。1572年・信真。
1572年・信貞。1582年・信定。

小幡氏は居城の国峯城に拠ったが 1552年上杉氏の越後亡命後、
武田信玄に通じたのを親族に密告され長野業政に追われた。
1561年信玄が国峰城を奪ってそこに復帰させてもらった以降、
赤備え騎馬軍団を率い、武田軍団の中核となって
活躍し長篠の戦には設楽原の決戦に武田騎馬中央隊として
奮戦し後世の武田24将絵図にも常連となる。
この赤備え騎馬軍団は小田原戦後に関東に入った家康に拾われ
その伝統は井伊の赤備え騎馬軍団として関ケ原決戦にも
その名を遺した。
武田氏滅亡後は一瞬だけ信長配下の滝川一益に従うが、
本能寺の変以後、一益の遁走では変わり目早く小田原
北条氏の勢力下に入ったが、1590年小田原の役では
小田原籠城。敗戦後に旧友の真田昌幸を頼り信濃に亡命、
信濃塩田郷で余生を送って52歳で病死する。
留守役の国峰城は、子の小幡信秀が守ったが、前田利家
率いる北陸道軍分遣隊藤田信吉に落とされ城は廃され
小幡氏は滅亡する。

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登山

34勝31敗 (06/18現在) 首位と5.5ゲーム差 三位 4位とのゲーム差 0,5ゲーム
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