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納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

# 821 青バット

2023年12月06日 | 1977 年 



一直線に弾丸ライナーでスタンドに飛び込むホームラン。片や大きな弧を描いてフェンスを越えるホームラン。青バット・大下弘の打球は天高く舞い上がるモノだった。

最強打者の夢は青バットと共に
日本プロ野球は昭和11年に創設された。そんな昔の事を言われても分からないという若い読者に伝えると、あの「二二六事件」が起きた年だ。それくらいプロ野球の歴史は古い。そのプロ野球の歴史の中で最強の打者を選べと言われたら大いに悩む。打撃の神様・川上哲治を落とすわけにはいかない。またミスタープロ野球・長嶋茂雄も同じく外せない。他にも王貞治や野村克也、中西太など枚挙に暇がない。しかし敢えて私が選ぶとしたら先ず大下弘の名前を最初に挙げる。昭和21・22年に「赤バット・青バット」が流行した。この赤バットと青バットが有名になった経緯はまるで違う。

東京・銀座に南風堂と言う運動具店があった。アイデアマンだった店主が当時、日本中に広がっていた軟式野球を利用してひと儲けすることを思いついた。軟式バットに赤ペンキを塗って売り出したのだ。だが当時はまだテレビはなく、宣伝したくても手段がなかった。そこで店主は川上選手に赤色に塗装したバットを無償提供して試合で使ってもらった。今で言うスポーツ用品メーカーのアドバイザリー契約だ。柴田選手や高田選手がスポーツ用品メーカーのCMに出ているのと同じことを川上選手にお願いした。だから川上選手が使う赤バットには南風堂の刻印が入っていた。

対する大下選手の青バット誕生は川上選手のそれとは性質を異にする。商魂とは別の男のロマンがあった。昭和21年1月に発売され大流行した『リンゴの唄』の歌詞の中にある♪ 黙って見ている青い空 ♪が大好きだった大下選手。「当時、川上さんが赤バットを使っていて、もし私ならこの青い空の青色にしたいと思いました。果てしない青空、男の心はかくありたいと思いましたね」と大下選手は述懐した。占領下の日本ではペンキを入手するのは簡単ではなく、駐留していた米兵専門店のPXに行くしかなかった。川上選手の赤色はペンキをハケで塗装したものだったが、大下選手の青色は吹き付け塗料だった。


ピタリと当てた男
昭和24年8月18日、札幌・円山球場で第1試合は大映対東急、第2試合は巨人対中日の変則ダブルヘッダーが組まれていた。第1試合は8回終了時点で12対2と大映が大量リードし勝敗はほぼ決まっていた。9回表一死、打席に入った大下選手はマウンドの野口正明投手に向かって「打たせろ」と声をかけた。つまり打ちごろな直球を投げろと要求したのだ。さすがに野口投手は拒否してカーブを投じた。それを見透かしたかのように大下選手は引きつけて強振した。打球は青空に吸い込まれるように舞い上がった。その時、球場隣の陸上競技場では第2試合の巨人と中日の選手たちがウォーミングアップをしていた。

「ウオゥ」という球場からの大歓声に気づいた巨人と中日の選手たちが空を見上げると白球が上昇していた。「誰が打ったんだ」との声に「あんな打球を打てるのは大下さんだ」とピタリと言い当てた選手がいた。中日の杉下茂投手だった。なぜ杉下投手は断言できたのか。「簡単ですよ。青空に消えていく打球に見覚えがあったからです。私が明治大学在学中に先輩の大下さんが明大の練習場に来て指導してくれたんです。今ならアマチュア規定に抵触して大問題ですけど。その時に大下さんが打撃練習を見せてくれました。打球は45度の角度で舞い上がり滞空時間は5~6秒あったでしょうか。その時見た打球と同じでしたから」と杉下投手。


頂点52メートルの高射砲ポンちゃん
野口投手から放った打球はグライダーのように右翼スタンドを横切り雑木林を越え小川を飛び越え、なおも飛び続けた。推定飛距離は約150m で大下選手にとって最長飛距離の本塁打となった。大リーグのアストロドーム球場の天井はベーブルースが放った打球を参考にして高さは62m に設計されている。大下選手の打球もそれに匹敵する高さであると推定される。後楽園球場の照明塔は地上41mだから大下選手の打球は照明塔より20m上を行く。今もしも大下選手が現役だったなら " 青バット " のように " 青空打者 " とニックネームをつけられたかもしれない。

大下選手のアダ名 " ポンちゃん " には様々な通説がある。芸者の「ポン太」に惚れ込んだからとか、麻雀をすると必ず「ポン」をするとか。更にはスイングする時、大下選手はバットの先端をグッと下げる癖がある。ある時、バットの先が振り上げた右足に「ポン」と当たったとかいうのもある。だが真説は明治大学在学中に打撃練習で「ポンポン」放つのを見た先輩の河西俊雄や加藤三郎らが「よくもまあ高射砲のように高角度でポンポンと打ち上げるよなぁ。顔はボンボンだが打球はポンポンだ」と驚き、練習が終わると先輩たちは大下選手を「おい、ポン!」と呼ぶようになったなったという。

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