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盛岡勇夫「讃偉業 森垣幸一氏像」(オホーツク管内湧別町曙町)

2022年03月28日 07時04分24秒 | 街角と道端のアート
(承前)

 湧別町の顕彰系肖像彫刻の続き。
 オホーツク海と湧別川河口にほど近い湧別町漁協事務所の前に立っています。


 興味深いのは、前項の清水清一元町長とタイトルが
「讃偉業」
とまったく同じで、揮毫 き ごうも民選第2代北海道知事の町村金五によるものという点です。

 湧別町史によると、この顕彰像の除幕式は1963年5月19日。
 湧別漁協の「組合再建の父」と慕われ、60年頃から顕彰が話題に上り、62年に期成会が発足しました。
 組合員の募金で、組合創立15周年をもって式を行ったとのこと。
 町史には
「森垣幸一がまだ常勤役員として在任中に、こうした美挙が実現した点に破格ともいうべき組合員の慕情が察せられる」
とあります。

 この像の建立後、1964年から組合長を務め、68年3月8日に現職のまま死去しました。

 台座裏面には略歴が刻まれています。

 
 明治25年5月紋別村で生る

 大正11年佐呂間村長を振出しに5ケ村の村長を歴任

 昭和10年下湧別村長就任同11年湧別漁業協同組合長兼任2ケ年在職も辞任

 昭和16年再び湧別漁業会長に就任5ケ年在職し辞任

 昭和33年3度に亘って組合が不振に陥り解散状態にあったとき全漁民に請われて組合専務理事に就任し組合再建に挺身し卓抜な経営手腕と指導力により組合財政を建直し組合の基礎を築く
 

 明治25年は1892年、大正11年は1922年、昭和33年は1958年です。

 
 ただし「湧別町史」には、

昭和17年(1942年)1月~19年1月旧湧別漁業協同組合長
19年3月~終戦 下湧別村漁業会長

とあります。
 現在でこそ湧別町の漁業はホタテを中心に安定感がありますが、昔はたいへんだったようです。
 「湧別漁業協同組合のあゆみ」というサイトによると、森垣さんが請われて組合再建のため専務理事になった1958年には、当期末欠損金が2209万円もあったとのこと。

 「5ケ村」とおおざっぱなくくり方をされていますが、初代の生田原村村長(現遠軽町生田原)なども務めています。
 また、文中に出てくる「下湧別村」とは、旧湧別町が1953年に町制施行する前の呼び名です。


 町史には顕彰像の写真も載っていますが、背後には木がはえており、現在とは設置箇所が異なるようです。

 町史などには胸像の作者は明記されていません。
 背後にまわると、どうやらこれは、肖像系彫刻を専門に取り扱っている盛岡勇夫氏の作であるらしいことが判明します(写真では分かりづらくてすみません)。

 この彫刻については、北海道デジタル彫刻美術館を含め、ネットではまったくヒットしません。

 

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