北海道美術ネット別館

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アラーキーこと荒木経惟と北海道

2018年05月25日 22時47分31秒 | つれづれ日録
(文章の組み立てを全面的に変えました)


 今年に入って美術界を揺るがすニュースが続いているが、北海道美術ネット別館では、札幌で開かれている美術展を追いかけるのに忙しく、なかなか反応できていない。
 ふだんから、道内のアートシーンに対して、もっと社会との接点があったほうがいいのではないかとはっぱをかけている当ブログとしては、これでは言行不一致のそしりをまぬかれまい。とりあえず、記録だけでもしておかねばならないだろう(といって、道内で何か具体的な動きがあったわけでもないんだよな)。

 まずは、高名な写真家であるアラーキーこと荒木経惟の問題。




 荒木経惟氏が道内で写真を発表したことは意外と少なく、多数の写真家によるグループ展を別にすれば、今世紀に入ってからは次の2度しか筆者は知らない。

 ひとつは2001年、十勝毎日新聞社が主催し、道立帯広美術館を借りて開いた「荒木経惟写真展 十勝平野喜怒哀楽」。

 もうひとつは2002年に札幌のコンチネンタルギャラリーが企画した「荒木経惟 今年ノ愛人」である。

 筆者の、荒木氏に対する考えについては、上記の「十勝平野喜怒哀楽」の際に述べたことで、基本的に尽きている。
 リンク先は、スマートフォンでは読みづらいファイルのため、全文をコピー&ペーストしておこう。



 先ごろ東京都現代美術館で同時に開かれた草間彌生と荒木経惟の展覧会は、草間がいかに偉大な芸術家であり、荒木がいかに矮小なニセモノであるかを如実に示すものだった。
 (中略) にもかかわらず、エキゾティックな小品を探し回る欧米の二流の美術関係者たちは、欧米の作家の作品だったならフェミニストの総攻撃を受けるであろう荒木の写真を、「官能の帝国」(『愛のコリーダ』の訳題)の珍奇な輸入品としてもてはやし、日本の二流の美術関係者たちがその評価を逆輸入するという、最悪の回路が支配的になっているのだ。
(批評空間23号・編集後記。1999年10月)

 浅田彰のこの文章を読んだとき、胸のつかえがスーッとおりるような感じがしたのをよく憶えている。
 いったい、どうしてこの写真家がこれほどもてはやされるのか全く分からず、しかし世間の評価は高いものばかりだったので、そのギャップを自分なりにどう整理していいのか困惑が続いていた。浅田彰がすぱっと言い切ってくれて、すごくナットクできたのだ。
 それと、「世間の評価」に必ずしも追随する必要は無い、ということも、あらためて自分なりに認識できた。

 もっとも、ニセモノという評言は、アラーキーにはさして痛くもかゆくもないんじゃないか。
 「そうだよ、アタシはニセモノだよ」
などと開き直られるのがオチなように思う。
 アラーキーは「天才」という形容はされても、決して「巨匠」とは言われない。巨匠然としたあり方からは徹底的に逃走していく。だから荒木経惟は、たとえば土門拳や木村伊兵衛と同じような扱いを受ける存在ではありえず、巨匠的な完成をどこまでも回避していく一種のトリックスター的存在なのだ。だからこそ、一般的な倫理コードからも自由でいられるわけなのだ。
 もっとも、そのニセモノ性には、たとえば森村泰昌にあるような批評性はない。

 浅田の、荒木礼讃への批判を、一言で言ってしまうと、要するに「オリエンタリズム」ということに尽きる。
 でも、これは筆者のカンなんだけど、欧米における荒木評価には、もう一つ別の側面があるんじゃないかな。つまり、ナン・ゴールディンやラリー・クラークと同じ文脈で評価されてるんじゃないかということ。ドラマ性みたいなものを写真に求める傾向があるんだと思う。

 で、今回の写真展なんだけど、モデル募集に応募してきた十勝のさまざまな人を撮って並べただけだった。
 一部に全身像があるけれど、大半は素人さんがにっこり笑っている肖像である。
 それに、コンパクトカメラでぱしゃぱしゃ撮ったとおぼしき帯広の風景が大きく伸ばして張ってある。
 元来サービス精神旺盛なアラーキーだから、手を抜いてはいないだろうと思う。会話を楽しみながらモデルたちのいい表情を引き出そうとした苦労の跡はうかがえる。だけれど、裸も花も東京風景も無い荒木の写真の、なんと気の抜けて見えることか。
 新開地のような帯広の町は、東京の持つ猥雑さが全くない。どこまで行っても明るい、影の無い町なのだ。
 つまり、荒木にとっては自分らしさの出ない被写体といえるんじゃないだろうか。
 もちろん、欧米のフェミニストからは攻撃はされないだろうけど(笑い)。ずらりと並んだ肖像の笑顔の健康さは、あるいは田舎っぽさは、なんだか「らしく」ないぞ。





 端的にいって、筆者は彼の写真を以前からあまり評価していなかったというわけだ。

 もともと「ウィークエンドスーパー」といったアングラ雑誌で、当時はご法度だったヘアヌードを撮るなど、ゲリラ的な活動をしていた写真家である。
 そういう写真家がいることを否定しようとは思わないが、「日本を代表するアーティスト」といわれると、それは違うだろうと感じる。

 そして、帯広の写真展から17年がたち、何がいちばん変わったかといえば、「撮られる側」の意図を無視して「芸術」の聖域を掲げて押し通すことは、もはや誰にもできなくなっているということだと思う。

 KaoRiさんは、先のサイトにこう書いていた。

<立場の上下なく、お互いがお互いに尊重しあって発展する世の中になりますように。>

 それに尽きると思う。




 この問題については、中島岳志・東京工大教授が東京新聞や北海道新聞などに連載している「論壇時評」に、まとめられて( https://www.hokkaido-np.co.jp/article/183929 )おり、理解の手助けになる。

 見出しは「「#Me Too」運動とアラーキーへの告発 アートは暴力の免罪符でない」。

 書き出しは次のようになっている。

写真家・荒木経惟(通称「アラーキー」)のモデルを長年つとめた女性が、ウェブページ「note」で告発を行った(KaoRi「その知識、本当に正しいですか?」4月1日)。

 荒木による過激で身勝手な撮影によって精神的に深いダメージを受け、日常生活に支障をきたしてきたというのだ。

 KaoRiは、パリと東京を往復するダンサーとして活躍する中で荒木と出会い、モデルを務めることになった。2001年から16年までモデルの仕事を行ったが、その間、荒木の「私写真」「感性よりも関係性」という写真論に振り回される。(以下略)


 アート界からの反応としては、最も有名な写真評論家として活躍している飯沢耕太郎氏がウェブマガジン「REAL TOKYO」に寄稿した「アラーキーは殺されるべきか?」を挙げておく。
 飯沢氏は、時代の変化が、アラーキーとモデルをめぐる関係性を変化させていったことを中心に論を進めている。
 



 ここであらためて確認しておきたいのだが、芸術家の人格と作品の質の評価とは関係がないというのが、近代の決まりごとである。

 たとえば、近世イタリアの画家カラヴァッジオは殺人犯である。
 しかし、そのことは、彼の画家としての評価とは関係がない。

 カラヴァッジオが殺人者だからといって彼が描く絵がだめだとか、ラファエロが人当たりのよい、誰にでも好かれるタイプだから絵描きとしてもすぐれているとか、そんなことはありえないのだ。
 あくまで、評価の対象になるのは、作品なのだ。

 そんなことは言うまでもあるまい。
 ただしアラーキーの場合も、その原則を適用できるだろうか。

 もし彼が風景や花を撮る写真家だったら、彼の性格と作品は切り分けて考えられるだろう。
 また、家庭内で暴力をふるう写真家でも、スタジオではまったく別の人格として、おとなしくモデルに接していれば、やはり本人と作品は別ものとして考えてよいだろう。
 しかし彼は「私写真」を標榜し、モデルとの人間関係を撮影しているのである。
 いくら「虚実入り混じる」といっても、写真家本人と作品とを別個のものとして切り離せるだろうか。

 筆者は、ムリがあると考える。




 非常にとっちらかった、散漫なテキストになってしまってすみません。

 アップ直後に、文章を全面的に差し替えました。


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