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「北の想像力 ≪北海道文学≫と≪北海道SF≫をめぐる思索の旅」公開講座その他の話

2014年05月25日 01時01分01秒 | つれづれ読書録
(5月25日未明、一部の語句を訂正しました)

 2014年5月22日夜、札幌市中央区南1西6にある「OYOYO × まちアートセンター」に行ってきた。
 札幌のとんでもない(ほめ言葉)出版社である寿郎社から『北の想像力 ≪北海道文学≫と≪北海道SF≫をめぐる思索の旅』という、これまたとんでもない文芸評論集が発刊されるのを記念して、編者の岡和田晃さんと執筆者のうち4人による公開講座が開かれるというので、取材に出かけたのである。

 以前から書いているように、筆者はこのブログはまったく仕事と関係ない領域で行っており、会社では「デスク」ということで、人が書いた原稿をチェックしたり、他部署と連絡調整をしたりしており、取材や原稿執筆の仕事をする機会はほとんどない。この晩は、本来取材に行くはずだった記者が事情で行けなくなったこともあり、筆者が様子を見てくることになったのである。
 そもそも筆者は知らない人に話しかけるのが不得手で、新聞記者にあまり向いていないと思うのだが、この晩も美術関係者の集まりとは違うアウェー感が強く漂っていたので、最後列の予備のいすにすわってこっそり話を聞いていようと思っていた。そうしたら、話者のひとりで、『北の想像力』にも「北海道SFファンダム史序論」という文章を寄せている三浦祐嗣さんに見つかってしまい
「きょう、記者さん来ないの? じゃ、ヤナイさん取材してよ、ねっ」
などと言われ、三浦さんは伝説のSF誌「イスカーチェリ」の代表も務めたSF者であるが、実は筆者の会社の大先輩でもあり、断るわけにもいかず、最前列の招待者席にすわらされて、写真を撮ったりメモを取ったりすることになった。
 最前列には、荒巻義雄さんもすわっていらした。むろん、札幌時計台ギャラリーでお会いするときの荒巻さんと同じ人物なのだが、周囲が荒巻さんをリスペクトする雰囲気がばしばし感じられて、なんとなく気軽に話しかけづらい。「オーラ」というのは、本人の属性だけではなく、周辺との関係性の中から立ち上がってくるものなのかもしれぬ。
 筆者のとなりの方とあいさつ。そうしたら、以前お会いしたことのある作家・評論家の大森滋樹さんであることがわかり、かなり気分的にラクになった(筆者は人の顔を覚えるのが極端に苦手なのである。やっぱり記者にむいてないんだよなあ)。

 この晩の記事は、近日中に北海道新聞夕刊の文化面に載る予定なので、それ以前にここで詳細を書くのもはばかられるのだが、4人による討論も、質疑応答のコーナーもなかったにもかかわらず、ミニ講演4本立ての内容はなかなか濃厚でおもしろかった。
 とくに印象に残ったのは、札幌在住のミステリ作家松本寛大さんの話で、彼は札幌出身のホラー・伝奇小説の第一人者である朝松健さんを取り上げたのだが、朝松さんは小説家になる前は、やはりヘンタイ出版社(あ、これもほめ言葉ですっ!)として名高い国書刊行会に勤めており、「真ク・リトル・リトル神話大系」や「定本ラヴクラフト全集」といったマニアックな書籍を手がけていたとのこと。
 松本さんの話の終盤、荒巻さんが会場から
「ホラーって文体だと思う。いまの若い人のホラー小説はそこらへんがちっとも怖くないんだよなあ。明るい世界で暮らしているからかな」
などと割って入り、松本さんが、昔は脳内に文章が浮かぶ作家が多かったのに対し
「大沢在昌さんは、頭の中に映像が浮かび、それを文章にするのだということです」
と応答すると、荒巻さんは
「いや、オレもそうだよ。でも(若い人の作品は)視覚的なんだが、皮膚感覚がない。難しいね。ぼくも(ホラーを)書こうと思うんだが」。
 松本さん「荒巻先生にそう言われましても…」。
 そりゃ困るわ~。でも、こういうやりとり、すごくおもしろい。


 以上はいわば長すぎる前置きのようなもので、ここからが本題である。

 くだんの本『北の想像力』は、筆者20人、782ページ、厚さ5.6センチ、税込み価格8100円という、想像を絶する大著で、とりあげられているのも、山田ミネコ(小樽ゆかり!)の漫画や、高畑勲らが参加した幻のアニメ「太陽の王子 ホルスの大冒険」だったり、さらに荒巻義雄、石黒達正、佐々木譲、鶴田知也、向井豊昭、フィリップ・K・ディック(!)だったりで、これまでの定番「北海道文学」のメニューとは相当異なる。巻末の「『北の想像力』を考えるためのブックガイド」には、伊藤整や小林多喜二、佐藤泰志、池澤夏樹らに交じって、ロバート・ゼメキス「コンタクト」、佐々木倫子「動物のお医者さん」、アンナ・カヴァン「氷」(たしかに、これほど「精神の北方」を体現した小説は珍しいかもしれない)、果ては初音ミクまでとりあげられている。編者をはじめとする編集チームの意欲をひしひしと感じる。従来の「北海道文学」の枠組みを拡張し脱構築しようという意欲だと思う。

 で、まだ全部読んでいない段階であれこれ言うのもなんだが、ちょっと書いておきたいことが二つある。
 あらかじめ断っておくが、ソースが見当たらず、記憶に頼って書くので、間違いがあるかもしれない。気のついた方は指摘してください。

 今こそ、≪北海道文学≫をアクチュアルなものとして、再生する必要があるのだ。(16ページ)


 これが、本書の前提になっている認識である。

 しかし、この認識は正しいだろうか。

 立風書房から「北海道文学全集」が出たとき、野間宏が帯文だか跋文だかで「北海道文学」を称揚したのに対し、詩人・評論家の笠井嗣夫(だったと思う)が、敢然と反論した。

 いわく、「北海道文学」なんてものはない

 もう30年以上も前のこと。これを読んだとき、筆者は、戦後文壇の大物である野間が完全に論破されていると、胸がすくような気持ちになったことを覚えている。

 このとき笠井さんの念頭にあったのは、「いわゆる北海道文学」であったのかもしれない。

 「いわゆる北海道文学」でない、ということによって批判を受けたのが、デビュー当時の藤堂志津子であった。

 彼女の「マドンナのごとく」は、恋愛小説であり、舞台は札幌だが、別に札幌でなければ成立し得ない要素があるわけではない。
 そのため(いまから考えると信じがたい話なのだが)、開拓者精神がないだの、北国の風土が描かれていないだの、藤堂さんはさんざんな言われようだったらしい。

 本人やその親が開拓者の世代であるならともかく、現代の小説がすべて開拓者精神を持っていなくてはいけないというのは、まったく余計なお世話であろう。
 だからこそ、そういうクリシェにいろどられた「北海道文学」は没落したわけで、再生を図らなくてはならないという認識は、間違ってはいない。

 だが、そこで、話は笠井さんの根本的な批判に戻る。「北海道の文学」とは異なる、「北海道文学」というカテゴリーは、そもそも必要なのだろうか?



 これで終わってしまえば、単に話をまぜっかえして難癖をつけただけみたいな印象を与えてしまうだろうし、それは筆者の本意ではないから、付け加えておく。
 わたしたちに必要なのは、「北海道文学」という「カテゴリー」ではないし、まして、自分たちが考える「北海道文学」のカテゴリーにあてはまらない作品や運動を排除する動きではあり得ない。そうではなく、「北海道」の「文学」という境界線を絶えず引き直し、そこで産出される作品群を不断に読み直すことで、あらゆる芸術の歴史の固定化を回避するとともに、地元の文化の動きを絶えず活性化させることが求められているのだろう。
 言い換えれば、あらたな境界線を引くことが目的なのではなく、境界線そのものを破砕し、「読み」も含めた創造の営みをよみがえらせること。それこそが、「北海道」に必要なのだと思う。


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2 コメント

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Unknown (SH)
2014-05-25 08:00:30
ヤナイさん、こんにちは。
興味深い話をありがとうございました。

「北海道文学」というのが話題になるのは、いわゆる文学界(純文学界?)のお話にすぎない気がします。
藤堂志津子さんへの批判を全く知らなかったのですが、SF界ではこんな話が出るはずがないでしょう。
SFの舞台がそもそも地球じゃなかったりしますからね。
(実作者の人たちは、北海道と東京の距離感で何かを思うのかもしれませんが)
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Re:Unknown (ねむいヤナイ)
2014-05-26 00:55:36
SHさん、こんにちは。長文を読んでいただきありがとうございます。
おっしゃるとおりですが、北海道は島国なので、こういう歴史のまとめはよく出てきますよね。
そして、北海道文学という概念が盛り上がったのは、1960年代後半から80年代までの短い期間だったといえるかもしれません。
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