先日、札幌のシアターキノで「ハンナ・アーレント」を見てきた。
表題のとおり、キネ旬の1位になるなど、各方面で話題になっており、これは見ておかないと、と思ったのだ。
結論から言うと、悪い映画ではないが、1位になるほどの作品だろうかと、正直思った。
この映画を絶賛している人は、劇中のアーレントのせりふや思想を評価しているのであって、映画そのものの持っている力とか美しさを評価しているのではないんじゃ? と思ってしまった。
宮崎駿にしてもタルコフスキーにしても、その作品の中には
「これは、映画以外では表現が難しいし、映像としての出来がすばらしい」
というシーンがいくつも登場するが、はっきり言って、「ハンナ・アーレント」にはそういう場面を探すのがむずかしい。劇映画として、水準に達しているのだが、忘れがたい美しさの映像は出てこないのだ。
ではなぜ、この映画が2013年から14年にかけて日本で非常な好評をもって迎えられたのだろう。
それは、ヘイトスピーチデモや、反韓国・反中国本の氾濫、安倍政権による改憲志向などに象徴される、いまの日本社会の「いやな空気」の反映にほかなるまい。
映画の中で主人公の思想家、ハンナが、ユダヤ人の旧友に言うせりふがある。
「わたしは一つの民族を愛したりしない」
ある人を、●●人だから愛したり嫌ったりするというのは、ほんとうはくだらないことである。
たとえば日本人にもいいヤツと人格者と泥棒とバカがいて、おおむねおなじような比率で韓国人にもいいヤツと人格者と泥棒とバカがいるだろう。
日本人が全員いいヤツで、バカはいなくて、韓国人全員がバカで、いいヤツがいない、なんてことがあるはずがない。
まじめに議論する気もおこらない、ごくあたりまえの話である。
しかし、そういうのと同水準の言説が、いまの日本語のインターネットにはあふれかえっている。
在日韓国・朝鮮人は、不当に生活保護を受けており、年間何兆円が支出されている―など、小学校で算数を習ってきていない人しか信じるはずのないデマが、拡散している。
「本当の悪は平凡な人間が行う」
という、彼女が行った渾身の講義の中の言葉こそ、いまの日本社会にふさわしいものはないだろう。
ファシズムを遂行するのは、悪魔ではなく、草の根の庶民なのだという、1930年代と現代の日本の現実を、われわれはあらためて、この映画からつきつけられるのだ。
「人間なら、自分の頭で考えること」
彼女のことばが、重い。
ここで文章を終えてもいいんだけど、あとは蛇足を。
このドイツ出身のユダヤ系女性思想家の映画をつくるのに、アイヒマン裁判に的を絞ったというのは、おもしろい。
というのは、思想家・哲学者の一生なんてものは、政治家や軍人なんかに比べたら、それほど起伏に富んだものではない場合が多い。カントやフッサールを主人公にした映画なんて、誰も制作しないだろう。絶対、映画館で寝る。伝記がおもしろくないから学説の解説をする、なんてことになったら、もっと寝る。
ところが、このアーレントの生涯はまさに波瀾万丈なのだ。若い頃のハイデガーとの恋愛、ヤスパースへの師事、最初は現象学の師弟だったのに反目しあうようになったハイデガーとヤスパースのあいだで胸を痛めたこと、ナチスの政権掌握とフランス亡命、カミュらフランスの若き知識人との交流、フランスで収容所入り、パリ陥落のどさくさにまぎれて脱出、後に夫になる恋人との奇跡的な再会、前夫の協力もあっての米国ビザ入手と米国亡命…。
もうこれだけで、映画になりそうな気がしてくる。
この映画のハイデガー役は、意外と俗物な感じがした。
「20世紀最大の哲学者」が、女子学生(ハンナ・アーレント)と不倫の関係に陥り、しかも一時的とはいえナチスを支持していたという事実は、その後、哲学や思想を志す多くの人間にとって、解きがたい難問として残されている。
しかし、ハンナとハイデガーが再会する回想シーンで、筆者(ヤナイ)は、いしいひさいちのマンガが思い出されてきて、ちょっと困った(笑)。
映画ではふたりは、ホテルの中じゃなくて、そま道で会っていた。
□公式サイト http://www.cetera.co.jp/h_arendt/