きのう、Facebook を見ていたら、札幌市北3条広場にあった巨石の作品「一石を投じる」が、札幌市資料館の前へ移設している様子がアップされていた。
けさの北海道新聞も、社会面で、写真3枚も使って、移設作業を報じていた。
ただし、記事によると、ここにあるのはとりあえず3年後までということらしい。
3年後に第2回の国際芸術祭が開かれることが、既定路線化しつつある感を受ける。
このブログを読んでいる人なら先刻ご承知だろうが、この巨石は、札幌国際芸術祭の参加アーティストであった島袋(しまぶく)道浩さん=ドイツ在住=が、日高管内の二風谷(にぶだに)から運んできたものである。
北海道新聞によると、
日高管内の沙流川流域で採れる「幸太郎石」で、高さ3メートル、重さ10トン超。芸術祭に合わせ、島袋さんが「整然とした札幌の街に、自然の違和感を持ち込んで刺激を与えたい」と日高管内平取町二風谷から運び込んだ。
とのこと。
記事には
期間中は島袋さんが二風谷の石材店にリース料を払って借り受けていたが、島袋さんも「芸術祭のことを思い出せる証しになれば」と保存に賛同しており、費用は好意で比較的低く抑えられる見込みという。
というくだりもある。
ところが、これは人気の作品で、芸術祭開催中から「残してほしい」という声が多かった。
筆者もそういう声を何度か耳にしたし、上田市長も、芸術祭最終日に市役所ロビーで行われたファイナルトークの席で、「検討する」ことを明言していた。
もちろん、この石がイコール作品ということではない。
石を、アイヌ民族の聖地から借りてきて、直線だらけのマチの、地方最高権力の真ん前に据え付けて、見る人に思考を促すことに眼目があるのだ。
だから、設置場所がどこであっても「一石を投じる」という作品が成立するわけではない。
そんなことは言うまでもないことだと思う人も多いだろう。
しかし、世間はそうではない。
札幌の太陽という出版社から発行されている「クオリティ」という月刊誌の11月号のグラビアページでは
エッ! これが“芸術品”?? 巨石をあがめる人たちに「一石を投じる」
という見出しの記事が載っている。
そこには
岩石も芸術品と名が付けば数百万円。(中略)しかし、市民からは「どこから見てもただの岩石。どこが芸術なのか」という声や「広島市の土石流で(以下略)」。
とある。
現代美術やコンセプチュアルアートの考え方を一般市民に滲透させることの困難さを、いやでも実感させられる文章である(わたしたち美術関係者にとっては)。
それを踏まえて、考えてみる。
アイヌ民族として初めて国会議員となり、著作も多い萱野茂さんのエッセー集のタイトルに「妻は借りもの」というのがある。
一見、ギョッとする人もあるかもしれないが、要するに、アイヌ民族にとっては、配偶者であれ自然のものであれ、なんでも所有するのではなく、一時的に天や大自然からお借りしてくるものだという考えであろう。持続可能な社会を目指すのに、ふさわしい考えだと思う。
これに倣えば、巨石も借りものである。
筆者は、札幌に置いておくことには賛成できない。
ファイナルトークでは、札幌国際芸術祭2014のメーン会場のひとつであった札幌芸術の森美術館の吉崎副館長が「中谷芙二子さんの霧の作品を残しては」と提言していた。
筆者は、これには異論は全くない。
作品としてもすばらしいものだ。
しかし、仄聞では、この作品のメンテナンスや維持には相当の費用がかかるらしい。
他の人の意見で、筆者がなるほどと思ったものにも言及しておこう。
ひとつは、北海道新聞10月22日付「読者の声」欄に載った、札幌の72歳男性の「芸術祭の巨石 今の地に」という一文。
この巨岩の前で、札幌国際芸術祭の冒頭にカムイノミが執り行われたことを踏まえ
「人間の静かな大地(アイヌ・モシリ)の近代化の歩と自然環境を見つめ直し、私たちの進むべき道を考えるためにも、ぜひ、この場所での展示を続けられるよう努力してほしい」
と締めくくっている。
筆者も、道庁赤れんが庁舎を出たとき、遠景にこの巨岩が目に入って、新鮮な衝撃に打たれた記憶が鮮明だったので、この意見も理解できる。
ただ、この場所は地下があるため、重量物を長期間置いておくと安全保安上の問題があるだろう。
除雪の際も妨げになりそうだ。
もうひとつは、筆者の若い知人がFacebookでつづっていたこと。
この巨岩をめぐって、対雁(ツイシカリ)強制移住を思い出した、というのだ。
ここで歴史をおさらいしておこう。
明治初期、ロシアとの間に結んだ「千島樺太交換条約」で、樺太(サハリン)がロシア領になったため、明治政府が樺太在住のアイヌ民族を対雁(現在の江別市対雁)に移住させたが、不慣れな土地での生活は苦労も多く、疫病の発生で死者も続出したという史実がある。
日露戦争の結果、南樺太が日本領になると、生き残った者たちは樺太に帰っていったという。
筆者もこれにはハッとさせられた。
私たちはかつて、アイヌ民族を自分たちの都合で故郷から引き離し、苦難を負わせた。
それと同じ仕打ちを、二風谷から運んできた岩に対して行っているのではないだろうか。
芸術祭の記念に、何か一つを残したい、という気持ちは分からなくもない。
ゼロ年代初期に行われた同種の催し(第1回の横浜トリエンナーレや、十勝帯広国際芸術祭デメーテル)では、同様の発想はなかったと思う。
その後、新潟県での「越後妻有(えちごつまり)アートトリエンナーレ 大地の芸術祭」が、作品を現地に残していくという方式を導入した。これはうまいことを考えたもので、第2回を見にきた人は、第1回の作品の多くも見られる。つまり、回を重ねるごとに、参加アーティスト数・作品数がどんどん増えて、鑑賞者の「お得感」も増していくのだ。
でもなあ。
いまさら、こんなことを言っても遅いかもしれないが、個人的には違和感の残る決着だった。
(対雁については別項で記す予定)