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札幌交響楽団第583回定期演奏会を聴いて。

2015年12月03日 09時50分53秒 | 音楽、舞台、映画、建築など
We hated all the shit they wrote and talked about Beethoven and ballet, all kidding themselves it was important. Now it's happining to us. None of it is important.
(John Lennon)


 筆者はクラシック音楽に明るくない。
 ぼんやりと聴いていること自体は好きだが、現代のクラシック音楽業界には何の興味もないし、正直どうでもいいと思っている。もう少し正確にいえば、バッハやシューマンは偉大だと思うし、好きだが、この指揮者のこの演奏は金管の響きがどうで、ピアノのリズムがどうのという言説にはどんな意味があるのかわからないのである。(あらゆる芸術ジャンルの中でそんな言説が批評としてまかり通っているのは、クラシック音楽と一部の舞踊だけだと思う)

 だから、筆者がクラシック音楽の演奏会に行って、何かを書くことにも、ほとんど意味はないと思うのだが、めったにない機会であるし、詳しくない人は語ってはいけないという空気がことさら強い業界であるようにも感じられるので、あえてしろうとの感想をいくらか記すことにしたい。

 1. 会場

 筆者がこの晩、札幌コンサートホールKitara に足を運んだのは、むろん仕事にかかわりがあるからだが、指揮者がウラディーミル・アシュケナージだったからという、ミーハー的な理由もあった。
 アシュケナージは世界的なピアニストだが、近年は指揮活動に軸足を移している。
(もっとも、CDなどで聴く限り、アシュケナージのピアノ演奏は生真面目で、天才的きらめきには乏しい)

 有名なオーケストラが東京と関西に集中しているなかで、札幌交響楽団は、地方オーケストラの雄として、群馬交響楽団と並んで有名な存在らしい。ちなみに札響のメンバーは全員プロである。

 会場で目立ったのは、60代以上の、とくに男性。
 年齢層はかなり高かった。カルチャーセンター帰りの絵画好きが多い平日の都心のギャラリーみたいだ。ギャラリーに比べると、男女比で、男性が多いようだった。

 これはある意味、やむをえないだろう。
 1950年代前半まで、音楽に熱中しようとしたら事実上、クラシックしか対象がなかったのである。
 ジャズはまだにぎやかな大衆音楽と位置づけられていたことは、アドルノの罵倒によってもわかるだろう。
 1966年、ビートルズが来日した際、社会現象として論じる人は多かったが、音楽として向き合った人はほとんどいなかった。当時、ビートルズは流行ととらえられていたのだ。ようやくモダンジャズが、批評したり、聴き比べたりする対象になり始めた時期だった。

 しかし、これからのことを考えたとき、この年齢層の偏りは、あまり喜ばしいことではないだろう。


2. モーツァルト

 この日、札幌交響楽団が演奏したのは次の3曲である。

・ベートーヴェン「プロメテウスの創造物」序曲

・モーツァルト ピアノ協奏曲第25番ハ長調 K.503
(「K」はケッヘルと読み、モーツァルトの曲を整理して番号をつけた人の名前です)

・ショスタコーヴィチ 交響曲第10番ホ短調

 1曲目は5分程度の短く、優しさに満ちた曲だった。
 最初に短い曲がくると、遅刻した人が会場に入りやすいという利点もある。

 モーツァルトは、筆者はツイッターには第21番と書いていたが、間違いでした。すみません。
 まあ、筆者のレベルでは、モーツァルトの音楽は、最晩年を別にすれば、ほとんど区別がつかない。どれも、まるで天使が作曲したような、陰りのない美しい音楽なのだ。

 聞いていると、映画「アマデウス」に登場するような貴族社会を思い出す。
 モーツァルトの音楽は、一般大衆にはなんの関係もない音楽なのだ。
 そして、そのかげりのない美しさは、現実社会から独立して聴くことを、わたしたちに強いるように思う。

 かつてモーツァルトの「コシ・ファン・トゥッテ」というオペラを聴いたことがあるが、真っ先に抱いた感想は、よくもこんなくだらない劇に、モーツァルトは全力で音楽をつけたなあ、というものだった。
 「コシ・ファン・トゥッテ」の劇は大人の鑑賞に堪えるものではない。当時の貴族社会のレベルが推して知れる。モーツァルトは、劇の筋書きや貴族社会のばかばかしさを括弧にくくらないと、鑑賞できないのである。
 それは、すぐれてモダンの芸術のあり方に共通する。文脈や社会から切断された純粋さが尊ばれる世界なのだ。


 そんなことを考えながら聴いていると、第1楽章のカデンツァで、フランス国歌の出だしが引用されて驚いた。これは、ピアノ奏者のアドリブだろう。
 テロ事件が起きたばかりのパリの人々へ、連帯の意思の表明だろうか。
 筆者は、クラシック音楽というのは、現実社会への意見を表明しづらいジャンルだと考えてきたが、やりようはあるのだなあと感心したのだった。


3. ショスタコービッチ

 ショスタコービッチはソヴィエトの作曲家であり、20世紀を代表する音楽家のひとりである。

 ソヴィエトの全体主義は芸術家に過酷な運命を強いた。
 多くは、粛清・弾圧されるか、亡命するか、共産党に迎合して御用作家になるかの三つの道しか残されていなかった(アシュケナージは事実上、第二の道を選び、ソヴィエトには戻らなかった)。
 ショスタコービッチは、そのいずれでもない。共産党政権に厳しく批判されながら、ときには共産主義礼賛の曲を書き、微妙なスタンスを取りながらソヴィエトに残り続けた稀有なアーティストだったのだ。

 交響曲第10番は、独裁者スターリンの死んだ直後に発表された。
 この時期のショスタコービッチの作品は、単純に批判されないようわざと難解に作られているという説があるが、じっと聴いていると、メロディーがどこに着地するのかわからず、実にスリリングな展開をするのだ。感情を抑えたところと高揚させたところが交互に訪れ、一時も耳を離せない展開が続く。
 この曲は、管楽器のソロパートも多い。オーボエ、ファゴット、ピッコロなど、それぞれに健闘し、静かな部分の演奏を支えていた。そしてクライマックスでは、金管がほえ、弦楽器が鳴りまくり、どらが響き渡った。
 髪を振り乱すように激しく演奏する弦楽器パートを見ていると、Zepp Sapporo でのブランキージェットシティのラストライブでオーディエンスがうねりのように左に右に動いていた情景を思い出すのだった。

 第1楽章のクライマックスがピークであり、第2楽章以降は、すでに聴きどころを終えたあとの演奏であったといえなくもない。もちろん、テンションの高さは最後まで持続していた。
 決して易しくはないであろうこの曲を、最後までじゅうぶんに演奏しきったアシュケナージと札響には、大きな拍手を送るべきだろう。見事な演奏だったと思う。


 ショスタコービッチがこんなにすばらしいのなら、これからどんどん聴いていきたい。
 その一方で、このテンションの高さだと、エレクトリック・マイルスと同様に、1曲聴き終わると、どっと疲れが出るんだろうなあ。


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