予定通りに雨の一日になった。台風5号は熱帯低気圧になったようで一安心。雨も大雨にはならず、穏やかな雨になっている。
それでも、傘をさして散歩でもしようかと歩き出すと、やはり激しい雨に圧倒されて数分で家に戻ってしまった。だから、今日はどこにも出かけられず、行く当てもない。とりあえず、明日の午後に、マイ・ボートの係留ロープを外さないと落ち着かない。その後のことはそのときに考える。
♪雨の降る日は 雨のよに
風吹く夜には 風のように
晴れた朝には 晴れやかに~♪
と、西田敏行の歌を口ずさみながら・・・夏休みの自由研究を続けることにした。つまりは・・この島で行われる秋の文化祭「ふれ愛まつり」に出展するもの。
昨日は「古川阪次郎」について触れたが、今日はあの石碑にあった、もう一人の「山口嘉次郎」についてである。この山口嘉次郎さんもこのしわく広島の「市井浦」に明治8年に生まれた。長じてからは塩飽船大工を生業としたが、それに飽きたらず、明治34年に満州に渡り、材木業で成功した。
これが嘉次郎さんの生家。この門には「山口嘉次郎」の表札が残る。
これは昭和12年に、嘉次郎さんが教育発展のために建てたという「教員住宅」。当時の小学校はこの写真の左手の山の上にあったらしい。今は礎石が残るのみ。学校はその後、青木浦に移転されて「広島西小学校」として今も建物は残っている。その運動場脇にあるのが「古川阪次郎頌徳碑(しょうとくひ)」:昨日掲載写真。
これは、嘉次郎さんが檀那寺のために水田を寄付したという記念碑。水田4反8畝というからずいぶんと広い田んぼがあったようだ。今はこの集落に水田は一筆もない。
昭和15年が「紀元2600年」ということで、多額の寄付をした記念碑が昨日にアップしたもの。その頃から、屋島山麓に「興亜中学」を開校して、世界に羽ばたく若者を育成した。しかし、敗戦と同時に、この中学も「屋島中学」に改称され、その後高松第一高校に統合され、敷地は四国電力学園に売却されて今に至っている。
敗戦と同時に朝鮮半島で権益を失った嘉次郎は学校も失い、失意の中から、「山口財団法人」を基礎として、丸亀城下に「塩飽学生寮」を昭和31年に建て、塩飽の島々から勉学に励む若者を受け入れて便宜を図ってきた。平成2年には今の宇多津町に移転して来た。この胸像が山口嘉次郎氏。
今日の昼は我が家でのカレーうどん。可もなく不可もなく・・・。
珍しく・・・郵便屋さんが来た。「なにやろ・・・」と開いてみたら、FB(フェイスブック)友人からのバースデーカードだった。
今日の掲示板はこれ。「人間は迷惑を掛け合う存在である」という言葉。よく、こどもらに「人に迷惑をかけたらあかん・・」「人に迷惑をかける人間にはなるな」というが、人が生きていく上で、いくらもいくらも迷惑を掛ける我らである。そのことを理解して、他人様の迷惑を許す存在でもある。
じゃぁ、また、明日、会えるといいね。