まほろば自然博物館

つれづれに、瀬戸のまほろばから自然の様子や民俗・歴史や見聞きしたおはなしをしたいと思います。

読書して 診察を待つ 日の永さ

2016年09月01日 | 今日もまた、病院に行って・・・。

 さぬき市方は高気圧に覆われて晴れていたが、午後からは雲が広がってきた。気温は22.1度から31.6度、湿度は82%から46%、風は1mから2mの東北東の風が少しばかり。明日の2日は、引き続き高気圧に覆われて概ね晴れる見込みらしい。

 

 朝方は肌寒くて薄いブルゾンを探して着て羽織っていた。

 

 今日は月に一度の「予約診察日」。お薬を調合・処方していただく日である。最近は自重気味にしているので、体調的には問題ない筈。

 

 今日の予約時間は11時半。血液検査に1時間以上かかるので10時半前に病院に入ればいい計算だが、今日は朝食抜きで来てくださいということだったので少し早めに出た。家にいると、ついつい、お茶だの水だのを飲んでしまう。

 

 ということで、9時過ぎに病院に着いた。これはあまりにも早すぎた。採血だって、予約時間を計算しながら採血するので、あんまり早くには処置してくれない。そこで、昨日借りて来た本を読んでいた。

 

 観音寺市の建てた案内看板である。これが通説となっているのだが、その借りて来た本には、20人ほどのパネラーが銭形についての持論を展開しているし、さまざまなメディアが書いた記事や歴史書からの資料なども掲載されている。

 

 その中に、琴弾八幡宮の宮司さんの記事が興味深かった。江戸時代の各種記録や文書、歴史書、風土記などには一切、記載がない。あの砂浜は、「四国霊場・観音寺神恵院」の境内地であった。そんな場所に巨大な砂絵を作ったら、当然、記録として残されるはずであるという。この神社の記録にも一切、砂絵はない。

 

 明治になって「神仏分離」が行われて、その調査に多和神社の松岡調(みつぐ)という神祇官が明治2年にやってきた。この男は執拗な男であったが、その記録にも、あの砂絵はないという。つまり、明治2年までは、寛永通宝の砂絵はなかったのである。

 

 その後、明治33年の絵はがきには、この砂絵があるという。ここが県立公園になったのは明治30年。県立公園内にこんなものを作ったら記録に残るはずだし、許可されない筈。だとすれば、神仏分離で、あの砂浜が神恵院の境内地から外された明治9年以降、明治30年までの間に、何らかの私的な団体が、この砂絵を描いたと考えられる。公的な団体であれば、必ず記録が残るはずである。

 

 また、市内の古老たちは、「砂絵は小学生の腰くらいしかなかった」と発言しているが、現在は1.8mから2.0mくらいの高さになっている。これは三豊郡内の天理教の信者さんたちが「ひのきしん」で砂ざらえをしたり、秋には近くの観音寺中学校の生徒さんや一般の方の奉仕で整形されているのだそうである。

 

 で、現在は、この山頂から、天理教の会長さんがトランシーバーで指示をしながら整形しているのだそうである。昔は手旗信号や伝令役が山を上下しながら指示をしていたとかの苦労話も楽しんだ。

 

 今回も35日分ということでお薬がどっさりと・・・。

 

 その薬代がこれ・・・。病院代が5,000円ほど。利尿剤のサムスカ錠剤が高いのだから仕方がない。

 

 今日の掲示板はこれ。「どんなに賢くても 人間自分の背中を見ることはできない」というもので、いつもお世話になっている赤松先生のお寺の掲示板から。これは、山本周五郎の書いた小説「さぶ」の中に出て来る言葉。栄二という表具職人がいた。男前だし頭が切れる。仕事の腕もいい。ただ、その自信からか、言うこと、することに嫌味が出るところがある。そんな栄二に、ベテランの職人与平が諭して語る。「どんなに賢くても、人間、自分の背中を見ることはできないんだからね」。自分はうぬぼれていない。うぬぼれを表に出していないと思って居ても、背中がうぬぼれを語っている。自分の心の内にあるうぬぼれを、”背中が見せて”しまっている。

 

じゃぁ、また、明日、会えたらいいね。


ツイッター

<script type="text/javascript" src="//platform.twitter.com/widgets.js"></script>