さぬき市地方は、高気圧に覆われて概ね晴れていたが、気圧の谷や湿った空気の影響で午後から曇ってきた。気温は3.1度から10.4度、湿度は94%から72%。風は1mから3mの東北東の風が冷たくなってきた。明日の8日は、低気圧が四国沖を東北東に進すむため雨が降るが、昼過ぎからは曇りとなるらしい。
朝方はすっきりと晴れて風もなくいい天気だったので、恒例の集落内パトロール散歩をやってきた。相変わらずサルの軍団が水田の落ち穂拾いをやっていて賑やかだった。
最近、仏生山法然寺の記事がなかった。もっぱら遍路札や俵札のことばかりだった。ということで、これまでに調べたことを幾つか書き残しておこうと思う。仏生山法然寺の参道である。真ん中あたりに火災で焼失した「二尊堂」があった。その先に見えるのが「文殊楼」。その背後にあるのが「般若台」である。
徳川御三家の一つ、水戸本家から讃岐に入府した「松平頼重公」が第一代高松藩主となった。そこで、この香川郡百相(もまい)村の「雄山」山頂に「松平家墓所」を作った。高松城から南に一直線で、その距離は8.5Km。有事の際の「詰めの城」となる場所だった。法然寺は、その墓守番で、菩提寺となった。
これが、松平家墓所、般若台の図面である。4300平方mの敷地に204基のお墓が並んでいる。
その右部分であるが、来迎堂の真後ろにあるのが、初代松平頼重公のお墓である。最後の最後のとき、この墓前で切腹自刃するということを聞いたが、ここで自刃した藩主はいない。
これが、般若台に入る唯一の門で、「般若門」と呼ばれている。私が若い頃には自由に出入りできたが、近年は硬く施錠されていて入ることはできなくなった。
これが、初代頼重公のお墓と、左に見えるのが三代頼豊公のお墓である。二代賴常公、九代賴恕(よりひろ)の二人は儒教方式のため、さぬき市の霊芝寺に埋葬されている。
これが三代頼豊公のお墓、その向こうに初代頼重公のお墓。玉垣のないものは子どもや家臣などのお墓らしい。
この般若台の真ん中、しかも一番高いところにあるのが「祖師上人塔」で、浄土宗開祖の法然上人をおまつりしてある。
このように、般若台には累々と、正室・側室、子どもなどのお墓が、北の高松城を向いて建てられている。
このように玉垣のあるものは藩主のお墓である。資料は香川県ミュージアム発行の「高松藩主松平家墓所調査報告書」を参考にさせていただいた。
讃岐高松藩の第十一代藩主松平頼聰(よりとし)の墓と遺骨が先年、東京の谷中霊園から高松市の法然寺にある松平家墓所に移転された。頼聰は幕末の動乱期に家督を継いだ最後の藩主で、明治二年の版籍奉還で高松藩知事に任じられていたが、のち東京に移住し、東京で没した。
この夫妻のお墓が解体され、二千個の石材がトラックで運ばれて般若台に納められたのは2015年3月のことだった。
今日の掲示板はこれ。。「先のことは誰にも分からない でも、今できることを即実行・継続 これが将来を開く」というもの。先のことは誰にも分からないもの。だから、今できることを即実行し、継続する。それはそれでいいことなんだけれども、それが将来を開くかどうかは・・・「先のことは誰にも分からない」のだ・・・。
じゃぁ、また、明日、会えるといいね。