まほろば自然博物館

つれづれに、瀬戸のまほろばから自然の様子や民俗・歴史や見聞きしたおはなしをしたいと思います。

補陀落の 初観音や 庭静か

2019年01月18日 | 観光ガイド的日常

 さぬき市地方は冬型の気圧配置は次第に緩むため、概ね晴れていた。気温は6.0度から10.8度、湿度は74%から58%、風は2mから5mの西の風が少しばかり。明日の19日は、高気圧に覆われて晴れる見込みらしい。

 

 128/65-67 36.5c-97% 60.4Kg 1021hPa,8c,48% おなか回りが軽くなったせいか、呼吸が楽になってきた。だから歩いても呼吸できなくなることはなくなってきた。

 

 それに天気もいいことだし、毎日引きこもってパソコンばかりでは身体に良くないぞ・・と、今日は志度寺さんにやってきた。この境内にはたくさんの石造物があるということだった。

 

 これが、四国遍路の父と呼ばれた「真念」さんの道標で、香川県下には11基があるが、さぬき市内にはここだけしかない。

 

 これは、養成講座でも勉強しなかったが、「日本回国六十六部供養塔」である。六十六部というのは、法華経を66回書写して、一部ずつを全国66か所の霊場に納めて歩いた巡礼者。室町時代に始まるという。また、江戸時代に、仏像を入れた厨子(ずし)を背負って鉦(かね)や鈴を鳴らして米銭を請い歩いた者。略して「六部(ろくぶ)」とも言った。その成就した記念碑である。

 

 ここには、「宝永六年六月」と刻まれ、1711年のものである。地元の商人が寄付をして建てたものらしい。

 

 これは井豫の住人「武田徳右エ門」が願主となって建てた道標で、「是より長尾寺へ一里半」と刻まれている。当初は志度寺山門前参道にあったが、事故で倒れ、永らく境内に横積みされていたが、いつの頃からか、納経所手前に建てられている。

 

 で、境内をくまなく探し回ったが、「台座」という道標が見当たらない。地蔵か観音さまかの台座になっているらしいのだが。

 

 ついでに、「無染庭」ものぞいてきた。今日はお遍路さんもいなくて静かな志度寺だった。

 

 境内には、このような記念碑や石仏、石橋、寄進石などが雑多に積み上げられているが、肝心の台座は見つからない。

 

 これは高松藩主の「生駒親正」公のお墓である。ま、こういう有名無名の石碑や墓標なんぞが立ち並んでいる。

 

 で、帰るとすぐに、見てきたことをまとめておく。明日になれば忘れてしまうからである。

 

 宥辨 真念(ゆうべん しんねん、出生年は不明、没年は1692年〈元禄5年〉、または1691年〈元禄4年〉の説もある)は、江戸時代初期の高野聖。 その生涯の長らくにわたり四国八十八箇所の巡拝を行うとともに、それにまつわる様々な活動を行って四国遍路を広く人々に知らしめたことから「遍路の父」「四国遍路中興の祖」と云われる。「四國邊路道指南(みちしるべ)」「四國偏礼功徳記」など庶民に遍路を紹介する書物を記した。高松市牟礼町の洲崎寺に墓がある。

 

 で、明日以降の調査のための準備もやっておいた。

 

 今日の掲示板はこれ。「カタツムリ どこで死んでも 我が家かな」という小林一茶の俳句から。かたつむりは、どこで命終わろうとも、そこがわが家であるから何の心配もいらない。私たちは、いつ、どこで、どのような命の終わり方をしようとも、常に阿弥陀さまの救いの中である。一茶は、阿弥陀さまと共に人生を歩む人のことをかたつむりに託して詠んだのだろう。最近は、我が家で死を迎える人は少なくなったけれど、「なむあみだ どこで死んでも 我が家かな」そういう気持ちで生きてゆきたいものである。

 

じゃぁ、また、明日、会えたら、いいね。


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