まほろば自然博物館

つれづれに、瀬戸のまほろばから自然の様子や民俗・歴史や見聞きしたおはなしをしたいと思います。

来てみれば ここにも年賀の 束がある

2012年01月15日 | 時には日々是日

 今日は朝から曇って・・・肌寒い一日・・・。それにしても雨が降らないから・・・空気が乾燥して肌も顔も目玉もからから・・・。女性はなんだかんだと顔や手足に塗るらしいが、男性用なんちゃらというのは、ここにはない。

 

 さて、1月前半のご用が一区切りしたし、けいこばぁが家にいるようになったもので、さっちゃん用の主夫をちょいと休憩して島にやってきた。そのためには・・・朝から・・・生ゴミ・空き缶・燃えるゴミなどの片付けをこなし、十五日ということで、山からサカキを採ってきて、神棚の松からサカキに入れ替えて、御神酒も入れ替えて・・・お供えのお餅ほかをお下げして・・・。

 

 用意万端整ったら・・・ようやくに島に向かうことに。昨日のお店で、浄化槽用のブロアを買ったり、スーパーでビールやら食材を買って・・・。11時10分の高速艇に乗れた・・・。

 

 明日の朝10時から「お大師まいり100周年記念法要」の打合会が丸亀で行われるので、今晩だけの食材だけを買って急いでこの・・高速艇「ニュービサン」に乗った。

 

 次は・・13時半のフェリーだから・・2時間半も無駄にするから・・・大急ぎだった。ま、急ぐ旅ではないのだけれど。海上15分弱で・・・さぬき広島に着く。だから・・・今日のお昼は・・・自作の・・・「ハヤシうどん」になった。

 

 食後はゆっくりする間もなく・・・ブロアの交換・・・。このブアロアは、浄化槽に空気を送り込むエア・ポンプで、十数年も回し続けていると・・・空気を送らなくなっていた。

 

 年末に浄化槽の点検に来た人から、「ホームセンターで買って、自分で交換しといてください。私がやると技術料ほかが上乗せになりますから・・」というので、自分で交換と言うことになった。

 

 この右側の楕円形のものが壊れてるもの。要は・・・真ん中の黒いゴムパイプを差し込むだけ。で、コンセントを差し替えればそれでOK。技術もなにもいらない・・・。早速にゴゴゴゴ・・・と軽快に動き出した。

 

 で、冷えた身体をあたためようと・・・お昼からお風呂だ。その前に・・・少しだけ・・・「レキの墓」の調査に出かけた。うーむ。この話の原典はどこから出たのかねぇ・・・。それがわからん・・。

 

 この石碑の向かって右側に・・・「明治元年・・」と刻んであって、「左面に十一月七日」と刻んである。裏面には何も文字は刻んでいない・・・。この日付は・・・このレキさんの亡くなった日ではないのか・・・。お墓を建てた年月日なのだろうか・・・。

 

 調査もそこそこに戻って・・・お風呂に入った・・・。小原庄助さんみたいになるぞ・・・。

 

 今日の掲示板はこれ。

 「伸びる わか竹 親竹こえる 親をこえるも 親の恩」

 もうひとつは・・・。

 「施して 報いを 願わず 受けて 恩を 忘れず」とある・・・。

 余計な解釈は無粋というもの。

  

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。 



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2 コメント

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ウェブの情報 (士官レキのファン)
2012-01-15 18:58:30
士官レキのファンです。またお邪魔させていただきます。

その後ウェブで調べた情報です。

Extremes: contradictions in contemporary Japanという本が2004年に出版されています。その中に広島の士官レキの墓に関する記述があります。

士官レキの墓を訪れた後に、墓のことを調べてみると、オーストラリアのHarold S. Williamsという方が1967年に調べた資料がオーストラリア国立図書館に保管されていたそうです。

本の作者は、その資料のコピーをオーストラリア国立図書館から送ってもらったそうです。その資料の一部が本の中で紹介されています。

紹介されている資料は、1899年に日本で発行されていた英字紙の記事の一部です。Nagasaki PressとKobe Chronicleの2紙の記事が紹介されています。

前にTimesの記事についてお知らせしたしましたが、その記事のもとになっているのが、これら日本で発行された英字紙の情報のようです。

当時、英国公使であったアーネスト・サトウに士官レキの墓のことが知らされ、アーネスト・サトウは外務大臣に礼状を送ったと記述されています。

アーネスト・サトウの日記にも関連の記述があるようです。

ウェブで検索すると、オーストラリア国立図書館に保管されているHarold S. Williamsのコレクションの中に、

British naval officer Lake’s grave on Hiro Island という項目があり、その説明は「Notes, press cuttings and a photograph taken in 1967 relating to a British seaman from the surveying vessel HMS Sylvia, who was buried on Hiro Island in 1868. 」とあります。

1899年当時は、レキさんは1868年に葬られたと英字紙で報道されていたようです。英字紙で報じられた1899年に日本語の新聞で報じられることはなかったのでしょうか。

ちなみに、Kobe Chronicleには、小泉八雲も記者として在籍していたことがあるそうです。

話は変わりますが、ブラントンが造った角島灯台の建設監督であり灯明番教授方であったジョセフ・ディックさんは、地元の方に「レキさん」と呼ばれていたそうです。

レキさんの本当の名前はどんな名前なのでしょうか。

また、何か見つけたらお邪魔します。
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いつもおせわさまです。 (まほろば)
2012-01-16 07:04:10
その1899年の日本語新聞はまだ見たことがないのですが、そういう時期の新聞ならばまだ、大坂あたりの新聞でしょうね。地方だと明治32年というと、そんなに発達していないでしょうに。
 どうやって調べたらいいものか・・。
 昨夜も自治会長さんと話していたのですが、レキさんは1868年死亡説が有力ですが、ジョン艦長の・・・1866年・・・という日付に何があったんだろうか・・と。レキは二人いるのだろうか。

 それと、後に青木周蔵宛に本国から感謝状が届いた・・・というのも気にかかっている。それがアーネスト・サトウが明治30年代に外務大臣に感謝状を贈ったということかな。
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