カメラ日和にちょっと触発されてデジカメを引っ張り出してきた。
カシオのQV-4000という古い機種だが、400万画素でレンズはF2.0と結構明るく、写りもまんざら悪くない。ちょっと野暮ったい格好をしているので持って歩く喜びみたいなものはないけど。
窓際にいけてある花を三脚を立てて撮影。天気が悪く外の光だけでは暗くて手持ちは無理。
ちょっと横にあったクリスマスツリーの光を当てて撮ってみた。
久しぶりのデジカメだけど、それはそれで結構楽しいね。
カシオのQV-4000という古い機種だが、400万画素でレンズはF2.0と結構明るく、写りもまんざら悪くない。ちょっと野暮ったい格好をしているので持って歩く喜びみたいなものはないけど。
窓際にいけてある花を三脚を立てて撮影。天気が悪く外の光だけでは暗くて手持ちは無理。
ちょっと横にあったクリスマスツリーの光を当てて撮ってみた。
久しぶりのデジカメだけど、それはそれで結構楽しいね。
このブログはあまりコメントやトラックバックはないけど、普通はそういう他人とのリンクがブログをブログたらしめる。自分だって、誰かにこの文章が見られていると思っている意識の上で書いてる。誰も読まないものを書いても仕方がないのだから。
自分が誰なのかを知るためには、他人と何らかの関係を持つしかない。それは言葉の単語の意味がそれ自身では定義できないのと同じだ。言葉は他の言葉との関係によってのみ定義しうる。言葉それ自身は、符牒に過ぎない。だってそうでしょう。
でも、たとえば花と言う言葉の持つ響きやその文字の形の持つ印象、そういうその言葉本来が持っている意味と言うものも否定できないかもしれない。それは言葉ではもう説明できない。きわめて主観的なものだけど。
それは主観的という意味において「自己満足的」な事柄に過ぎない。
写真だってそうかもしれない。撮った写真を他人に見せて何かを伝えることが、写真に意味をもたらすのだろうけれど、一方で自己満足でもある。
部屋を素敵な写真で飾ったり、デスクの上にオリジナルのカレンダーをおいたり。みんな自己満足。
なぜそんなことをするんだろう?だって、そうでもしてなきゃやってられないから。。じゃない?
僕もこのブログをもうちょっと飾り付けたくなってきたなあ。最近あまり使ってないデジカメ。このブログ用に取り出してみようかなと思っている。
自分が誰なのかを知るためには、他人と何らかの関係を持つしかない。それは言葉の単語の意味がそれ自身では定義できないのと同じだ。言葉は他の言葉との関係によってのみ定義しうる。言葉それ自身は、符牒に過ぎない。だってそうでしょう。
でも、たとえば花と言う言葉の持つ響きやその文字の形の持つ印象、そういうその言葉本来が持っている意味と言うものも否定できないかもしれない。それは言葉ではもう説明できない。きわめて主観的なものだけど。
それは主観的という意味において「自己満足的」な事柄に過ぎない。
写真だってそうかもしれない。撮った写真を他人に見せて何かを伝えることが、写真に意味をもたらすのだろうけれど、一方で自己満足でもある。
部屋を素敵な写真で飾ったり、デスクの上にオリジナルのカレンダーをおいたり。みんな自己満足。
なぜそんなことをするんだろう?だって、そうでもしてなきゃやってられないから。。じゃない?
僕もこのブログをもうちょっと飾り付けたくなってきたなあ。最近あまり使ってないデジカメ。このブログ用に取り出してみようかなと思っている。