少年カメラ・クラブ

子供心を失わない大人であり続けたいと思います。

波打つ精神について

2005-12-30 20:43:35 | 哲学
僕の精神は波を打っている。いろいろな周期で大きくそして小さく波を打つ。僕はそれを自ら観察することが出来る。そのことに気がつくのに40年ほどかかったが、いま僕はそれを客観的に観測することが出来る。

なぜか。その波はどこからやってくるのか。それは外からやってくる。僕の周りに繰り広げられる全てのことは波打っている。全ての事柄は変化し、絶えず波打っている。

僕の心はその宇宙の様々な波にシンクロする。だから僕の精神は波打つのだ。宇宙の全ての事柄とシンクロする僕の心は宇宙そのものとも言える。宇宙と心は等価なのである。

それは厳密にいえるのか。多分そうではない。ほぼシンクロしているだけだ。両者にはわずかなずれがある。そのずれこそが意識なのではないのだろうか。

意識が宇宙をかえる。わずかだが、宇宙とシンクロしないその意識が宇宙を変える。99%のシンクロと1%の不協和音。それが人生だ。

作り出される意識

2005-12-30 10:08:51 | 哲学
双眼装置を使って天体観測をしていた。その日は月のクレータを観察した。天体観測では、見る対象によってフィルターをつけてみることがある。青いフィルタやオレンジ色のフィルタなど、見る対象が月か惑星か、はたまた星雲かで使い分ける。星雲などの淡い対象を見るときは都会の人工的な光だけをブロックするようなフィルタもある。

僕はオレンジ色のフィルタしか持っていないのだが、それを使うと月のディテールがよく見えるらしい。ただの色めがねなのに不思議な気もするが、光の波長によって大気による撹乱などの影響の受け方が違うので、結果として見え方が違ってくるらしいのである。

僕の持っている双眼装置は、フィルターをつけることが出来ない。両方の接眼レンズに同じフィルタをつければいいのだが、2個持っていない。仕方がないので、片方の接眼レンズだけにフィルタをつけてみた。片方の目でみると普通の色になり、反対の眼にはオレンジ色っぽくなった月が見える。なんだか変な感じだが、両目を開けてみると、オレンジ色の情報が目立つのか全体がオレンジ色になっているように感じられた。

その後、不思議なことが起こった。それまでクレータはボールのようにへこんでいるように見えていたのが、突然ドームのようにでっぱっているように見え始めたのだ。もう、そこは月ではなかった。溶けた溶岩の表面に盛り上がる蒸気のように、月の表面はボコボコと沸騰し始めたのだ。


そして、また数秒経つと別のことが起こり始める。溶岩のように見えた月の表面は、光と影の境目のところに行くと、僕の脳みそは上手く認識ができなくなってしまうのだ。それに気がついた瞬間、目の前の景色は元のクレータに戻ったのだ。

面白いと思ってしばらく眺めていると、またリバースされたイメージが意識にのぼってくる。そして、また元に、、、それは何度も何度も繰り返された。念のためにフィルタをつける接眼レンズを反対にしてみたのだが、結果は同じだった。

意識、それは僕たちが外からの情報を処理して自主的に感じているものだと思っていた。意識を作っている誰かなんているはずないと思っていた。でも、それは明らかに間違いである。意識は作り上げられている。入ってくる情報に無理やり意味をつけてイメージを作り上げているのだ。

月に限らず景色を見て、それが目の前に広がった絶対的な存在だと人々は思う。でも、その景色は客観的な事実ではない。入ってきた膨大な情報によって作り上げられたフィクションなのである。同じ景色でも、人それぞれにその感じ方が違うように、いろいろな形で認識されるのである。

でもそこにもう一つの疑問も生じる。そう、作り出されている自分の知覚を客観的に見ている僕の意識、それって一体何なんだろう。これもまたつくりだされたものなのか、それとも。。