昔、オフコースのヒット曲にYes-Noという歌があった。今ではもう懐メロといってもいいかも知れない。恋愛に限ったことではなく、世の中の物事に直面して、人は単純に言えばYesかNoかのどちらかの判断を下す。新聞やテレビだけではなく、会社の中にいても最近の世の中は、どちらかといえば(いやほとんど全部かもしれない)Noという判断を下すことが多いように思う。民主党もNo、海上保安庁もNo、アメリカもNo、中国もNo、会社の上司もNo、みんなNoだらけだ。そりゃ、みんなだらしないからNoと言われても仕方がないのかもしれない。
ところで人の意識というのは、普通それぞれ個人が自由な「意識」を持っている、と思っている。でも、心理学の研究成果からは、どうもそうではないらしいことが明らかないなっている。脳の中に並行して走っているたくさんのプロセスが協調したり、競争したりした結果、まあ、こんなところかなというとこころで意識が「作られている」らしい。たとえば恐怖を体験した時に、時間の経過がゆっくりに感じられることや、パニックに陥った時に反射的ともいえるような行動をしてしまうことなどを見ると、確かに意識というのは自分でコントロールしているというよりも、どこかで作られているような気がしないでもない。
脳の中でNoという判断には、論理的な思考をつかさどる前頭前皮質が関与しており、これに対してYesという判断には、扁桃核という脳の中心に近い原始的な部分が関与している。身の回りのことに何でもNoと言っている人の脳の中では、前頭前皮質がフル回転しているはずだ。歴史の中で繰り返し現状に異を唱え、少しでも良い方向に導いていこうとしていく姿勢によってこの社会が築かれたことを考えると、前頭前皮質というのは人間の文明そのものといってもいいかもしれない。文明とはNoと一体なのだ。これに対してYesというのは、本能的な部分と密接に結びついている。それは生きるための素早い判断を下す扁桃核で実行されるプログラムであり、反射的な行動で動物的と言える行動だ。
Noという判断こそが、この社会を築いている。
「おれはいやだから、こっちへ行く!」
そうやってあっちへ行く人とこっちへ行く人が出来た。みんなが同じ方向へいったら羊の群れになってしまう。良く考えて自らの判断を下す。それが社会というものだ。
でも、世の中これだけよく分からなくなってくると、新しいけどスピードの遅い前頭前皮質だけでは、上手くいかなくなってしまうかもしれない。こんな時は、扁桃核のような、紋切り型だけど猛烈なスピードの並列コンピュータの力も借りた方が良さそうだ。その脳みその部分のスイッチを入れるキーワードがYesらしい。そして、人の意識の中で、それらの並列プロセスは、他の人としてイメージされるんだと思う。他の人を許すことは、自らの並列プロセスを走らせると等価なことなのだ。人の意識というのは、そういう風に作られているに違いない。
Yes-Yes-Yes。これもオフコースの歌だったかな?
ところで人の意識というのは、普通それぞれ個人が自由な「意識」を持っている、と思っている。でも、心理学の研究成果からは、どうもそうではないらしいことが明らかないなっている。脳の中に並行して走っているたくさんのプロセスが協調したり、競争したりした結果、まあ、こんなところかなというとこころで意識が「作られている」らしい。たとえば恐怖を体験した時に、時間の経過がゆっくりに感じられることや、パニックに陥った時に反射的ともいえるような行動をしてしまうことなどを見ると、確かに意識というのは自分でコントロールしているというよりも、どこかで作られているような気がしないでもない。
脳の中でNoという判断には、論理的な思考をつかさどる前頭前皮質が関与しており、これに対してYesという判断には、扁桃核という脳の中心に近い原始的な部分が関与している。身の回りのことに何でもNoと言っている人の脳の中では、前頭前皮質がフル回転しているはずだ。歴史の中で繰り返し現状に異を唱え、少しでも良い方向に導いていこうとしていく姿勢によってこの社会が築かれたことを考えると、前頭前皮質というのは人間の文明そのものといってもいいかもしれない。文明とはNoと一体なのだ。これに対してYesというのは、本能的な部分と密接に結びついている。それは生きるための素早い判断を下す扁桃核で実行されるプログラムであり、反射的な行動で動物的と言える行動だ。
Noという判断こそが、この社会を築いている。
「おれはいやだから、こっちへ行く!」
そうやってあっちへ行く人とこっちへ行く人が出来た。みんなが同じ方向へいったら羊の群れになってしまう。良く考えて自らの判断を下す。それが社会というものだ。
でも、世の中これだけよく分からなくなってくると、新しいけどスピードの遅い前頭前皮質だけでは、上手くいかなくなってしまうかもしれない。こんな時は、扁桃核のような、紋切り型だけど猛烈なスピードの並列コンピュータの力も借りた方が良さそうだ。その脳みその部分のスイッチを入れるキーワードがYesらしい。そして、人の意識の中で、それらの並列プロセスは、他の人としてイメージされるんだと思う。他の人を許すことは、自らの並列プロセスを走らせると等価なことなのだ。人の意識というのは、そういう風に作られているに違いない。
Yes-Yes-Yes。これもオフコースの歌だったかな?