この日は 三連休の日曜日、日光街道の宿場町めぐりも「古河宿」まで来た。
古河は、足利時代後期に足利家が五代にわたり「古河公方」として居城を構
えた北関東の政治的中心地で、江戸時代には日光街道の宿場としても栄えた。
また 古河城は 譜代大名が配され、将軍の日光社参の際の宿所になっていた。
先ずは、JR古河駅西口からほど近い古河公方ゆかりの「大聖院」を訪ねた。
次に街中を南に進み、「八幡神社」と「清水酒造」を覗き見て西に向かって
間もなく 日光街道に出ると、左手の前方に「お茶屋口址」の石碑があった。
ここから北への街道が「旧古河宿」になるのだが、近年の道路拡幅によって
古い町並みは消えているので、鍵の手に入った 西側脇道の町人町を進んだ。
北に向かうあたりが、穀物商の多い「石町」や「大工町」と呼ばれる街並み。
道の左側に「了正寺」があり、続いて古河城乾門を移築した「福法寺」があ
り、右側に店蔵を改修した 国登録有形文化財の お休み処「坂長」があった。
ふたたび街道筋に出て北に進むと、右側に「高札場址」の石碑があり左側に
「本陣跡」の石碑、さらに進むと 四つ角右側に大きな石の「道標」がある。
ここで左折して西に向かった右手に神宮寺があり、間もなく右に折れて北に
向かうあたりが古河宿の横町で、街道に並行した左の通りに歴代公方の祈願
所「徳星寺」や「正麟寺」を見て、土井利勝の母を弔う「本成寺」にまわる。
ここから駅への帰り道、途中の商家「みらい蔵」で昼食をとって散策を終了。
『古河の街は見どころが多く、武家町周辺の散策は次回にした』と、独り言。
10日は総選挙公示日、支持に迷いはないが新しい対決構図で予測は難しい。
古河は、足利時代後期に足利家が五代にわたり「古河公方」として居城を構
えた北関東の政治的中心地で、江戸時代には日光街道の宿場としても栄えた。
また 古河城は 譜代大名が配され、将軍の日光社参の際の宿所になっていた。
先ずは、JR古河駅西口からほど近い古河公方ゆかりの「大聖院」を訪ねた。
次に街中を南に進み、「八幡神社」と「清水酒造」を覗き見て西に向かって
間もなく 日光街道に出ると、左手の前方に「お茶屋口址」の石碑があった。
ここから北への街道が「旧古河宿」になるのだが、近年の道路拡幅によって
古い町並みは消えているので、鍵の手に入った 西側脇道の町人町を進んだ。
北に向かうあたりが、穀物商の多い「石町」や「大工町」と呼ばれる街並み。
道の左側に「了正寺」があり、続いて古河城乾門を移築した「福法寺」があ
り、右側に店蔵を改修した 国登録有形文化財の お休み処「坂長」があった。
ふたたび街道筋に出て北に進むと、右側に「高札場址」の石碑があり左側に
「本陣跡」の石碑、さらに進むと 四つ角右側に大きな石の「道標」がある。
ここで左折して西に向かった右手に神宮寺があり、間もなく右に折れて北に
向かうあたりが古河宿の横町で、街道に並行した左の通りに歴代公方の祈願
所「徳星寺」や「正麟寺」を見て、土井利勝の母を弔う「本成寺」にまわる。
ここから駅への帰り道、途中の商家「みらい蔵」で昼食をとって散策を終了。
『古河の街は見どころが多く、武家町周辺の散策は次回にした』と、独り言。
10日は総選挙公示日、支持に迷いはないが新しい対決構図で予測は難しい。