旧中山道
400年前に、徳川幕府が日本橋を起点に、
五街道を設置した。以下の通りである。
・東海道
・中山道
・日光街道
・奥州街道
・甲州街道
東海道と中山道はスタートが同じなら、
終着点も同じ京都、五条大橋である。
2004年1月に京都の浄瑠璃寺を訪ねた帰り、
知恩院から清水寺、焼き物通りをたどって、
五条大橋に着いた。
弁慶と牛若丸の故事は、事実かどうか知らないが、
今の五条大橋の巾は、物語にあるように、
牛若丸が弁慶の攻撃を避けて、欄干から欄干へ
体をかわす事が出来るほど狭くなかった。
国道一号線(東海道)、十七号線(中仙道)の終着点は、
片道二車線の大通りであった。
そんな五条大橋を眺めて、徒歩で江戸から京へ上った
昔を思い出し、一度は歩いてみたいと思った。
中山道は東海道より長く、道中、山が険しいのに、
女性は中山道を往来したと聞いている。
徳川将軍家茂(いえもち)に皇女和宮(かずのみや)の降嫁は有名な話である。
それ以前にも、十代将軍家治(いえはる)に降嫁した五十宮(いそのみや)、
12代将軍家慶(いえよし)に降嫁した楽宮(ささのみや)があるが、
いずれの場合も東海道を下らずに、
中山道を下った。
なぜだろう?
それは、どうやら東海道には「越すに越されぬ大井川」が
あったからだとされる。
大井川には昔は橋が無く、水があふれると
川を渡ることが出来ず、溢れなくても河止めがあり、
旅の予定が定まらなかったこともあるが、
川を渡るのに人足の手を借りなければならず、
挙句の果てに、人足の肩車にまたがる必要が
あったからに違いない。
そもそも往時の女性は、現代と違って、
ふくらはぎが露出することさえはばかられた時代。
とても人足の肩にまたがって、川を渡ることは出来なかった。
やむを得ず旅程は長くなるが、
確実な日程が組める中山道を選んだのであろう。
(ボクの勝手な想像です。)
400年前に、徳川幕府が日本橋を起点に、
五街道を設置した。以下の通りである。
・東海道
・中山道
・日光街道
・奥州街道
・甲州街道
東海道と中山道はスタートが同じなら、
終着点も同じ京都、五条大橋である。
2004年1月に京都の浄瑠璃寺を訪ねた帰り、
知恩院から清水寺、焼き物通りをたどって、
五条大橋に着いた。
弁慶と牛若丸の故事は、事実かどうか知らないが、
今の五条大橋の巾は、物語にあるように、
牛若丸が弁慶の攻撃を避けて、欄干から欄干へ
体をかわす事が出来るほど狭くなかった。
国道一号線(東海道)、十七号線(中仙道)の終着点は、
片道二車線の大通りであった。
そんな五条大橋を眺めて、徒歩で江戸から京へ上った
昔を思い出し、一度は歩いてみたいと思った。
中山道は東海道より長く、道中、山が険しいのに、
女性は中山道を往来したと聞いている。
徳川将軍家茂(いえもち)に皇女和宮(かずのみや)の降嫁は有名な話である。
それ以前にも、十代将軍家治(いえはる)に降嫁した五十宮(いそのみや)、
12代将軍家慶(いえよし)に降嫁した楽宮(ささのみや)があるが、
いずれの場合も東海道を下らずに、
中山道を下った。
なぜだろう?
それは、どうやら東海道には「越すに越されぬ大井川」が
あったからだとされる。
大井川には昔は橋が無く、水があふれると
川を渡ることが出来ず、溢れなくても河止めがあり、
旅の予定が定まらなかったこともあるが、
川を渡るのに人足の手を借りなければならず、
挙句の果てに、人足の肩車にまたがる必要が
あったからに違いない。
そもそも往時の女性は、現代と違って、
ふくらはぎが露出することさえはばかられた時代。
とても人足の肩にまたがって、川を渡ることは出来なかった。
やむを得ず旅程は長くなるが、
確実な日程が組める中山道を選んだのであろう。
(ボクの勝手な想像です。)