あおしろみどりくろ

楽園ニュージーランドで見た空の青、雪の白、森の緑、闇の黒の話である。

2025年

2025-01-10 | 日記
全国のあおしろみどりくろファンの皆様、明けましておめでとうございます。
今年も不定期にアップされるこのブログ、筆者共々よろしくおつき合いのほどお願いいたします。
まあまあ、堅苦しい挨拶はこれくらいにして、年が明けた。
ヒマを持て余し何か書いてみようと思い、パソコンを開いてさあ一体何を書くべきか。
前回のトシキの話、前々回のヤマトの話、その前の弟子二人の話はモデルがいたし、自分も人との出会いでそれなりに想うことがあったのであれだけの話が書けた。
自分でも気に入っている話である。
今回は何について書こうというのではなく、新年だからいっちょ何か書いてみるかという行き当たりばったり的なノリで始めてみた。
毎年新年の頭に何かしら書いてきたし、読み返さないが今までは変革の社会であーだこーだとか、現状を見ることがむずかしいのがどうのとか、そんなエラそーな事を書き散らかしてきたような気がする。
今もその想いは変わっていないし、世界中のいろいろな現象を見ていると自分が想像している以上のスピードで変化をしているんだという気はある。
でももうそれ以上言っても仕方ないし、これを読んでいる人だって、そんなの分かってるよという気持ちはあるだろう。
逆にこの読者で「えー、そうなの?、そんなに世界は変わっているの、びっくり!」という人がいたらそれはそれで面白い。
なので今回は啓蒙的なことではなく、自分個人の想いを連ねてみようと思う。

最近の大きな変化は、スマホの新調だ。
なーんだそんなことか、と思うかもしれない。
そんな些細なことがこのおじさんには大事件なのである。
ガラケーからスマホに変えた話は何年前か書いた。
タイからもらったアイフォンSEというヤツは気に入っていたが、メッセージを打つときに勝手に互換されたりして不都合が出てきた。
そしてPodcastのプロレタリア万歳を久しぶりに収録しようとしたら、古い機種だとできないと言われた。ガーン
そこにサダオ登場。
サダオの事もブログのどこかに書いてあるはずだから探してくれ。
サダオの仕事が一段落して我が家に来て時間があるというので、新しいアイフォンを買うのに付き合ってもらった。
こういうのもご縁とタイミングだと思うのだよ。
そして収録したのが『プロレタリア万歳61回 プロレタリアは死んでいない』
買い物の一部始終を話しているので気になる人は聞いてほしい。
スマホを新調して思ったのは、こりゃ中毒になるだろうなぁと。
アプリを入れれば何でもできるが、アナログなおじさんは新しいアプリを入れる事自体に躊躇するというのか背徳感なのか罪悪感なのか、ともかく人間が機械に追いついていない。
だがデジタルネイティヴ達は何のためらいもなくその世界に入り、おじさんとは違う世界で生きている。
改めて自分の時代遅れさを目の当たりにして、時代の進み具合に胸を貫かれた気分だ。

前回の話でも書いたが写真家トシキとはご縁があって去年は2回もツアーをした。
人だけでなく物事も含めたご縁とは不思議な物で、全てそういうタイミングでできている。
トシキのように新しく繋がるご縁もあれば切れるご縁もある。
犬のココちゃんが死んだのが去年の4月の事だった。
これは厳密には切れていないな、何故なら一生自分の心の中にいる存在だからだ。
でも実際には会えなくなってしまった。
こういうのもご縁と呼ぶのだろう。
お客さんでも、この人とはまたいつかどこかで会うだろうなと感じる人もいれば、この人とは多分今回限りなんだろうなと思う時もある。
僕は人と付き合う時にその人が何を言っているのかではなく『何をやっているのか』で判断する。
いい歳をした人でもろくに挨拶もできない人もいるし、若い人でもヤマトのように自分がやるべき事をやっている人もいる。
昔働いていた会社の社長は「金ではない」と言いつつそいつは意地汚く金儲けをしていた。
どんなに綺麗事を並べてもやっている事を見ればその人となりというものが見えてくるものだ。
そういう観点で自分を見てみるとどうだろう、自分のやっている事とは。
野菜を作って自分も友人家族もハッピーにしてるし、ガイドの仕事でもお客さんを幸せにしてる。
ブログとPodcastで発信をしているし、自分の時間は山歩きとスキーをしている。
ギターとかウクレレで唄を歌うと友達には喜ばれるが家族には嫌がられる。
自分がやっている事とはそんな事ぐらいのものか。
そんな自分でも、事あるごとに誘ってくれる友達もいるし、喜んで迎え入れてくれる旧友もいれば、我が家に遊びに来てくれる人たちもいる。
それらが全てご縁であり、不思議なタイミングでそれは起こる。
タイミングと言えば、最近覚えた唄でコンビニエンスマンというT字路ズという人が歌っている唄がある。

なんの取り柄もない人間ですから 優しさくらいは誰よりも
好きの二文字がまた言えなくて 今度もあの娘は誰かのもの
それでもなんでもない顔をして ただ愛想をふりまく毎日に疲れただけさ
湿っぽい布団で丸くなる 夢は見せないでおくれ虚しいだけだから
カーテンの隙間から溢れる朝日は 弱い自分に弱いという

分かり合えぬ人もたくさんいるが 分からぬままでいいじゃないか
人を裏切る覚悟もなくて どっちつかずの言い訳ばかり
それでもなんでもない顔をして ただ坂道を登る毎日に疲れただけさ
安っぽい焼酎を流し込む こんな日は昔の友の声でも聴いてみようか
カーテンの隙間から溢れる朝日は 弱い自分を抱きしめる
弱いままで生きて行く


この唄を覚えたのも何のきっかけだったか、何故か心に響いたからだ。
そこまで自分のことを弱いとは思っていないが、時には弱気になる時もある。
ご縁が切れる時もあれば切れそうだが繋がった事もあった。
仲がよいと思っていたがうまくいかなくなった事もあった。
でも全ての人とうまくやって行くなんてのはどだい不可能だし、無理して相手に合わせる必要もなかろう。
そんな事より自分は自分の道を信じて進み、その結果でトモヤとケイスケという弟子達やヤマトやトシキと繋がった。
さらにブログではあげなかったが他にも新しい出会いもたくさんあったし、きっとこれからも続いていくであろう。

そんな具合で年が明け、今は忙しくなりすぎない程度に仕事をして、庭仕事をして山を歩くという毎日だ。
庭の野菜作りは多分一生続けていくだろう。
自分だけでなく、自分の周りの友達やその家族を幸せにするという労働には充分意味がある。
以前ブルシットジョブの話でも書いたが、労働の本質とは一体何か?
お金を稼ぐ事が労働なのか、人を幸せにする事が労働なのか、嫌いな事を嫌々やるのが労働なのか。
そういう原点回帰をしながらもこれからもこうやって生きていくのだろう。





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

同じ匂いの男

2024-12-22 | ガイドの現場


人との出会いは全てご縁とタイミングであり、会うべく時には出会い、会わない時には絶対に会えないようにできている。
旧知の兄弟分のガイドの山小屋というヤツからの話で「オレ達と同じ匂いのする人がいて…」というところから始まりトントン拍子で話がまとまり、撮影ツアーをしたのが今年の1月。
オレ達と同じ匂いのする人とは風景写真家のトシキ、本名は中西敏貴、その業界ではすごい人のようである。
最近写真を始めた不肖の弟子トモヤも名前を知っていたし、カズヤの嫁さんで雪山で写真を撮っているミホも知っていた。
どれぐらいすごいかは僕もよく分かってないが、ググればすぐに色々出てくるので各自で調べるように。
何から何まで人に教えてもらおうとせずにそれぐらいやろうね。
山小屋の紹介から実際に出会うまでトシキとは電話で話しただけだったが、なにかこうしっくりくるような感覚を電話を通じて感じていた。
空港では出会ってすぐに打ち解けて、旧知の友のように僕らは仲良くなった。
1月のツアーはクィーンズタウンをベースにして、天気を見ながら昨日はルートバーン今日はマウントクック明日は西海岸という具合に毎日がアドリブ、僕が最も得意とするような旅だった。
その時に西海岸へ行って森の撮影をして感動し、もっともっとディープなスポットを撮りたいという具合で今回のツアーが決まった。
考えてみれば1年のうちに2回もニュージーランドに来るなんてすごいことだなぁと思うが、まあそういったのもご縁なのだろう。



今回のツアーはクィーンズタウンから始まり西海岸をメインに周りクライストチャーチで終わるという行程だ。
前回のツアーの時に色々と話をして、僕が勧めたのは12月前半。
どこもかしこも忙しく駐車スペースを探すのに一苦労する気違い沙汰のクリスマス休暇になる前のこの時期は、わりと落ち着いている。
一応ツアーのスタートとフィニッシュに宿、それから半日だけヘリ氷河ハイキングは押さえてあるがそれ以外は食事も含め全てその場で決めるというスペシャルツアー。
そういうのが嫌という人は来ないし、どちらかというとそういうのが好きという人達が集まるのでこちらも楽である。
前回とメンバーがほぼ同じなので、僕がどういうような人間かみんな分かってくれているという点でも楽だ。
12月の頭に空港でトシキと出会い、同じ匂いのするおっさん同士でハグをした。
こうやって書くと加齢臭プンプンですげえ臭そうだが、当のトシキは全然おっさんっぽくなく、シュッとして格好良くてダンディーである。
泥臭いブルースばかり聴いている僕とはえらい違いだ。
初日はみんな長旅で疲れているので軽く観光ドライブで近郊のモークレイクへ。
ここは一言で言えば「何もないけど良いところ」で山に囲まれた湖があり施設はトイレだけだ。
だが氷河で削られた谷間を抜けて、羊や牛が間近にいるドライブはニュージーランド初日にうってつけだ。
トシキもお客さんも大喜びで写真を撮る。
ただ普通の撮影と違う所は僕が「ええ?そんな所を撮るの?」と思う所で撮るのだ。
そしてできあがった画像を見せてもらうと、自分が見ている景色とは全く違う世界がある。
この不思議な感覚はツアー最終日まで、そのまま続いた。
空港で皆を出迎える朝に少し時間があったので、昔からの友達でバンド仲間のマサとお茶をした。
「午後に少し時間があるのでどこに行こうかなあ」などと話していてモークレイクの話が出て、「あそこなんかお客さんが喜ぶんじゃないの?」という話になった。
自分でも何回も行ってるが、今回はその存在をすっかり忘れていたのだがマサの言葉で思い出した。
朝のうちに降っていた雨も止み、初日の軽い足慣らしとしては最高である。
その日の朝には忘れていた場所を友の言葉で思い出し、皆がハッピーになるとは面白いもので、こういうのもご縁とタイミングなのだろう。



ルートバーンの森では普通の1日ハイキングの行程をあきらめて、好きなだけ時間を取り好きなだけ写真を撮るというぐあいだ。
前回はルートバーンの1日ハイキングをして、物足りずにもう一度ルートバーンお代わりをしたぐらいである。
持論だが、山の楽しみ方は百人いれば百通りある。
命をかけて山を登る者もいれば、その山を見ながらビールを飲む者もいる。
ルートバーンのような山道をマラソンのように駆け抜ける者もいるし、2泊3日の行程をあえて5日かける人もいる。僕がそうだった。
鳥が好きな人は鳥が出てくると動かなくなってしまうし、花が好きな人は花を愛でる。
以前見ていいなぁと思ったのは森の中で絵を描いている人だった。
こうでなければいけないというものはなく、他人のやり方に茶々をいれず、自分のやり方を見つければ良い。
そのあたりは人生に通ずるところがあるような気がする。



ワナカ湖畔からのマウントアスパイヤリング、スキー場から湖を見下ろす展望、ハースト峠近辺での滝、それぞれの所で写真を撮りながら西海岸へ。
今回はフォックスグレーシアーという小さな村に4連泊である。
フォックスに4連泊?なんて普通のツアーではありえないが、そこはそれ普通のツアーではないのでこれでいいのだ。
フォックス氷河のヘリハイク、雪山を映し出す湖、荒波しぶく海岸線、幻想的な土蛍、手付かずの原生林。
写真の題材には事欠かない。
ホテルから歩いて5分ぐらいに原生林の中を歩くコースがあり、そこは森も綺麗なのだが土ホタルが間近に見える。
トシキは朝の4時ぐらいから、それこそ朝飯前に三脚を担いで森に行き写真を撮り、夜は暗くなる10時ぐらいからまた森に写真を撮りに行く、という毎日だった。
嬉しそうにトシキが写真を撮っている姿を見ると、この人は心底から写真を撮るのが好きなんだなぁと思う。
だからプロになっているんだろうけど、やはり好きとか楽しいというのは人間の行動の最大の原動力なのである。
西海岸はニュージーランドで一番雨が多い場所で滞在中も1日雨に降られたのだが、その雨の中でニコニコしながらうっそうとした森の写真を撮っている姿は正直かっこ良かったのだ。



僕とトシキはまるで旧知の間柄のように話をするし、ディープな話もポンポンと出る。
共通の友である山小屋の話もすると、北海道のお客さんがのってきて山小屋に会ってみたいなどと言う。
「あー、ガイドの山小屋に行って奴に会ってあげてくださいな、喜ぶと思うよ。『おー、聖に会ったか、ちゃんと仕事してたか?そうかそうか、それは良かった』なんてエラそうに言うだろうからさ」
「北海道へ来たら遊びにきてくださいよ、山小屋さんと一緒に飲みましょう」
「あーそれも面白そうだね。いつか絶対、爺いになるまでにやろう」
トシキは昔はスキーの選手だったという事でスキー業界の話でも盛り上がる。
ただし写真の話になると僕はチンプンカンプンで話には加われないので横で「へえ」とか「ふーん」とか聞いてるだけだ。
「たぶんこれって、スキーをやったことがない人の前で、山回りがどーのこーのとかターンの切り替えがどーのこーのって話をしてるようなものだよね」
「そうそう、もっと例えると雪温でワックスがあーだこーだ言ってるような話ですよ」
そんな話をしながら笑い合うのである。



南島の西海岸一帯はテワヒポウナムという世界遺産の一部である。
意味はポウナム(ひすい)の取れる場所。
鉄を持たないマオリにとって、硬いポウナムは刃物にもなるし道具や装飾品や武器にもなる。
その特別な石が出る特別な場所なのだ。
当然ツアー中はそういう話にもなるし、何回もNZに来ているお客さんのK氏は自分も欲しいなと言う。
トシキも自分も一つ欲しいなとつぶやいたので、これはと僕は思いついた。
もう何年前か忘れてしまったが、山小屋が僕にひすいの首飾りを託したのだった。
自分は常に首からぶらさげているので、山小屋のポウナムを仕事用のバッグに縛りつけていた。
それをトシキにプレゼントした。
山小屋がどういう心境で僕に託したかわからないポウナムだが、何年もぼくの仕事に常についてきて、そしてトシキへと渡った。
石との出会いもご縁とタイミングである。
その後、フォックスを出てホキティカまで来て、念願の買い物タイム。
ホキティカはポウナムのお店がたくさんあり、実際にそこで研磨加工して売っている。
お客さんにもそこで買うといいよ、とは伝えてあった。
お昼の後の自由時間では各自にお店を覗き気に入った石を買うのだが、お客さんのK氏の物欲に火がついたのか、幾つもあちこちの店でポウナムを買っていた。
K氏のポウナム欲はとどまることを知らず、最終日にクライストチャーチで空港へ行く直前にも石屋さんへ行きポウナムを購入した。
石との出会いも一期一会なので、これでいいのだ。



ツアー最後の晩は西海岸の街グレイマウス。
ここにはモンティースという老舗のビール工場があり、晩飯はそこでビールを飲みながらである。
ツアー途中からお客さんとかトシキがプロレタリア万歳を聴き始めたようで、割とその話題で盛り上がった。
トシキが何か良い事とかかっこいいセリフを言うと、「あ、プロレタリアで収録すればよかった」という具合だ。
ちなみに聞いてもらった感想は「思ったよりマイルド」なんだそうな。
みんなもっともっと過激なのを期待しているのだろうか。
まあプロレタリアという言葉自体がブルジョアジーに対しての言葉だから、一般庶民の立場からズケズケと「支配者どもFUCK!」ぐらいのものを期待するのだろう。
でもまあそこはそれ対立を煽っているのではないので、あんなぐあいなのである。
運転中に助手席のトシキが動画のカメラを向けて何か一言というから「自由市場経済を基盤とする資本主義社会では全てのものが商品と・・・・」とやり始めたら困ってたな。
最終日の晩はモンティースのブリューワリーということもあり、ぼくもよく飲んでトシキと何か良い話をしたようだが、いつものごとく良い話は忘却の彼方へぶっ飛んでしまい、楽しかったという思い出だけが残るのであった。



楽しい時というのはあっという間に過ぎてしまう。
最終日はアーサーズパスを超え、キャッスルヒルで撮影をしてクライストチャーチへ。
飛行機は夜なので夕方までにクライストチャーチへ行けば良い算段だ。
アーサーズパスを越えたらそこはぼくのホームグラウンドみたいなものだが、今回はそのホームが大変なことになっていた。
ブロークンリバーのスキー場入り口くらいが山火事で1000ヘクタールぐらい焼けてしまった。
1000haって普通の人にはあまりピンと来ないだろう、ぼくも来ない。
ツアーが始まるぐらいから燃え始め、しばらくは道も通行止め、この道が通れなかったらどうしようか、などとトシキとツアー中も話していたのだ。
幸いに雨が降り鎮火して道が通れるようになったが、国道の両脇は一面の焼け野原、考えていた洞窟も森の小川も立ち入り禁止。
それでも今回の目玉のキャッスルヒルは被害を受けなかったようで無事到着。
トシキが嬉々として写真を撮り、その撮ってる姿をぼくが撮る。
当たり前だがカメラを構える姿がカッコイイ。
何万回なのか何十万回なのか、カメラを構えてきた男のオーラがにじみ出る。
雪の斜面に立っているだけで上手いスキーヤーは分かる、というのと同じことだ。
プロの背中ってそういうもんだろう。



クライストチャーチで服を着替え荷物をまとめて、K氏の物欲を満たすために石屋さんに行きポウナムをめでたく購入し、さあ空港へ向かおうという所で助手席のトシキが悲痛の叫び声をあげた。
なんだなんだどうしたんだ、と思ったら他のお客さんも同時に「え〜!?」という声をあげた。
どうやら日本行きの飛行機が10時間遅れになってしまったとのこと。
空港まで数分という場所にいたので、取り急ぎチェックインカウンターへ。
すったもんだの末、航空会社がホテルも手配してくれてオークランドまではチェックインができて、あとは翌朝オークランド空港での再チェックインということで話がまとまった。
このグループはニュージーランド到着時に通関で時間がかかり、国際線のターミナルから国内線のターミナルまでダッシュしたと言っていた。
だがクィーンズタウン到着後は全て順調で天気も味方になってくれて、念願の氷河ヘリハイクもピンポイントで飛べた。
持っている人は持っているんだな、と思いながらツアーを続けてきたが最後の最後にこれだ。
飛行機が大幅に遅れると、日本へ着いてから北海道へ帰る便も変わってしまう。
日本行きの飛行機はさらに遅れ13時間遅れ、トシキはその日に家に帰れず結局羽田にもう一泊することになったとメッセージがきた。
チェックインを済ませ、近くのレストランで通夜のような食事をして空港でみんなを見送った。
ツアーのメンバーとは硬い握手を、トシキとはおっさん同士のハグをして皆と別れた。



山小屋が言い始めた『同じ匂いのする男』との関係がこんな風になっていくとは思わなかったが、だから人生って面白いんだ。
それもこれも全てご縁なのである。
熱き友情などという言葉はそれこそ昭和のそれであろう。
平成になったらそんなものはダサいとされ、令和の今では死語だ。
自分だってその言葉を聞いて思い浮かぶイメージは、沈みゆく夕日の中で泣きながら抱き合う星飛雄馬と伴宙太だ。(分からない人は分からなくてよろしい)
だけど全ての物事が、電話や宿の予約や支払いさえもがスマートになるこの時代にこそ、この古くてダサくて泥臭い『熱き友情』という昭和の言葉をあえて使いたい。
ちなみに僕の外見は古くてダサくて泥臭い昭和の頑固オヤジであるが、トシキはダンディーで格好いいオヤジだ。
そんな外見が全然違う僕らを繋いでいるのは、心の奥底にある芯なのだ。
この芯のつながりがあるからこそ、違うことをやっていても互いに認め合う関係が成り立つ。
浮世の物事に心を乱す事なく、己の中心を見据え己ができる事をする。
言い方を変えれば、方向性とバランスと行動だ。
さらに熱きといれたのは、自分の心の奥にある脈々とした想いである。
何が正しくて何が間違っているか簡単には分からない情勢でそれでもなお、自分自身の芯を信じて生きて行く。
見た目はクールでも情熱を持ち写真を撮り続けるトシキの心の熱さを感じるし、自分も自分の芯を信じて生きて行く熱いオヤジだと思う。
それがあるからこそ熱き友情という絆で結ばれる。
山小屋がいう同じ匂いとはそういうことだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヤマトダマシイ

2024-11-30 | 
最初にその男の噂を聞いたのはもう半年も前になるか、秋が深まり冬が始まる前のことだった。
町のマーケットでブロークンリバーのマネージャーのレオにばったり会い、今年は日本人のスタッフがいるぞと聞いた。
へえ、どんなヤツなんだろうと思い、スキーシーズンが始まった。
シーズン中は何かと忙しく、なかなかブロークンリバーへ行く機会がなかったが8月も終わり頃にやっと自分の時間が持てた。
昔からの仲間のカズヤと娘の友達のヤサと3人で、雪が降ったばかりのスキー場へ行った。
雪が降ると山道の除雪をしなくてはならなのだが、その山道が今までにないぐらい綺麗なのである。
駐車場の除雪もビシッと行き届いていて気持ちが良い。
後から知ったことだが、それが彼の仕事だったのだ。
その日は彼は街へ降りる日だったので山では会えずじまい。
会う時には簡単に会うし、会えない時にはどうやっても会えない、人のご縁とはそうやってできているものだろう。

9月の半ばにブロークンリバーでバーベキュー大会と自家製ビール大会というのがあり、僕は毎回出場している。
大会と言っても出るのは数人だが、皆で競い合い上手い物を食おうというものだ。
結果から言うと、豚肉の手前味噌漬け焼きキャベツ添えを出して、僕は見事今年のチャンピオンとなった。
その時に初めてヤマトに会った。
漢字で書くと大和だがカタカナで書くとヤマト、僕の世代だと宇宙戦艦ヤマトを思い浮かべてしまうがそれはそれでかっこいい。
それまでは弟子達や娘がブロークンリバーに行きヤマトに会った話を聞いていたが、会えるべきタイミングでやっと会えた。
バーベキューとビールをご馳走して彼の話を聞き、僕は一発でこの若者に惚れ込んでしまった。
何と言っても目が生き生きしている。
実力と行動力を兼ね備えた男の顔だ。
面白いのはヤマトが今までブロークンリバーに来たどの日本人ともタイプが違うことである。
スキークラブのメンバーを20年もやっていれば、ここで働いた日本人とは全て繋がっている。
みんなスキーをしたくてニュージーランドにやってきて、ブロークンリバーが好きになり何かのご縁で働いたりした。
そういった若者が今まで10人ぐらいいただろうか、共通点はスキーやボードに夢中な所だ。
ところがヤマトはスキー場で重機のオペをしたくて応募して採用された。
スキーで滑ることが第一目的ではなく、スキー場で働くことが目的なので自分のスキー板も持っていないが、そこはそれ何とかなってしまうのがこの業界。
「スキーがないって、じゃあスキー板を使え、何だボードもするのか、じゃあこのボードを使え」という具合である。
しかもワーホリで初めてニュージーランドに来て、クラブフィールドの事も何も分からないままブロークンリバーで働いた、荒唐無稽というか波乱万丈というのか、とにかく面白いヤツである。
聞くと中卒であちこちで働いて、土木関係の仕事も長く経験し重機の運転もでき、ガーラ湯沢でスキーパトロールの経験もある。
中身が無く実力も無いが口先だけは上手い若者が多い昨今だが、実力のある人間の言葉には重みがある。
一言で言えば職人気質なのだろう、仕事をきちっとやるから周りにも認められる。
雪が降った時の除雪だって、ただ機械を運転すればいいってもんじゃない。
原生林の中を通る山道なので、雪がふると気が倒れ道をふさいでしまうこともよくある。
誰も人がいない真っ暗な山の中でチェーンソーや斧で木をぶった切り倒木を片付け車が通れるようにして、機械を操縦して除雪をする。
そういった人知れずの苦労あっての事なのだ。
スタッフもそれが分かっているからチームの一員として認められる。
僕は除雪の丁寧さを褒めに褒めたが、本人はまだまだ納得がいかないようであった。
やはりヤツは職人なんだな。



スキーシーズンが終わりスキー場の片付けなどの仕事を終えてヤマトも山から下りてきた。
一度うちに遊びに来いよ、という事で娘経由でメッセージをやりとりして、我が家に遊びに来たのが10月の初旬。
この後はオーストラリアへ行くのだが、クライストチャーチを出るまで1週間ぐらいあると言う。
「それならうちに滞在しろよ。俺も今は仕事もないし」「えー、いいんですか?」「もちろん」
そんな具合で我が家に転がり込んだ。
たまたま女房が日本に帰っていた時で、僕と娘とヤマトの3人で面白おかしく楽しい時を過ごした。
ビールが好きでお酒が好きというので一緒に飲むわけだが、とにかく話が噛み合う。
先ずはブロークンリバーで1シーズンを過ごしたというところからして話が早い。
クラブのメンバーの誰それが何をしてというような噂話もできるし、スキー場運営の裏話もできる。
さらに土木や建築の仕事をしていたので、そういう方面での話も合う。
何よりも僕がよーそこの若いのに言う「自分が出来る事やるべき事をやりなさい」「恩返しをするのでなく恩送りをせよ」というような事を自分から言う。
確かにブロークンリバーでもヤマトは自分が出来る事をやってきて、現在がある。
こういう生きのいい若者がいると無条件で応援してしまいたくなる。
学歴は中卒だが、人生の経験値がずば抜けていてそんじょそこらの若者とは比べものにならない。
僕も高卒で色々な仕事を経験してきた、学歴よりも職歴という人間である。
学校教育という物を否定するわけではないが、人間は学ぶという事を学校だけでするという考え方から脱却するべきだ。
学校で学ぶ事ももちろん大切だが、若い時に仕事を現場で学ぶことも同等に重要視すべきだ。
現場を知らない人が机上で練った案が使い物にならないというようなことは、この世の中にはそれこそ星の数ほどある。
こんな若者のために自分ができることとは、美味い物を腹一杯食わせ酒を飲ませるぐらいのものだ。

季節はちょうど春ということでアカロアへ一緒に行き山歩きをしてワカメ漁もした。
ヤマトの出身は岐阜県で太平洋へも日本海へも車で数時間かかる。
だからなのだろう、海を見るとテンション爆上がりなんだそうな。
先日やった仕事で中国人の留学生をワイナリーに連れていく物があったが、彼らのリクエストに応えてビーチに連れて行った。
こちらでは何の変哲もないビーチなのだが、海からはるか彼方に住む彼らには最高のご馳走であり、そのはしゃぎっぷりはすごかった。
これは自転車で行ける距離に海がある土地に育った自分には、頭で理解できても感覚では永久にわからないものだ。



ワカメ漁は以前からやりたいなと思っていて、ダニーデンに住む友達に話は聞いていたが、やっとクライストチャーチ近辺で簡単に取れる場所を見つけた。
仕事の合間に試しに取ってみて、家に帰り食ってみたらこれが美味かった。
引き潮の時に行けば足を濡らすぐらいで取れる。
ニュージーランドでは魚介類の採取の制限はあるが、ワカメについては何もないようである。
そもそも外来種であり、タダでいくらでも取っていけ状態なのだ。
これは誰も食わないということなんだろう、実際に海藻を食う話はあまり聞かない。
ある説によれば日本人は海藻を分解するDNAがあるのか高いのか、要は海藻を食う能力が高い選ばれし民族なのである。
人間が食い切れなかったらニワトリが喜んで食うし庭の肥料にもなる。
自給自足を目指す身としては、それ以前の狩猟採取という思考と行動は外せない。
ヤマトと二人で10分ぐらい漁をして、これでもかというぐらい大量に取った。
家に戻り下処理作業、茎と葉っぱに分け軽く茹でる。
ワカメは熱湯に通すと見事に緑色に変わる、それを半分は干して半分は塩漬けにした。
もちろんその晩から数日間の食卓はワカメづくしだ。
ヤマトが自分で言う特技だが、出された物を旨そうに食うことだと。
確かに何を出してもバクバクと旨そうに喰らう。
そういう姿を見るとこちらも嬉しくなって、さあこれを食え、次はこれだと色々出してしまう。
豪快に物を食うというのは若者の特権だな。



ヤマトの滞在期間、女房は日本に行っていた。その女房殿からドライブウェイの草むしりをやってくれという指令が来た。
ヤマトに任せてたらきっと丁寧にきれいにやってくれるんだろう。
実際に庭の芝刈りを任せたらとてもきれいに丁寧にやってくれた。
早いけど仕事が雑なトモヤとはえらい違いだ。
雑草取りでチマチマとやるならいっその事、雑草を一掃して生えてこないようにすればどうか。
庭のドライブウェイは過去にコンクリート舗装をやってきて、最後のセクションが雑草まみれになっている。

土木工事1
土木工事2
土木工事3
土方



そこはいつも女房が雑草取りをして、悩みの種だ。
ヤマトに庭のコンクリート舗装を見せ、今までの経緯を説明した。
ヤマトは長いこと土木に従事してきたのでコンクリート打ちの経験ももちろんある。
素人ながらにやってきた現場を見せたらすぐに納得して、細かい話になった。
二人で土を削る段取りやコンクリートの厚さや鉄筋の手配やあれこれ相談をして天気も安定していてこれなら行ける、ということになり急遽作業が始まった。
ドライブウェイコンクリート舗装計画第4弾、コードネームは『メデューサの道』
先ずは下地作りから。ヤマトが土を削り僕が一輪車でせっせと裏庭へ運ぶ。
今回は枠を作らずレンガを並べてそこにコンクリートを流し込む。
ヤマトが土を削りレンガを並べ、僕が鉄筋を買ってきて準備が整った。
やはり二人でやると作業が早い、僕が一人でチマチマやったら2週間ぐらいかかるだろう。
体積を計算して天気の良い日を選びコンクリートを手配して、コンクリートを均す道具のレンタルなどの段取りが済んだ。
当日の朝にコンクリートミキサー車が来て作業開始。
過去数回の経験でなんとなく段取りは分かっているが、今回はヤマトがいるので彼の指示に従い作業を進める。
1時間半ぐらいでコンクリートを流し込んでミキサー車には帰ってもらい、後は自分たちで均して仕上げる。
均しと仕上げは完全にヤマトに任せて、僕は残ったコンクリートの処理や道具の洗浄など。
コンクリートは乾くと固まってこびりつくので、使った道具はすぐに水で洗わねばならない。
前回までは自分で決断して行動して家族や友人に手伝ってもらってやったが、今回は裏方に専念できた。
自分もコンクリート打ちの経験はあるが所詮はシロートであり、そこは経験豊富な強力助っ人ヤマトのおかげでスムーズに仕事がはかどった。
最後に娘の手形と日付をいれて終了だが、これまた記念にヤマトにも自分の名前を入れてもらった。
道具を全て洗ってレンタルの道具を返却して、夕方までに作業終了。
その後は完成したコンクリート舗装をニヤニヤ眺めながらビールで乾杯である。言うまでもなく美味い。



そんな事をやっていると1週間があっという間に過ぎる。
ヤマトはこの後オーストラリアに渡り鉱山で重機オペの仕事を探すと言う。
ただでさえ時給の高いオーストラリアで重機オペなんてものすごく稼ぐのだろうな。
ただし奴の真の目的は金を稼ぐ事ではない。
確かに金は無いより有る方が良いのだが、それよりも色々な経験をしてみたい、自分が得意な重機を操縦したいという明確なビジョンを持っている。
だからニュージーランドのブロークンリバーという特殊な場所で、彼の人生において忘れることのできないような貴重な経験をした。
雪が無い時は他のスタッフと一緒に西海岸へ行ってロッククライミングをしたりトレッキングをしたと言う。
スタッフにアウトドアの先生なのかその卵なのか、とにかくそういう人がいて、話を聞くだけで羨ましくなるような経験をした。
シーズン中は自分が出来ることをきっちりとやり、日本人として恥ずかしくないどころか誇りになるような仕事をした。
さすがヤマト、その名もヤマト、日本が大好きな堂々たる大和男児だ。
狭いコミュニティの中で日本人という存在を意識しないことはない。
今までブロークンリバーで働いた数々の日本人を思い浮かべても、みんなよくやってきた。
そういうところに日本人の評判というものが出来ていくのだろう、たとえそれが小さく狭い社会だとしてもだ。
アフガニスタンで亡くなった中村哲先生の言葉『一隅を照らす』とはそういうことだ。



彼のお母さんが僕と同世代で昔ニュージーランドにワーホリで来てたと言う。
そのお母さんがヤマトに出した条件が「先ずはクライストチャーチへ行け」というものだった。
最初はお母さんの知り合いを頼り、日本食レストランで働いた。
その後はすでに書いた通り、ブロークンリバーで働きシーズンが終わり、オーストラリアへ行くまでの1週間我が家に転がり込んだ。
全てご縁で繋がっていて、そのきっかけがお母さんの指示「クライストチャーチへ行け」だった。
「いやさヤマト、人のご縁って不思議なものだけど、全てお母さんの言葉から始まってんだな。あっぱれ母さんだな」
「本当にそう思います。来て良かったなあって」
そんな会話をしながら何回乾杯しただろうか。
ヤマトも最初こそは母の知り合いを訪ねたが、そこからは自分の力で切り開いて他人とは違う経験を積みあげてきた。
ワーホリってそういうものだろう。
そこにあるのは実力と判断力と行動力、それらが合わさった人間力である。
人とのご縁でこの世は成り立っているのだが、そのご縁を掴むのもその人の力であり、運も実力のうちとはそういうことだ。
それにしてもヤマトも弟子のトモヤとケースケもその友達のジャカもそうだが、みんな生き生きした顔つきをしている。
そういう日本の若者を見ると、この世は大丈夫なんだろうなと思う。
もちろんろくに挨拶もできない若者、闇バイトに走る若者、無気力な若者などなど、おいおい大丈夫かよと思うような人も存在する。
だが我が家に来るような若者達は、自分の人生を自分で切り開こうという気概にあふれ、明るく楽しく正しく人生を謳歌している。
そんな彼らの姿からは明るい光しか見えない。
人間とは明るいニュースより暗く悲惨な話を好む生き物だ。
人の悪い噂はあっという間に広がるが、善行をしたというような話は広まらない。
テレビのカメラマンは人が助かった話と殺された話が同時にあったら迷わず殺された現場へ行く。
そういうものなのだ。
だがその輪廻から脱却する時が来ている。
未だ来ぬ未来の不安より今現在の明るい光に焦点をあてるべきだ。
ちなみにその将来の不安とは、造られてさらに利用されているものだ。
そんな今だからこそ、ゆけヤマトよ、未来はお前の手の中にある。
やっぱりと思ったけど、宇宙戦艦ヤマトみたいな締め方になったな。






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

弟子二人

2024-10-18 | 
トモヤという弟子ができた事は去年のブログで書いた。
スキーがしたくて無鉄砲に日本を飛び出したのはいいが、雪がなくどうしようか途方にくれていた所に娘のつてで我が家に来た。
来たのはいいが、来てそうそうに僕の車と家のフェンスを壊すという大失態をやらかし、色々あって弟子となった。
トモヤから双子の弟なのか兄なのかケースケの話は聞いていて、日本に行った時に白馬で会い、みんな一緒にカズヤの家で世話になった話も最近のブログで書いた。
そんなトモヤとケースケがニュージーランドにやってきたのが8月の初旬。
ボロボロのエスティマを買い、その車に二人で寝泊まりしてスキーをしてフリーライドの大会にも出た。
今回はそんな二人の話である。



一卵性双生児という人達がここまで似ているというのを目の当たりにして、人間って面白いなあと思った。
体や顔つきや声や話し方などが一緒で、よく間違われると言うのも納得だ。
僕も電話で話す時などあらかじめどちらと話すか分かっていて会話をするからまだいいが、もしもそれがなかったらどちらか区別できない。
カズヤなどはもっとひどく、直接会って話をしていてもどちらと喋っているか分からないと言う。
カズヤの場合はそもそも認識する気もなく「どっちでも大差ないっしょ」といういい加減な理由からである。
二人と一緒に話をしていて二人とも納得いく話になった時に「ああ〜」という相槌のタイミングが全く一緒なのも面白い。
そして二人ともに同じタイミングで『ああ、またやっちまった』という顔をするのも面白いのである。
それでもじっくり話をしていると、やはり性格とか人格は違うのだなというのが見えてくるものだ。
ケースケは明確な目標を持ってそれに向かって突き進んでいくタイプ、トモヤはとりあえず行動を起こすタイプ。
自分もどちらかと問われればトモヤ型であり、旅をする時にはできるだけ決めないでできることなら棒を投げて向いた方向に進みたい、風の向くまま気の向くままにやりたい人だ。
どちらかが良い悪いという話ではなく、そういうタイプが存在するという話だ。
人間とは自己正当化する生き物なので、自分と違うやり方を否定する傾向にある。
まずは自分と違うものを認めるところからコミュニケーションというものが始まるのだろう。



ケースケもトモヤも出生時には同じで同じ幼少期を過ごしていただろうが、高校ぐらいからスキーの道に入ったケースケと、一時は大学に入ったものの自分の進むべき道はここにはないと中退してスキーの道に入ったトモヤ。
親元を離れて数年で違う道を歩み、それぞれの出会いや経験がありそれぞれの人生観や倫理観を持っている。
こうやって書くと二人とも立派な若人のようであるが、ダメダメなところはダメダメだ。
トモヤの大失態は去年さんざん見たが、今年は大した失敗はしでかさなかった。
ブログのネタになるようなことがなく、それはそれでつまらない。
ケースケは僕に対しては頭が上がらなくなるようなことはしなかったが、キャンプ中にスキーブーツのインナーブーツをなくした。
商売道具のスキーブーツをなくす、それもインナーだけってどういうことだ?と思ったが本人が言うには自分でもどうやってなくしたか分からないと。
それで困るのは自分だから仕方ないが、どうやってなくなったのか自分でも分からないから困るとボヤいていた。
♩よーそこの若えのこんな自分のままじゃいけねーぞと頭かかえているそんな自分のままでいけよ、と竹原ピストルが歌っているが
どうしようもないものはどうしようもない。
カズヤが二人の違いをこう表していた。
「一見ちゃんとしてそうに見えて本当はダメダメなのがケースケ。一見ダメそうに見えて実はやっぱりダメダメなのがトモヤ。結局二人ともダメダメじゃーん」
言い得て妙だし身も蓋もない話だが的を得ている。





そんな二人も滞在中に我が家へ立ち寄り、何回か飯も食わせ一緒に酒も飲んだ。
若い者の食いっぷりは見ていて気持ちがいい。
大会前に「お前ら頑張れよ、兄弟で一位二位取って来い」と激を飛ばせば二人揃って同じタイミングで「自分が勝ちます」と意気込む。
そんな二人の姿に僕は希望を見出す。
何の希望かと問われれば人類の未来への希望である。
随分と大きな話になったぞ。
そもそも競うとはどういうことか?
これは相手がいて、その相手よりいい結果を出したいという願望から来る人間本来の性質だ。
極論を言えば、無人島で一人で暮らしていれば競い合いはない。
だが人間は一人では生きていけず、社会というものの中で生きている。
今こうやって文明社会の中で生きていけるのも競うということがあったからだ。
石器時代に狩猟採集をしていた時だって誰がたくさん獲物を捕るとかはあっただろうし、農耕を始めても誰がたくさん収穫をするとかそういう競い合いはあり、今でもある。
文明が発展してから競う対象は全ての事柄となり、いつの頃からか競い合いは競争となっていった。
そもそも向上心があって競うわけであり、争うということは別物のはずだ。
だが勝負になればどちらかが勝ちどちらかが負ける。
勝ち組や負け組という言葉も最近流行ったな。
結果至上主義となり、勝つためには手段を選ばないということになる。
互いに高め合うための競い合いは、相手の足を引っ張り引きずり下ろし合う醜い争いになった。
今の人類に必要なのは競うための争いではなく、互いに自分を高める真の競う姿だ。
自分を高め相手に勝つためには自分を知り相手を知らなくてはならない。
己を見つめ切磋琢磨して正々堂々と勝負に挑む姿こそが日本の武道の真髄、ひいては武士道の精神につながる。
そういう意味で二人の若者の姿に明るい未来の光を見るのだ。



9月の初めマウントオリンパスの大会の前に二人が我が家へ来て一緒に飲んだ。
「二人とも自分が出来ることで精一杯やってこい。結果はついてくるものだぞ」
そんな言葉で二人を送り出した。
結果はケースケが16位でトモヤが17位。
ここでも大差がつかず僅かな差で兄弟仲良く順番に並ぶのが面白いと言えば面白い。
勝負の話に戻るが、負けがあるから勝ちがある。
勝てば嬉しいし負ければ悔しい。
その悔しさをバネにして次に向けて人はがんばる。
負けた人がかわいそうだからという理由で一位をつけない運動会なんてものをやった学校の話を聞いたがバカバカしいのにもほどがある。
そんなのは本質が見えていない馬鹿な大人のタワゴトである。
子供の遊びの中にも大人の社会の中にも勝ち負けは常に存在する。
これはスポーツに限る話ではなく、学校の成績、ゲームの上手い下手、会社の運営や店の売り上げ、芸術の世界、いたるところに勝ちがありそれ以上の数の負けがある。
現代社会の結果至上主義は勝ちが全てであり負けることは意味がないととらえる。
だが長い歴史を勉強すれば、どんなに栄えた大帝国も全て滅び、どんなに強い大将軍でも全て死ぬし、どんなに強いスポーツ選手も老いれば若い者に倒される。
諸行無常であり勝者必衰のことわりを表す、という平家物語の一文に書いてある。
だからといって何もしないというのはこれまた違う。
もがいてあがいて打ち倒されるが、また這い上がって立ち上がる、その姿の中にこそ真の美しさがある。
結果はあとからついてくるものであり、その過程こそが大切だ。
最近では過程を重視したプロセスエコノミーなどという動きもある。



マウントオリンパスでの大会が終わり帰国までの数日間、兄弟は我が家に滞在した。
ちょうど自分も仕事がなく、二人と一緒にカヤックで花見をしたり市内観光に連れて行ったり楽しい時を過ごした。
夜は酒を飲みながらダラダラと話をするが、構造的に物を考える話をしている時にトモヤが音をあげた。
「自分はアホだからそういう難しいのはわからないッス」
「トモヤ、お前はアホではないぞよ。問題なのはそうやって考えることを放棄してしまうことだ」
ケースケが横から言う。「そうだよ、お前はいつもそうだ」
「うっせーな!おめーに言われたくねーよ。むかつくな」
と兄弟喧嘩が始まるが、それさえも愛おしい。
確かに同じ事柄でもこいつには言われたくないということが誰にも存在する。
それは自分に近い存在であればあるほど顕著に現れる。
僕の言葉を聞いて二人は違う捉え方をしてもそれは当然であり正しい答えなどない。
本当の答えなど風の中にしかないのだ。



今回の滞在中にケースケが自分のスキー板を折ってしまった。
スキーを折るってどういうこと?と思うだろうが超急斜面を滑り崖を飛び降りるようなスキーをしていれば折れることもある。
一般の人には理解できないかもしれないが、彼らがやっているスキーとはそういうものだ。
壊れた板を日本に持って帰っても使えるわけでなし、NZに捨てていくことになる。
「あーあ、この板好きだったんですよねー」とケースケがぼやくので「それならこの庭の好きな所に貼っていけ。一生かざってやるぞ。そうだな、ついでに何か一言書いていけ。お前たち二人がビッグになってプレミアがついたらネットオークションに出してやる」
「一生かざってくれるんじゃないんですか?」
「それぐらいになるようにガンバレってことだよ、バカヤロー」
そんなことを言いながら兄弟があーだこーだ言いながら物置の上と温室の柱に貼り付けるのを眺める。
そんな彼らの姿に、僕は明るい将来しか見えない。
これから奴らの進む道には勝利の栄光も敗北の挫折もあるだろう。
今はたとえダメダメでポンコツで世間知らずで間抜けでろくでなしでおっちょこちょいでトンチンカンで昼行燈でアンポンタンで無駄飯食らいだとしても、心の奥の向いている方向さえ間違っていなければ何の問題もない。
奴らの心の奥にチロチロと小さく燃える光は、これから大きな炎となりこの腐りきった世の中を明るく照らすであろう。
こういう若者達がいる限り、日本はこの世界は大丈夫なんだろうなと心底思う。



それなのにトモヤなんぞは「でも、そんな事言っても」とボヤく。
「お前は何を心配してるんだ?師匠のオレが大丈夫って言ってんだぞ。師匠の言う事は絶対じゃないのか?」
「絶対です」
「じゃあ、いいだろそれで」
「でもお」
「だーかーらー、オマエは俺がこれほどまでにオマエ達を認めているのに、なーにが気に食わん?」
「でも、そんな事言っても」
「オレがオマエを信じているのに自分が自分を信じないでどうする」
「それはそうなんでけどお」
僕もトモヤも酔っ払っているので、何が大丈夫なのか何を否定しているのか自分達も訳が分からなくなっている。
横でケースケが偉そうにウンウンと頷くものだから、またトモヤがカチンと来る。
「うっせーな、おめーに言われたくねーんだよ。『自分は分かってます』みたいな顔しやがって、それがむかつくんだよ」
こうして堂々めぐりの話をしながら夜は更けていく。
師匠の自分が若い弟子達にできることは腹一杯食わせることと背中を押してあげること、あとは竹原ピストルの「よーそこの若いの」を歌ってやるぐらいのものだ。
スキーを教えるほど自分はスキーは上手くないので、スキーの事は別の人に聞けと言ってある。
思想や思考法は伝えはするが強制する気もさらさらない。
今はたとえ分からなくても、あの時に言っていたのはこういうことかと理解する時がやってくる。
あとはそうだなあ、自分が出来ることをやれとは常々言っている。
そんなもんだろう。



奴らが去り、庭に直筆サイン入りのスキー板が残る。
Free Ride World Tour 出場 手塚慧介
おめーに言われたくねーよ‼︎ 手塚智也
宝物が一つ増えた。






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2024年 日本旅行記 12

2024-10-05 | 
だらだらと書き連ねたこの話もそろそろきちんと終わらせよう。
日本から帰ってきたのは4月の終わりぐらいだったから5ヶ月も経ってしまった。
冬が始まるまでに終わらせようと思ったのだが、その冬も終わり春になり桜も散ってしまった。
新宿での後は、羽田に泊まり次の日の便で香港経由で帰ってきた。
と一言で片付けられるぐらいで、大きな発見も感動もなかった。
強いて言うならば香港での数時間の滞在の間に、別の都市が持つエネルギーのようなものを一瞬だけ感じたぐらいだ。



ニュージーランドに帰り再びこの国の自然に包まれ、いろいろ考えた。
一体自分は何のためにここに存在するのか。
答えは出ないが、その鍵のようなものは今回の旅で閃いたような気がする。
それは自分の足元を固めるような印象だ。
今回の旅で見て聞いて味わい感じた全ての経験、これがあるから旅は面白いのであり深い意識を呼び起こすような感覚だ。
漫画おいしんぼに出てくる話をしよう。
パリで活躍している日本人のアーティストがフランスでの活動をやめ日本に帰ってきた。
その人の言う事には、どうも心が奮い立たない、アートそのものに興味がなくなってしまった。
才能のある人なのにそれはもったいない、どうすればその人が再びやる気を出してパリでの活動を続けられるようになるかと、山岡と海原雄山がその人に食事を出す。
山岡は本場と同じフランス料理を出してもてなし、氏も喜んでそれを食べ、これはどこそこのレストランの味だとパリを懐かしんだ。
そして一言「東京でこれだけの物が食べられるのならパリにいなくてもいいですね」
一方雄山が出したものはおむすびとキョウリの漬け物。
もちろん至高の料理なので厳選した物を最高の状態で出すのだが、ただそれだけである。
だが画家は質素な料理に感動して、日本人の自分の基を感じ取りフランスでの活動を続ける決意をする。
そういう話だが今の自分にはそれが痛いほど沁みる。
自分も若い頃からニュージーランドへ来て色々やってきて自分の足元がぐらついているような感覚があった。
日本人としての誇りを忘れ、日本人である事が恥ずかしいなどと思った時期もあった。
最近は自分の軸のようなものができてきたが、今回の旅ではそれを再確認するような感覚である。
それはふと訪れた神社の境内だったり、友人達の活動であったり、ガンコに自分のやり方を貫いている店の人だったり、散りゆく桜であったり、そういった全てを感じ取り自分の故郷というものを強く感じた。
だからこそ自分はニュージーランドで思いっきりやれるのであり、それなくしての生活は考えられない。
人間は一人では生きていけないが、自分も色々な人とのご縁や物事などに支えられている。
その奥に湧き出る感情は感謝である。
たくさんの友が招いてくれてもてなしてくれてお土産までくれた。
手料理をご馳走してくれた人も、お店でご馳走してくれた人も、自分が作った物をくれた人も、僕に似合う物を買ってくれた人も、全て最高のおもてなしだった。
おもてなしという言葉が一時流行ったことがあったが、もてなすというのは表面的に相手に気に入られようとすることではない。
心底相手の事を想い、自分が出来ることで相手が喜ぶことをする。
相手が喜ぶ姿に自分の喜びを見出し、共に楽しい時間と空間を共有する。
自分が出来ることを見極めるためには、自分自身を見つめなくてはならない。
一見相手のための行動でも自分の中心を見る、自分と相手それは表裏一体のものだ。
突き詰めれば実にシンプルな話なのだが、答えは自分の中にある。
そういった深い事を含めてのおもてなしなのだ。
漠然と分かっていた事が、より強くより深く理解でき今はそれが信念となりつつある。

今回出会った全ての人達とタイミングが合わずに会えなかった全ての人達に感謝を捧げ、今回の話を終えるとしよう。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2024年 日本旅行記 11

2024-08-29 | 
金沢出発の日、東京へ向かう。
北陸新幹線に乗れば3時間で東京へ行けるが、旅情もへったくれもない高速鉄道には興味はない。
速さなら飛行機の方が速い、しかも値段が安く次の日のことを考えて東京までは飛行機で行くことにした。
ヒデと奥さんが小松空港まで送ってくれて、僕らは硬い握手をして別れた。
飛行機から白山が見えるかと期待したが、雲に覆われ霊峰は見えず。
この山とは結局今回は会えずじまいだったが、それもまあご縁というものだろう。
1時間ちょっとのフライトで大都会東京へ。
東京では旧友Mと会い、彼がガイドとなってくれた。
M
さてどこに行こうかという話になり、浅草はどうかと提案されたが観光客がうじゃうじゃいて、店の人もそれを見込んでいるような場所には行きたくない。
それよりも観光客があまりいない所で日本を感じられる場所はないかと聞いたら、それならMが昔からよく行っていた北千住にある昭和の喫茶店に行こうという話になった。
北千住という町には来たことがない。
名前は聞いたことがあるが、東京の東の方というぐらいしか知らない。
どんな所かと駅に降り立ち、お目当てのコーヒー屋さんに向かう途中でも居酒屋や立ち飲みの店などフラフラ入りたくなってしまう、とても危険な町だ。
近くに大学があるのだろうか斬新な芸術系のチラシがベタベタと貼られていて、他の東京の町とは明らかに違う。
持論では音楽でも美術でもファッションでも芸術というものはある程度の都会で生まれるもので、そこに住む人間によって作られている。
そういうのは都会が持つ良いエネルギーだ。
とにかくそんな雑多な街を抜けていくと、あったあったありましたよ。
まさに昭和から抜け出たような外観で、渋い爺さん婆さんがやっている喫茶店。
店に入りお勧めのコーヒーをいただく。
正直に美味しい。何がどう美味いという事は上手く言えないが、香り良く酸味と苦味と旨味のバランスがよいのは分かる。
僕はまるでタイムスリップをしたかのごとく、店の雰囲気に飲み込まれた。
お店の電話が黒電話というのも徹底してさらに良し。
なんか白馬の絵夢を思い出したが、こういう店が実存して社会の一部を作っているのを見ると、やっぱり日本大丈夫じゃないかと思う。



その後はちょっと移動して根津神社でちょうどつつじ祭りというのをやっていて見学。
色とりどりのつつじが満開でこれはこれで綺麗だ。
観光客もある程度いるが、あまり気にならないぐらいの混み方である。
バランスが崩れない程度の人の賑わいは大切なのだな。
そしてそのまま歩いて谷中へ。
どうでもいい話だが谷中は鬼平犯科帳で同心の木村忠吾が見回りをさぼって、谷中のいろは茶屋に出入りしているのを鬼平に見つかった、あの谷中である。
もちろん当時の面影は全くなく、今は昭和の面影を残す下町の商店街だ。
だが観光客のための街でなくそこに住む人のための街であり、通りには佃煮屋とか総菜屋とか瀬戸物屋とか庶民の店が立ち並ぶ。
これはこれで楽しく時間があるのならばゆっくりと浸りたくなるような街だ。
北千住もそうだったが、同じ東京でも場所によってこうも雰囲気は変わるものなんだな。
一部分だけを見て全体を把握しようとするのは人間の本性なのだろうが、東京という大都会の違う一面を見る事ができたのはこれまたよい経験である。

Mと別れ新宿へ。
夜は別の友達と会うことになっている。
前回新宿に来たのはゲイのユーマに会って二丁目を案内してもらうというものだったが、今回は西やんという友達と久しぶりに会うのである。
西やんとは実際には3回ぐらいしか会っていないが、ネットを通じてかれこれ20年近くのつきあいがある。
またあれこれ書くと長くなるので昔の話を貼り付けておこう。

百レボと愉快な仲間たち 1 - あおしろみどりくろ

百レボと愉快な仲間たち 1 - あおしろみどりくろ

きっかけは去年の夏、クィーンズタウンのフラットメイトのタカに借りた本からだった。『百姓レボリューション』というタイトルの本で、僕はその本を数日で貪り読んでしまっ...

goo blog

 
百レボと愉快な仲間達

アジトと呼ばれている中華の店でビールを飲みながら近況報告とか世界情勢とか色々と語る。
僕が行くということで会いたいという人が何人かいたが、みんな都合が合わなくて結局は西やんと2人で、後から西やんの上司なのか友達なのかごっちゃんも参加する。
みんなでワイワイやるのも良いが、心の芯が同じ方向を向いている人とじっくり話すというのも良い。
人に会うというのが今回の旅の大きな目的だが、じっくりと人と話をする事の大切さを感じる事は多々あった。
西やんの話を聞くと、コロナ禍の間に飲食店は時間短縮だの営業縮小だのを半ば強制された。
このアジトと呼ばれる店では、窓をテープで貼り明かりが外に漏れないようにして、中で酒を飲んでいたという。
なんか反政府勢力の集まりみたいで、やっている事は楽しく明るく酒を飲むという愉快痛快な話だ。
時代が変われば命をかけて陰々滅々になるだろうが、時代と環境が違うので社会構造は同じでも暗さが違う。
そんな話を聞きながらやっぱりこの人は同志なんだなと思った。
住む所ややっている事は違えど、芯で繋がる関係は固い絆のようなものを感じる。
互いに相手の事を尊重尊敬しつつ、自分の道を突き進む姿が今の人間に必要なことなのではないか。
向こうも僕から何かしらのエネルギーを受け、僕も西やんとごっちゃんから刺激を受けた。
そこには奪い合いでないエネルギーの交流、突き詰めてしまえば愛が根底にある人間関係が存在する。
結局のところ、答えはそこにあり逆に言えば答えはそこにしかない。
実にシンプルだ。
新宿アジトにて今回の旅の最後の夜を堪能した。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2024年8月20日 BrokenRiver

2024-08-23 | 最新雪情報
今年初のブロークンリバー。
同行したのは奴隷のフルセカズヤとポーターズでスキーパトロールをしているヤサ。
自分は長い仕事を終えて久々の休み、カズヤも自分のツアーを終え日本帰国前日のフリーの1日。
この日は雪が降った後のブルーバードデイ、新雪40〜50cm、間違いなく今シーズン最高の1日である。
カズヤのツアーは雪に恵まれずお客さんはあまり良い状態でスキーができなくて帰国した、そこへきてこのパウダーである。
お客さんをさておき自分だけ美味しいところをいただく。
どれだけ悪運が強いんだこいつは!というようなタイミングがまたカズヤらしくてよろしい。
カズヤとはかれこれ30年ほどの付き合いになるが、お互いに忙しくなり一緒に滑る機会はなかなかない。
こうして一緒にクラブフィールドへ行くと、昔を思い出し懐かしい気持ちにもなる。
自分もカズヤもこうして年を重ねていくのを感じると、そういう生き方も悪くないなと思うのだ。


考えてみればカズヤと一緒に写っている写真は少ない。互いに爺いになってもこうやっていたいものだ。


広大なアランズベイスンのオープン前。


ヤサは白馬で働いていたのでカズヤのことも知っている。尊敬する人・・・らしい。


パーマーロッジは今日も愛に包まれていた。


子供が滑り大人はそれを見てビールを飲む。


今年はこの山にケアがいた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2024年8月14日 Porters

2024-08-15 | 最新雪情報
晴れた日が続くポーターズ。
山全体は白くなっているものの、まだまだ雪は足りない。
8月も半ばでこの雪の量だと、このままシーズンが終わってしまうのではないかと心配にもなる。
以前は1週間のサイクルで低気圧と高気圧が入れ替わり、それなりに雪を降らせたのだが今年は天気が全く読めない。
人間社会もそうだが自然界も以前とは完全に違うものになっているのを肌で感じる。
自然環境の変化というものは長い歴史の中では常に起こり続けてきたもので、人類はそれに合わせて生きてきた。
短いスパンで考えるか長いスパンで考えるかでも、物事の捉え方は大きく変わる。
目の前の状況を人間主体で見るのではなく自然の一部の人間として見つめて、今の自分に何ができるのかを考えるのが自分達がやるべき事だと思う。
天気はこの日がピークで下り坂へ向かっていく。


日本は夏休み 日本からきたスキーレーサーたちがキャンプをする。


山頂からクライストチャーチを望む。向こうも天気は良さそうだな。


山頂にてスキーパトロールのヤサ 本日のパトロールのユニフォームはこれです。


リフト係 フランス人のマシューとカナダ人のルビーは八方尾根でこの前のシーズンを過ごして今シーズンポーターズにやってきた。


空は青く雪は白い。平和な1日だ。


カフェのゴミ箱に村男がいた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本旅行記 10

2024-08-14 | 
金沢三日目は市内観光である。
まずは市内を見渡す見晴台から。
「いつもならここから白山が見えるのに」とヒデが残念そうに言うが、春の霞で霊峰白山は見えず。
そして東の茶屋街を歩く。
小京都と呼ばれるだけあって昔の茶屋が並ぶ街並みは素敵である。
こりゃいかにも観光客が喜ぶだろうなぁというような場所で、あちこちで写真を撮る観光客が絶えない。
貸衣装を着て写真を撮るなんてのも、観光地らしい一コマである。
ヒデに勧められるままに入った試飲ができる酒屋で飲んでみたが不味くないというだけの感想で、人生で一番かもしれないというほどの手取川を飲んだ感動からは程遠いものだった。
だからと言って「手取川の方が美味い」などとその店の人にいう気はない。
それこそヤボってもんだろう。



僕らが行ったのは朝も早い時間だったので人の出が少ないほうだが、繁忙期にはごった返すのは想像出来る。
自分の率直な感想を言うと、昔に賑わったお茶屋街と今現在の物とは違う物であり、そこから昔の社会風俗を想像するのは難しい。
実際に一つのお茶屋を解放して中に入れるような場所を見てみたが、引っ切り無しに人が出入りし子供が走り回るような状況では当時の様子を思い浮かべ心静かにその世界に浸る気分にはなれない。
一度は行ってもいいが二回行く気はない。
それよりもその近くの観光客目当てでなく人も少ないお茶屋街、一見さんお断りという雰囲気を建物が滲ませているような路地を歩く方が雰囲気があり好きだった。

そして兼六園である。
これは言わずもがな見事な日本庭園であるので僕がくどくど書かなくてもいいだろう。
一通り歩いてはみたものの、ここでも何故か自分の心が揺れ動くようなことはなかった。
兼六園を出て観光バスが停まる所では、バスドライバーがつまらなそうな顔をしてお客さんを待っている姿が妙に記憶に残っている。
ひがしの茶屋街、兼六園、金沢城跡、近江町市場、武家屋敷跡界隈、といったいわゆる観光名所を歩いたのだがどうも心が奮い立たない。
それぞれに日本っぽく良い所なのだが、何なのだろうなこれは。
お茶屋街では芸妓が歩く様を、兼六園では殿様が庭を愛でる様を、武家屋敷では武家が生きる様を想像するのだが、どれも今ひとつなのである。
旅の疲れがでてるのか、はたまた観光業に携わる者としてさめてしまっているのか、何かは分からないがモヤモヤは残る。



金沢市内の観光名所を巡って考えたのだが、ここでもオーバーツーリズムの波からは免れないのはもはや仕方がないだろう。
綺麗な場所に行きたいという感情は人間の自然な欲求であり、誰もそれを止めることはできない。
ましてやコロナ禍で世界中の人間の行動が急激に制限され、それが解放された現在は以前よりその動きが活発になっている。
そういう自分もコロナが終わって落ち着いたので日本に里帰りをした一人だ。
善悪の判断をしようとすると、物事がゆがんで見えてしまうのでそういう話は抜きにしてどういう状況か考えるようにしている。
人が動けば金も動く。
観光地のような場所に店ができて経済が潤うというのは、当たり前の話でどこの世界でも同じだ。
ただそこを訪れる人の数が多すぎるとバランスが崩れ、いろいろな弊害が起こる。
現在のように情報が一人歩きをし、全ての人が情報発信者になりたいという状況もその一つの要因だ。
旅をするということはただ空間を移動するのではなく、自分が生きる社会との相違点を見出し比較をすることで客観的に物を見ることができるようになる。
きれいごとだけでなく汚い所や危ない事もあることを知り、他人と出会うことで自分自身を見つめる。
それが旅の醍醐味なのだが、そんなのは小難しいことを言って大人の風を吹かせたい僕の戯言だ。
今の人には今の考えや価値観があり、それに乗って人は行動する。
そういう状況があるというだけの話だ。
それとは別に、自分が求める旅とは他人の価値観を物差しにすることなく、あくまで自分の持つ感性や心を動かされる事に焦点を当てて物を見る。
そういう意味では金沢市内の観光地にもう行く事はないだろうし、もしもう一度この地を訪れるのならば手取川の酒蔵に行ってみたいし、その奥にある霊峰白山を近くで見たいというのが素直な感想である。



金沢最後の夜はお好み焼きの店へ行くという。
日本のあちこちでいろいろと美味い物を食ってきた僕が行くと言うので、ヒデは聖が来たら何をご馳走しようかとあれこれ考えてくれていたらしい。
場所は前日に行った鶴来の町外れにある店で、人が多く集まる金沢より鶴来の方が好きだった僕には何の異存もない。
金沢と鶴来の関係はクィーンスタウンとアロータウンのようなものだ。
景色が綺麗でお店も多く観光客がごった返すクィーンスタウンと、その近くで派手さはなく小さいながらひっそりと昔風の情緒を残すアロータウン。
自分が連れて行ったお客さんのほとんどがアロータウンを気に入ってくれたし、僕自身も何故か心惹かれる街なのだ。
街が持つエネルギーというのか雰囲気というのか、何か特別これ!というものがあるわけではないし、うまく言葉にできないがなんとなく好きになる街。
目に見えてはっきり分かる特別にこれ!というものがあったらそこはすでに有名な観光地になっている。
インスタ映えする場所なんてのがいい例だ。
そんな鶴来へ行くまでにヒデが素敵な提案をしてくれた。
金沢から鶴来までは北陸鉄道石川線というローカル線があるのでそれに乗っていき、ヒデは終点鶴来まで車を回してくれる。
ローカル線が好きな僕としてはとても嬉しい。
新幹線の旅が移動としての手段であり、旅情のかけらが微塵もないなどと話していたのだ。
車で最寄り駅まで送ってくれて、そこからは30分ほどのローカル線の旅だ。
ワンマン車両の車内は部活を終えた高校生や家路に向かう勤め人など、生活の匂いがプンプンする。
電車は住宅街を抜け日が傾く田んぼの中をカタンカタンと走る。
停車駅はほとんどが無人駅で、家路に向かう人々が運転手に定期券を見せたり料金を払い降りていく。
こういうなんてことのない日常の一コマの中に異邦人の自分がいる。
運転手をはじめ乗客には当たり前の情景だが、僕には非日常だ。
終点鶴来駅でヒデが待っていて、そこから車でお目当のお好み焼屋へ。
まだ線路のレールが残っている廃線跡地の前にそのお店はあった。



お店の名前は八尾屋(やおや)お好み焼きのフルコースのお店で、古民家を改造した店構えの雰囲気が良い。
カウンターに僕とヒデが並んで座り、店主の親父が目の前で焼いてくれる。
お好み焼きでフルコースってなんなの?と思っていたが鉄板で前菜からメインへと流れるように次々と焼いてくれる料理だ。
もちろん全部が全部お好み焼きというわけではなく、前菜は薄焼き卵で包んだお肉だったりレンコンの薄切りえおお好み焼きっぽく作ったものだったり、エビ焼だったり、カキだったり。
そしてメインはお腹にたまるお好み焼きから焼うどんへ。
確かにこれはコース料理だな。
味は素材にこだわっているのだろう、文句なく美味い。
店主の親父は僕と同年代だろう。
最初は気難しくとっつきにくい雰囲気だったが、お店の片隅にあるスノーボードを僕が見つけスノーボードの話になり、自分昔のスキーパトロールの話をすると、うちとけて一気に饒舌になり色々な話で盛り上がった。
聞くと元々大阪のお好み焼き屋だったが、この地が気に入りお店を開くことにした。
ただしお店の場所で銀行と一悶着あったという。
というのもお店が辺鄙な場所なので銀行が渋って融資の話がまとまらなかった。
銀行側の言い分としては、こんな人が来にくい場所でやるより人が多く集まる金沢市街でやるべきだと。
それはそれで資本主義の基本に沿った考え方であり、何も間違っていない。
捨てる神あれば拾う神ありありで、別の銀行が融資を申し出てくれて今の場所に店を出すことができた。
神様はこんなところにも居る。
ミシュランでも星を取り、今やお店は大人気で予約が絶えない。
そうなると隠れ家的な名店ということで、テレビの取材の依頼も来るがそういうのは一切断っていると。
あーもう、昭和の頑固親父みたいでいい、とてもいい、すごくいい、なまらいい。
料理も美味かったが、僕は親父の生き様みたいなこの店が醸し出す雰囲気がとてつもなく気に入ってしまった。
白馬の食堂の絵夢のおかみさんもそうだったが、時代の流れに流されずかたくなに自分の信念を貫き通す人をみて、ここでも日本は大丈夫なんだろうなと思うのだ。
金沢最後の晩にこういう店に出会えたのは大きな喜びで、こういう思いがけない感動が旅の醍醐味だ。
人と人とのご縁、ご縁で全てこの世は成り立っている。



続く

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2024年8月6日 Craigieburn

2024-08-08 | 最新雪情報
今シーズン初のクレーギーバーン。
悲しいけどここも雪は少なく厳しい状況である。
ロープトーラインは雪はあるが、上級者か経験者のみ乗れる状態。
山頂付近はかろうじて雪はあるが、なんとか滑れる程度。
中間から下は夏道を通るのだが、どんなに注意深く滑っても石を拾う。
1本滑っただけだが板がボロボロになった。
こことオリンパスはなんとかオープンしているが、他のクラブフィールドは未だにオープンできず厳しい状況が続く。


今年初のロープトー ワクワク


上へ


そして山頂


ミドルベイスンの上部は良さそうだが下へ滑っていけない


一本だけハミルトンフェイス 気持ち良かったぁ〜


下まではこの道を下る。石がゴロゴロしていて板はボロボロ


普段はやらないお客さんとのツーショット お客さんのウィンは6年前に僕が案内して一緒に滑った。
次は何年後になるか分からないが、また会おうと固い握手をして別れた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする