全国のあおしろみどりくろファンの皆様、明けましておめでとうございます。
今年も不定期にアップされるこのブログ、筆者共々よろしくおつき合いのほどお願いいたします。
まあまあ、堅苦しい挨拶はこれくらいにして、年が明けた。
ヒマを持て余し何か書いてみようと思い、パソコンを開いてさあ一体何を書くべきか。
前回のトシキの話、前々回のヤマトの話、その前の弟子二人の話はモデルがいたし、自分も人との出会いでそれなりに想うことがあったのであれだけの話が書けた。
自分でも気に入っている話である。
今回は何について書こうというのではなく、新年だからいっちょ何か書いてみるかという行き当たりばったり的なノリで始めてみた。
毎年新年の頭に何かしら書いてきたし、読み返さないが今までは変革の社会であーだこーだとか、現状を見ることがむずかしいのがどうのとか、そんなエラそーな事を書き散らかしてきたような気がする。
今もその想いは変わっていないし、世界中のいろいろな現象を見ていると自分が想像している以上のスピードで変化をしているんだという気はある。
でももうそれ以上言っても仕方ないし、これを読んでいる人だって、そんなの分かってるよという気持ちはあるだろう。
逆にこの読者で「えー、そうなの?、そんなに世界は変わっているの、びっくり!」という人がいたらそれはそれで面白い。
なので今回は啓蒙的なことではなく、自分個人の想いを連ねてみようと思う。
最近の大きな変化は、スマホの新調だ。
なーんだそんなことか、と思うかもしれない。
そんな些細なことがこのおじさんには大事件なのである。
ガラケーからスマホに変えた話は何年前か書いた。
タイからもらったアイフォンSEというヤツは気に入っていたが、メッセージを打つときに勝手に互換されたりして不都合が出てきた。
そしてPodcastのプロレタリア万歳を久しぶりに収録しようとしたら、古い機種だとできないと言われた。ガーン
そこにサダオ登場。
サダオの事もブログのどこかに書いてあるはずだから探してくれ。
サダオの仕事が一段落して我が家に来て時間があるというので、新しいアイフォンを買うのに付き合ってもらった。
こういうのもご縁とタイミングだと思うのだよ。
そして収録したのが『プロレタリア万歳61回 プロレタリアは死んでいない』
買い物の一部始終を話しているので気になる人は聞いてほしい。
スマホを新調して思ったのは、こりゃ中毒になるだろうなぁと。
アプリを入れれば何でもできるが、アナログなおじさんは新しいアプリを入れる事自体に躊躇するというのか背徳感なのか罪悪感なのか、ともかく人間が機械に追いついていない。
だがデジタルネイティヴ達は何のためらいもなくその世界に入り、おじさんとは違う世界で生きている。
改めて自分の時代遅れさを目の当たりにして、時代の進み具合に胸を貫かれた気分だ。
前回の話でも書いたが写真家トシキとはご縁があって去年は2回もツアーをした。
人だけでなく物事も含めたご縁とは不思議な物で、全てそういうタイミングでできている。
トシキのように新しく繋がるご縁もあれば切れるご縁もある。
犬のココちゃんが死んだのが去年の4月の事だった。
これは厳密には切れていないな、何故なら一生自分の心の中にいる存在だからだ。
でも実際には会えなくなってしまった。
こういうのもご縁と呼ぶのだろう。
お客さんでも、この人とはまたいつかどこかで会うだろうなと感じる人もいれば、この人とは多分今回限りなんだろうなと思う時もある。
僕は人と付き合う時にその人が何を言っているのかではなく『何をやっているのか』で判断する。
いい歳をした人でもろくに挨拶もできない人もいるし、若い人でもヤマトのように自分がやるべき事をやっている人もいる。
昔働いていた会社の社長は「金ではない」と言いつつそいつは意地汚く金儲けをしていた。
どんなに綺麗事を並べてもやっている事を見ればその人となりというものが見えてくるものだ。
そういう観点で自分を見てみるとどうだろう、自分のやっている事とは。
野菜を作って自分も友人家族もハッピーにしてるし、ガイドの仕事でもお客さんを幸せにしてる。
ブログとPodcastで発信をしているし、自分の時間は山歩きとスキーをしている。
ギターとかウクレレで唄を歌うと友達には喜ばれるが家族には嫌がられる。
自分がやっている事とはそんな事ぐらいのものか。
そんな自分でも、事あるごとに誘ってくれる友達もいるし、喜んで迎え入れてくれる旧友もいれば、我が家に遊びに来てくれる人たちもいる。
それらが全てご縁であり、不思議なタイミングでそれは起こる。
タイミングと言えば、最近覚えた唄でコンビニエンスマンというT字路ズという人が歌っている唄がある。
なんの取り柄もない人間ですから 優しさくらいは誰よりも
好きの二文字がまた言えなくて 今度もあの娘は誰かのもの
それでもなんでもない顔をして ただ愛想をふりまく毎日に疲れただけさ
湿っぽい布団で丸くなる 夢は見せないでおくれ虚しいだけだから
カーテンの隙間から溢れる朝日は 弱い自分に弱いという
分かり合えぬ人もたくさんいるが 分からぬままでいいじゃないか
人を裏切る覚悟もなくて どっちつかずの言い訳ばかり
それでもなんでもない顔をして ただ坂道を登る毎日に疲れただけさ
安っぽい焼酎を流し込む こんな日は昔の友の声でも聴いてみようか
カーテンの隙間から溢れる朝日は 弱い自分を抱きしめる
弱いままで生きて行く
この唄を覚えたのも何のきっかけだったか、何故か心に響いたからだ。
そこまで自分のことを弱いとは思っていないが、時には弱気になる時もある。
ご縁が切れる時もあれば切れそうだが繋がった事もあった。
仲がよいと思っていたがうまくいかなくなった事もあった。
でも全ての人とうまくやって行くなんてのはどだい不可能だし、無理して相手に合わせる必要もなかろう。
そんな事より自分は自分の道を信じて進み、その結果でトモヤとケイスケという弟子達やヤマトやトシキと繋がった。
さらにブログではあげなかったが他にも新しい出会いもたくさんあったし、きっとこれからも続いていくであろう。
そんな具合で年が明け、今は忙しくなりすぎない程度に仕事をして、庭仕事をして山を歩くという毎日だ。
庭の野菜作りは多分一生続けていくだろう。
自分だけでなく、自分の周りの友達やその家族を幸せにするという労働には充分意味がある。
以前ブルシットジョブの話でも書いたが、労働の本質とは一体何か?
お金を稼ぐ事が労働なのか、人を幸せにする事が労働なのか、嫌いな事を嫌々やるのが労働なのか。
そういう原点回帰をしながらもこれからもこうやって生きていくのだろう。
今年も不定期にアップされるこのブログ、筆者共々よろしくおつき合いのほどお願いいたします。
まあまあ、堅苦しい挨拶はこれくらいにして、年が明けた。
ヒマを持て余し何か書いてみようと思い、パソコンを開いてさあ一体何を書くべきか。
前回のトシキの話、前々回のヤマトの話、その前の弟子二人の話はモデルがいたし、自分も人との出会いでそれなりに想うことがあったのであれだけの話が書けた。
自分でも気に入っている話である。
今回は何について書こうというのではなく、新年だからいっちょ何か書いてみるかという行き当たりばったり的なノリで始めてみた。
毎年新年の頭に何かしら書いてきたし、読み返さないが今までは変革の社会であーだこーだとか、現状を見ることがむずかしいのがどうのとか、そんなエラそーな事を書き散らかしてきたような気がする。
今もその想いは変わっていないし、世界中のいろいろな現象を見ていると自分が想像している以上のスピードで変化をしているんだという気はある。
でももうそれ以上言っても仕方ないし、これを読んでいる人だって、そんなの分かってるよという気持ちはあるだろう。
逆にこの読者で「えー、そうなの?、そんなに世界は変わっているの、びっくり!」という人がいたらそれはそれで面白い。
なので今回は啓蒙的なことではなく、自分個人の想いを連ねてみようと思う。
最近の大きな変化は、スマホの新調だ。
なーんだそんなことか、と思うかもしれない。
そんな些細なことがこのおじさんには大事件なのである。
ガラケーからスマホに変えた話は何年前か書いた。
タイからもらったアイフォンSEというヤツは気に入っていたが、メッセージを打つときに勝手に互換されたりして不都合が出てきた。
そしてPodcastのプロレタリア万歳を久しぶりに収録しようとしたら、古い機種だとできないと言われた。ガーン
そこにサダオ登場。
サダオの事もブログのどこかに書いてあるはずだから探してくれ。
サダオの仕事が一段落して我が家に来て時間があるというので、新しいアイフォンを買うのに付き合ってもらった。
こういうのもご縁とタイミングだと思うのだよ。
そして収録したのが『プロレタリア万歳61回 プロレタリアは死んでいない』
買い物の一部始終を話しているので気になる人は聞いてほしい。
スマホを新調して思ったのは、こりゃ中毒になるだろうなぁと。
アプリを入れれば何でもできるが、アナログなおじさんは新しいアプリを入れる事自体に躊躇するというのか背徳感なのか罪悪感なのか、ともかく人間が機械に追いついていない。
だがデジタルネイティヴ達は何のためらいもなくその世界に入り、おじさんとは違う世界で生きている。
改めて自分の時代遅れさを目の当たりにして、時代の進み具合に胸を貫かれた気分だ。
前回の話でも書いたが写真家トシキとはご縁があって去年は2回もツアーをした。
人だけでなく物事も含めたご縁とは不思議な物で、全てそういうタイミングでできている。
トシキのように新しく繋がるご縁もあれば切れるご縁もある。
犬のココちゃんが死んだのが去年の4月の事だった。
これは厳密には切れていないな、何故なら一生自分の心の中にいる存在だからだ。
でも実際には会えなくなってしまった。
こういうのもご縁と呼ぶのだろう。
お客さんでも、この人とはまたいつかどこかで会うだろうなと感じる人もいれば、この人とは多分今回限りなんだろうなと思う時もある。
僕は人と付き合う時にその人が何を言っているのかではなく『何をやっているのか』で判断する。
いい歳をした人でもろくに挨拶もできない人もいるし、若い人でもヤマトのように自分がやるべき事をやっている人もいる。
昔働いていた会社の社長は「金ではない」と言いつつそいつは意地汚く金儲けをしていた。
どんなに綺麗事を並べてもやっている事を見ればその人となりというものが見えてくるものだ。
そういう観点で自分を見てみるとどうだろう、自分のやっている事とは。
野菜を作って自分も友人家族もハッピーにしてるし、ガイドの仕事でもお客さんを幸せにしてる。
ブログとPodcastで発信をしているし、自分の時間は山歩きとスキーをしている。
ギターとかウクレレで唄を歌うと友達には喜ばれるが家族には嫌がられる。
自分がやっている事とはそんな事ぐらいのものか。
そんな自分でも、事あるごとに誘ってくれる友達もいるし、喜んで迎え入れてくれる旧友もいれば、我が家に遊びに来てくれる人たちもいる。
それらが全てご縁であり、不思議なタイミングでそれは起こる。
タイミングと言えば、最近覚えた唄でコンビニエンスマンというT字路ズという人が歌っている唄がある。
なんの取り柄もない人間ですから 優しさくらいは誰よりも
好きの二文字がまた言えなくて 今度もあの娘は誰かのもの
それでもなんでもない顔をして ただ愛想をふりまく毎日に疲れただけさ
湿っぽい布団で丸くなる 夢は見せないでおくれ虚しいだけだから
カーテンの隙間から溢れる朝日は 弱い自分に弱いという
分かり合えぬ人もたくさんいるが 分からぬままでいいじゃないか
人を裏切る覚悟もなくて どっちつかずの言い訳ばかり
それでもなんでもない顔をして ただ坂道を登る毎日に疲れただけさ
安っぽい焼酎を流し込む こんな日は昔の友の声でも聴いてみようか
カーテンの隙間から溢れる朝日は 弱い自分を抱きしめる
弱いままで生きて行く
この唄を覚えたのも何のきっかけだったか、何故か心に響いたからだ。
そこまで自分のことを弱いとは思っていないが、時には弱気になる時もある。
ご縁が切れる時もあれば切れそうだが繋がった事もあった。
仲がよいと思っていたがうまくいかなくなった事もあった。
でも全ての人とうまくやって行くなんてのはどだい不可能だし、無理して相手に合わせる必要もなかろう。
そんな事より自分は自分の道を信じて進み、その結果でトモヤとケイスケという弟子達やヤマトやトシキと繋がった。
さらにブログではあげなかったが他にも新しい出会いもたくさんあったし、きっとこれからも続いていくであろう。
そんな具合で年が明け、今は忙しくなりすぎない程度に仕事をして、庭仕事をして山を歩くという毎日だ。
庭の野菜作りは多分一生続けていくだろう。
自分だけでなく、自分の周りの友達やその家族を幸せにするという労働には充分意味がある。
以前ブルシットジョブの話でも書いたが、労働の本質とは一体何か?
お金を稼ぐ事が労働なのか、人を幸せにする事が労働なのか、嫌いな事を嫌々やるのが労働なのか。
そういう原点回帰をしながらもこれからもこうやって生きていくのだろう。
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