あおしろみどりくろ

楽園ニュージーランドで見た空の青、雪の白、森の緑、闇の黒の話である。

2024年 日本旅行記 2

2024-05-24 | 
ホテルに荷物を置き、アルツ磐梯時代のパトロール仲間マヤと出会い歌舞伎町界隈をウロウロ。
この日は甥っ子のハヤトが新宿でライブをやるというので見に行く。
ハヤトは芸人の卵で、東京で暮らしながら仲間のお笑い芸人達とライブをする。
一組の持ち時間は4〜5分で次から次へとお笑いコンビとかトリオが出てくるシステムだ。
中には何が面白いのかよく分からないというのもある。
ハヤトは『たどころ』というトリオの中で芸名はキティ。
今回はじいちゃんとばあちゃんが詐欺にひっかかるというコントでハヤトの役は孫。
身内のひいき目かもしれないが、発声もよくできていてまずまずの出来だと思った。
ただ、芸の道は厳しいものなのだろうと素人なりに想像はできる。
ハヤトは夕方からもう一度ライブがあるので、僕は寄席で落語なんぞを聴き、その後に合流。
軽く飯を食い、いよいよ今回のメインである新宿二丁目へ。
前々回のブログでも書いたが、いろんな意味で芸の人ユーマがやっているゲイバーパニックハウスに行くのである。
前回ニュージーランドで出会ったユーマが「今度は私が新宿二丁目をガイドします」という言葉に釣られて僕がホイホイとやってきた。
ハヤトも芸人のはしくれ、ユーマのことは元々知っており、それなら是非一緒に行きたいというので同行することになったのである。
二人でなんか怪しげなビルの地下を降りていくと、あったあったありましたよ、パニックハウス。
恐る恐るドアを開けたら中は異空間。
カウンターがあってお酒が並んでいて一応バーの体裁を保っているが、おチンチンのおもちゃとか訳分からない小物がそこら中に転がっている。
そんな中でユーマが僕たちを迎えてくれた。



カウンターの向こうで働いている多分ゲイの人も加わり先ずはビールで乾杯。
この日は日曜日ということもあってか、僕たち以外にお客さんはいないので貸切状態。
聞くと金曜土曜はやはり人が多く、かなり賑やかになるそうだ。
隣の店からはカラオケの音が聞こえるが、週末はここもそうなるのだろう。
僕は正直カラオケが嫌いなので、静かなのがありがたい。
おかげでユーマとゆっくり話ができたし、ついでにプロレタリア万歳の収録もノリでやってしまった。
その晩は他にお客さんも来そうにないので店を閉めて別の店に行こう、とユーマが言い出した。
「聖さんを連れて行きたいお店があるんです❤️」
全くもって異存はない。
その晩はとことん新宿二丁目で遊ぶつもりで近くにホテルも取ってあるし、他の店というのも見てみたい。
店を出てユーマのガイドでブラブラと新宿二丁目を歩く。
ユーマ曰く、この狭い界隈に450軒のゲイバーやお鍋バーやレズビアンバーその他諸々の、言わゆるそっち系のお店がある。
中にはガチのその筋の人だけとか一見さんお断りのお店もあるそうな。
確かに辺りは一種独特の雰囲気があり、同じ新宿でも歌舞伎町や三丁目からちょっと離れるとこうも変わるものなのか。
これだけ狭い地域にそういう店が集まっているというのは世界にも珍しいそうで、これはそのまま日本の性差別の歴史を表しているのではなかろうか。
少数派、マイナリティというものが安心して暮らすために取る手段は同士で集まることであり、これはどの部族や民族や宗教でも同じ事だし、動物の世界でもある。
あるマイナリティが密集すれば、限られたその地域では多数派となり政治的なり武力的なりの力が生まれる。
田舎ではゲイというだけで特別視され差別迫害された人でも、新宿二丁目に来ればただの人になれる、ということは容易に想像できる。
そういう形でできたんだろうな、この街は。
根底にあるのは自分と違うものを認めず排他的になる人間の心だ。
日本の社会の側面を垣間見た。



ユーマが連れて行ってくれたのは二丁目からちょっと離れた所にある FTM Bar 2'CABIN
昔はゲイという呼び名ではなくオカマと呼ばれ、逆はオカマに対しオナベと呼ばれていた。
漢字で書くとお釜にお鍋ということで、これも掘り下げたら色々な話が出てきそうだ。
昔の言い方でおなべバー、今の言い方でFTMバーは、とあるビルの中にあるこじんまりとした店だった。
内装は落ち着いた木目で、カウンターが数席にボックス席が一つという大きさというか小ささというか。
キャビンとは船室とか小屋という意味があるが確かにそんな雰囲気であり、それが心地よい。
ユーマのゲイバーパニックハウスは、おチンチンがあっちこっちに転がっているような訳のわからない空間だったが、それとは打って変わったお店である。
そして目の前に居るのは、オナベのマサキとシュート、二人とも元は女で性転換をして男になったという人たち。
僕はボックス席の奥でオカマに挟まれて座っているという状況だ。
先ずはユーマがシャンパンを開けてみんなで乾杯。
話を聞くと彼らはタイかどこかで性転換の手術をしてオッパイやその他のものを取ってしまって男になり、今は奥さんもいて幸せに暮らしているそうな。
マサキもシュートも見た目には顔立ちの整った男の子といった印象で、言われなければ気づかないだろうな。
以前も書いたが、僕はオカマだろうがオナベだろうが、土鍋だろうが中華鍋だろうが圧力鍋だろうがすき焼き鍋だろうがフライパンだろうが気にしない。
だから自分もストレートだろうがカーブだろうがシュートだろうがスライダーだろうがフォークだろうがナックルボールだろうが気にしない。
なんか増えたが、大切なのは心の奥に愛と平和の心があるかどうかだ。
そうやってカテゴライズする事がナンセンスな世の中になりつつある。
自分が持っている価値観や先入観というものが実は社会によって定義されたものであり、その事を我々は認識していない、そろそろそういうことに人類は気づくべきだ。



ユーマが開けたシャンパンボトルが空になったところで今度は僕の番だろう、ボトルを注文した。
色がきれいだったし美味しかったので同じのをと思ったが、あいにく品切れということで別のシャンパンを出してくれた。
こういう時に旅人が酒場で不安になるのは、ぼったくられるんじゃないかという心配事だ。
世の中にはそういうお店もあるし、旅の本とか読んでも世界中でそういった事柄はいくらでも出てくる。
新宿にもぼったくりバーや暴力バーはある。
そこはそれ、今日はユーマというガイドがいるではないか。
見知らぬ街でぼったくられる心配なく安心して飲めるのは大きい。
そういえば僕もただいま計画中の企画だが、クライストチャーチのパブツアーを考えている。
市内のパブを何軒かハシゴしながら、ビールの歴史の話をしながら飲むというものだ。
けっこういけると思うので、早くモノにしないとな。



楽しい時間はあっという間に過ぎるもので、新宿の夜は更けボトルも空いてそろそろお開き、時間は2時を回っている。
いつものごとく何を話したか覚えていないが楽しかった感覚だけが残っている。
僕にしてはこの時間まで起きているのも非日常、大都会にいるのも非日常、ユーマと一緒に飲んでいるのも非日常、オナベに出会うのも非日常、非日常のオンパレードだ。
旅というもの自体が非日常のものであり、人はそれを求めて旅をする。
旅をすることにより自分の住む環境と違う世界を体験比較し、客観的に自分の社会を判断する。
人に会うのも同じことで、自分と違う価値観や人生観を持つ人と会うことで自分自身を客観的に見ることができる。
帰り道の途中までユーマと歩き、ギンギラギン(死語)にネオンが輝く大通りでお別れをした。
考えてみれば不思議なご縁で繋がったものだが、こうして一緒の時を過ごせたということが嬉しい。
ホテルへ向かう帰り道、夜中の3時近くというのに歌舞伎町界隈は人通りも多くお店も閉める気配を見せない。
不夜城という言葉がふと頭に浮かんだ。

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2024年 日本旅行記 1

2024-05-21 | 
久しぶりに日本に行った。
5年ぶりの日本帰国である。
前回はコロナ前のことであり、父親に顔を見せるという目的があった。
その時はあまりあちこちに行かず、実家の静岡でほとんどの時間を過ごした。
その後でコロナ禍があり、世の中がいろいろと変わった。
自分のニュージーランドでの生活はブログに書いてある通りなのだが、コロナ禍の間に父親が死に、その財産整理やあれこれで帰ることになった。
昭和の頑固オヤジの典型のような父が死んだのはもう3年近く前になるが、死ぬ直前まで電話であれこれ話したし、痛みも苦しみもなく逝ったので大往生と言えよう。
実家の片付けや遺産整理が主な理由だが、もう一つ、娘が今年から八方尾根スキー場でスキーパトロールを始めたのでその現場も見てみようと思いついた。
ちょうど仕事も忙しい時期を終え、ポッカリと穴が空いたように3週間ぐらい何もなかった。
こういうのはタイミングであり、こういう時の決断は速い。
そんな具合で4月の頭に僕は日本へ降り立った。

日本へ帰るとなると、大騒ぎだ。
僕に会いたいという人が大勢いる。
家族親戚、古くからの友人、何回も来てくれたお客さん、昔の仕事仲間、新しくできた友達、仕事の後輩、弟子その他もろもろ。
人に会うだけでスケジュールが埋まっていく。
以前はそういう人があまりに多かったのでジャパンツアーをやった。
今回は時間も限られているのでエリアを絞って行動を決めた。
まずは実家のある静岡、そして娘のいる長野の白馬、白馬の先の北陸ぐらいをウロウロと回る。
北海道の知人友人からも当然連絡が来たが、スマン今回は行けん、と断った。
1週間ほど実家の片付けだの法的手続きうんぬんだのを済ませ、旅の空へ出たのは4月も半ばに差し掛かる頃だった。



実家のある清水から東海道線で沼津へ、そこから御殿場線で御殿場まで。
富士山を左手に見ながらぐるりと3分の1ぐらい周る。
それも車でなく電車での移動が旅情感を増す。
見知らぬ土地を旅する感覚は新鮮であり自分自身を活性化させる。
御殿場駅では弟分のリタローが迎えに来てくれた。
リタローは何年も前にクィーンズタウンで一緒に飲んだ仲であり、僕のことを兄さんと呼ぶ。
可愛い弟分も今では宿を経営し、子供も出来たから会いに来てくれ、静岡から長野へ行く途中に山梨へ是非寄ってくれということでヤツがいる山中湖に行くことになった。
御殿場から車で山中湖へ。
静岡では散り始めていた桜も御殿場あたりではまだ咲き始めで、さらに山に向かうと木々は冬の装いである。
まずは今晩のお宿だが、これがすごかった。
今はまだ工事中だが、いずれお客様用にする大きなモンゴル風のテントの前には富士山がどかーん。
1日1組限定の貸切キャンプサイトで、簡易サウナもある。
目の前に遮るものはなく、富士山を見ながら焚き火もできるのが売りだと言う。
すでに別棟の営業はしており、外国人観光客のお世話をテキパキするリタローの姿が微笑ましい。
機会がある人は是非とも行ってほしい。
https://inthemood.club/



自分も静岡の出で毎日富士山を見ながら子供時代を過ごしてきたが、それとはスケールが違う。
絶対的で圧倒的な存在感であり、確かに山岳信仰の対象になる山だ。
そうか、リタローはこういう場所で生まれ育ったのか。
人が住む環境が、その人の人格形成に及ぼす影響は絶対にあると思う。
温暖な気候の人はのんびりとするだろうし、雨が多い所の人は陰々滅々とした性格が多いと言う。
もちろん個人差は絶対にあるが、長い間そこに住む人々、例えばフィンランド人が無口であるとか、ラテン系の人が陽気というのはそういう現れだろう。
でっかい富士山を見ながら思ったことは、もしこの距離で噴火が起こったらそりゃあきらめるだろうなと。
なんかじたばた逃げてもどうしようもないだろう、というあきらめなのか吹っ切れる思いなのか。
そういう人知の想いの及ばないぐらいの存在感で、その奥にあるのは人間は自然をコントロールできないという当たり前だが今の社会では忘れられている自然崇拝の心だと思う。



山中湖にお昼に着き、友達のアキさんと久しぶりに会った。
アキさんは以前一緒に働いていた仲であり、今は山梨に住んでいるので午後を使って地元を案内してくれるという運びとなった。
このアキさんも面白い人で以前のブログで書いたので興味がある人はそれを読んでほしい。
蔵頭アキさん
お昼ご飯を食べながら互いの近況報告など話は尽きないが、いざドライブへ出発。
リタローもアキさんも口をそろえて言うのが、河口湖界隈はもうダメだと。
どうやらここもオーバーツーリズムの流れでひどいことになっているらしい。
地元の人たちが言う「もうダメ」とはどういう感じなのか、百聞は一見にしかず、そこを案内してもらおうか。
山中湖から河口湖へ向かう途中で鎮守の森が見えてきた。
近づくにつれどんどんそのパワーが強くなるのがはっきり感じられ、鳥居の前を車が通過する一瞬に見えた参道ではっきりとその存在を感じた。
北口本宮冨士浅間神社という神社で、富士山の周りにはいくつもの富士浅間神社があるが、北口本宮が社殿も立派だという。
なるほどな、どうりですごいパワーだ。
さらに車を走らせ河口湖へ。
富士急河口湖駅前を車で通過して、地元の人がもうダメだと嘆く意味が分かった。
観光客がそこらじゅうに溢れていて、どこもかしこも人の行列だし車は渋滞。
そもそもこれだけ大勢の人が訪れるように街が設計されていない。
街のインフラと来る人のバランスが崩れているのが原因である。
車から街を見ていると人でごった返している所にも普通の住宅はあり、ここに住んでいる人は迷惑をしているのだろうなと思った。
引っ越せる人は引っ越しているだろうが、諸々の諸事情で動けない人もいる。
観光客が増えてもその恩恵を受けない人もいる。
何が良い、なにが悪いという判断を簡単にするべきではないが、そういう状況だという事を理解するのは大切だ。
たぶん河口湖と同じ状況が日本中の観光地、いや世界でも起こっていることだろう。
噂のローソンの前を通り湖岸線に沿ってドライブをする。
折しも桜は満開であり、桜並木の向こうに河口湖が広がり、その先に富士山がどっかーんと居座る。
まさに海外からの観光客が求めるザ・ジャパンがそこにあった。
これは大勢の人が集まるのも仕方ないな。
だって綺麗だもの。
僕が見ても美しいと思う。
綺麗な景色を見たいという好奇心は誰でも持っている感情であり、なんぴとたりともそれを止めることはできない。
このオーバーツーリズムの流れはしばらくは止まらないだろうな。
河口湖の近くには、富士山と桜と五重塔という、誰もが見た事があるあの写真のお寺があるそうで、普段30分ぐらいかかる場所がこの時期には3時間ぐらいの行列になるという。
そんな時間の余裕は無いしそこまでして観光地を訪れたいわけでも無い。
河口湖、西湖とドライブをして富士の樹海に入り、道の駅で休憩。
そこでちょっとだけ、本当にさわりだけ遊歩道を歩いてみた。
富士の樹海と言うと、迷ったら出られないとか自殺をする人が多いとかそういうイメージがあるが、要は手付かずの原生林なのである。
火山岩の地表はびっしりと苔に覆われてその下には穴がボコボコと空いていてまっすぐには歩けない。
確かにこれは迷ったら抜け出せないだろうな。
でもそんなことより僕が感じたのは圧倒的な森の氣である。
ルートバーンなどニュージーランドの森を歩いている時に感じる原生林が持つ氣、あえて氣と書く。
それはおどろおどろしいものではなく、無数の生命が宿る、絶対に人間が作ることのできない森の命。
自分が知らないだけであって日本にも森はあるのだが、日本の場合は長い歴史があるので何かしら人の手が入っている場合が多いのだろう。
ニュージーランドと共通する原生林の氣を垣間見た。
同時に気づいたのは、神社がある鎮守の森が持つ氣とは全く異質のエネルギーであると。
エネルギーの質というものを強く実感した瞬間であり、そういう意味でも日本って凄いなと思うのだ。
この辺りまで来ると静岡の県境までもそう遠くない。この日の朝に地元清水を出てから富士山の周りを4分の3周ぐらいぐるりと周ったようような具合である。
山は見る角度で形を変えるが、富士山はどこから見ても円錐状の美しい山だ。
今回は富士五湖近辺の下調べを一切せずに、アキさんにガイドをしてもらったわけだが、地元の道を知り尽くしているだけあって実に効率よく、限られた時間内で色々と周ってもらった。
なんとなく自分にはこの旅のスタイルがあっているのではないかと思い始めた。
目的がありそこに向かうのも一つのスタイルだが、その地元に住む友人の声を聞き、彼らが僕のために連れて行ってくれる場所に行くというのが自分流の旅だろうな。
この後ニュージーランドに帰るまで、僕は行く先の下調べを一切せず、ただ友達が案内してくれる所、友達が僕に見せたいという所を流れに身を任せて見て回った。
夜はリタローと地元の居酒屋で飲んだ。
ニュージーランドの思い出話、コロナ禍の出来事、河口湖と山中湖の状況、富士山を軸とする自然体験ツアー、今のツーリズムとこれからの社会、話は尽きず久しぶりにじっくりと弟分とサシで話ができた。
酔ったついでにプロレタリア万歳の収録もやってしまった。
居酒屋で録音したから周りの音とか声がガヤガヤ入ってるが、これはこれで記録として取っておくのもこれまた一興。

プロレタリア万歳 リタロー編

快適なゲルでの一晩を過ごし、朝カーテンを開けるとまぎれもない存在感で富士山が居た。
朝日を浴びて神々しくそびえ立つ山。
自然と手を合わせ祈る気分になる。
僕が持っている信仰心とはこういうものなんだなぁ。
思い起こせば僕ら静岡人が見る富士山は西日が当たることはあっても、朝日を浴びる姿はない。
富士山の向こう側とこちら側ではこうも違うものだ。
たまにお国自慢で富士山をめぐり静岡側と山梨側で言い争うみたいなのがあるが、それこそナンセンスである。
そもそも誰のものなどという所有権の概念がアホらしい。
ぼんやりとそんなことを考えながら朝の贅沢な時間を過ごしていると、何やらもくもくと煙があがってきた。
そう言えばリタローが、年に一度の野焼きをすると言っていたが、このことだったのか。
今年はコロナも開けて大規模にやるそうで、あっというまに富士山は見えなくなってしまった。
朝のうちにちゃんと写真を撮っておいてよかったぁ。



野焼きで地元の仕事をしてきたリタローが帰ってきて出発。
この日は奥さんの誕生日だったそうで、娘と3人でディズニーランドに行くというので新宿まで乗せてもらう。
富士山の裾野から典型的な日本の田舎の景色を眺め、高速道路に乗ってしまえばあとは大都会東京までまっしぐら。
新宿で降ろしてもらい、リタロー家族ともここでお別れ。
僕は再び旅の空である。

続く
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北島悠遊記

2022-05-27 | 
ブドウ畑の仕事が一段落してホリデーに入ったので所用を兼ねてオークランドへ行ってきた。
オークランドから荷物を運ぶ必要があったので、行きは飛行機、帰りはレンタカーでドライブしてクライストチャーチまでという5泊6日の行程だ。
オークランドへ仕事以外で行ったのは20年ぶりだ。
僕が初めてニュージーランドに来たのは1987年の5月だから35年前になるのか。
その時は3ヶ月オークランドの英語学校に通った。
18歳という多感な年頃に当時のオークランドで短いながらも生活をしたのは良い経験だったと今となっては思う。
その時には右も左も分からず、まさか自分がこの国に住むことになろうとは夢にも思わなかった。
当時のオークランドも都会だったが、のんびりとして治安も良く人々は親切で、古き良きニュージーランドがあった。
今回はその時の先生とも会い、互いの子供の写真など見せたり昔話をして旧交を温めた。
だが連絡が取れなくなってしまった先生もいるし、ホームステイで世話になった人もすでに亡くなってしまった。
人とのご縁というのは不思議なもので、会える時には会えるし会えない時にはどうやっても会えない。
会えないというのもこれまたご縁で、それは会うタイミングではないと理解している。



人が今の世の中でするべきことは3つある。
一つは本を読むこと。もう一つは旅をすること。そして人に会うことである。
これは今の世に限ったことではなく、どの時代や場所においても当てはまることだ。
共通することは、自分が持っている常識と違う知識や価値観があることを知る。
そのことによって相対的に自分を取り巻く状況を見ることができ、最終的には自分自身の内観へつながる。
人間は相対的にしか価値判断ができない。
日本から一回も出たことがない人は、日本の本当の良さが分からない。
どんなに素晴らしい所に住んでいようと、ずーっとそこに住んでいればそれが当たり前となり、何も感じられなくなる。
日本は、と書いたがこれは日本に限らずインドだろうがアメリカだろうが北海道だろうが大阪だろうが同じこと。
そこで大切なのが旅をすることなのだ。
自分が住んでいる場所との差異を感じ、他所には他所の社会があることを身を持って体感する、これは相手を認めるということにつながる。
相手を認めることができないとどうなるか、自分がもしくは自分の社会だけが正しいというエゴに発展する。
さらに非日常という旅先では良い所も悪い所も客観的に見ることがたやすいので、これまた相対的に自分の住む環境も客観的に見やすくなる。
そして旅先において自分が住む社会との差異が大きければ大きいほど理解しやすい。
例えば日本の端に行くのも世界の裏側に行くのも『非日常で旅』という点では同じだが、世界の裏側の方が自分の日常とかけ離れているので違いが分かりやすい。
でも考え方や見方によっては、例え隣町へ行くのであっても、充分『旅』になりうる。
要はそれを感じ取れる観察力や感性を持つかどうかである。



この2年というもの、世界中で人間の移動が制限され続けてきた。
旅というものが簡単にできない世の中である。
僕も仕事で北島に何回か行ったが、それらは旅ではなく仕事であったり単なる移動だった。
今回は不慣れな土地へ一人旅。
何回か行ったことはあるが、知った気にならず初めて行く場所のように見て回ろうと意識して旅をした。
今回はオークランドで荷物を受け取り、それをクライストチャーチへ持ってくるという用事があったのでレンタカーを借りた。
レンタカーもリローケーションというシステムで、決められた期間ならタダで借りられる。
レンタカー会社も国内で車の移動が必要な時があるのでそういう車を貸し出す。
ガソリン代やフェリー代は払わなければならないが、基本タダである。
車を運転して気づいたのだが、オークランドは坂が多い。
火山で出来た地形に街ができたので地形は複雑だ。
道路は右へ左へ曲がりくねり常にアップダウンがある。
感覚としてはジェットコースターのようだ。
まっすぐの道路が坂をいったん下りきりそこから登り、見えなくなるところで曲がりながら下っていく、なんてのはクライストチャーチでは全く無い景色だ。
こうやって見てみると、いかに自分が住んでいる場所が平野かということを思い知らされる。
相対的にものを見るとはそういうことだ。
そして当たり前のことだが暖かい。
緯度が違うのだからそれだけ暖かいというのは頭で考えれば分かるが、それを体感するというのは体で理解することだ。
きっと北海道に住んでいる人が九州に旅行に行けば、こういう感じになるのだろう。
暖かい気候に関連するが、植生が違って緑が多い。
僕は山歩きのガイドをしているぐらいだからニュージーランドの植物の事を人よりは知っている。
普段自分がいる南島の中でも北と南では植生が違うのだが、その範囲を超えた植物の世界を見るのは楽しいものがある。
亜熱帯性の気候だからかヤシが多い景色はそれだけで南国というイメージだ。
バナナやコーヒーの木が育つなんて話を友人に聞くと、植物にとっても住める地域なんだなと思う。
植物にとって住みやすい場所があるように、動物によっても住みやすい場所はある。
寒い気候より暖かい気候の方が、人間という動物にとって住みやすい。
動物は厚い毛皮を持ったり冬眠することにより寒さという環境を超えるが、人間は文明というもののおかげで寒い場所でも生活ができるようになった。
でも冬の寒さの中で生活するには、暖を取る薪とか電気とかそれなりのエネルギーが必要だ。
赤道から離れ北へ南へ、北極や南極へ近づくほどにそのエネルギーは大きくなる。
元々は南太平洋で裸で暮らしていたマオリの人たちが南島に極端に少なく、ほとんどが北島で暮らすのは自然なことだ。
オークランドから車で40分ぐらい北の街で友達がカフェをやっておりそこを訪ねたが、海が近く自然に溢れ適度な大きさの街があり、良い所だなぁと思った。
近くの公園にはキウィもいると言うし、スキーをしないで海が好きならこういう場所に住むのも良いだろうな。



今回の旅で僕が意識して積極的にしたのが人に会うということ。
人間の移動が制限され、なおかつ情報伝達の進化により、直接会うコミュニケーションをしなくても済む社会となっている。
誰とでも世界の裏側の友達とでも、ネットを通して顔も見れるし話もできる。
ああ便利な世の中になったね、めでたしめでたし、なのか本当に?
今だからこそ、こんな世の中だからこそ、直接人に会う大切さがあるのではないだろうか、と僕は考える。
昔からの友人、知人、1回だけ会った人、初めて会った人、いろいろな人に会った。
会って気づいたことは、氣の交流というものがあるということ。
目には見えない何かがそこに存在し、それが直接会って話をすることによって増幅する。
互いの氣が高まるというのはこういうことなんだろうな、と思った。
会ってエネルギーを奪われ疲れてしまう、という人は世の中に存在するが、今回の旅ではそういう人には会わずにそれぞれに良い氣の交流ができた。
会うも会わぬも、そういったもの全てがご縁なのだろう。



旅の日程はオークランドで3泊、ロトルア1泊、ウェリントンで1泊してクライストチャーチへ帰ってくる。
オークランドでは街の中心部へは行かず、郊外の友人宅などを巡って過ごした。
オークランドからタウランガを経てロトルアへ。
ロトルアでは女房のお勧めで、源泉掛け流しの日本式風呂がある宿に泊まった。
なんでも敷地の数メートル先に源泉が湧き出している場所があり、そこから湯を引いてきていると。
湯に浸かると体にヌルっとまとわりつくような質感で、これぞ本物の温泉。
あ〜極楽極楽。火山のない南島では絶対に味わえないものである。
南島にも温泉はあるが、火山性の温泉とは水質からして違う。
硫黄の匂いがプンプンするような温泉は大地の恵みだ。
これだって無い状態を知っているから感動も大きいのであって、例えば草津とか野沢とかそういう所で生まれ育ち今もそこに住んでいるなんて人には当たり前すぎて感動もないだろう。
まあ、もしも僕が温泉街に住んでいたら旅先をわざわざ温泉のある場所に選ばないで、ビーチリゾートだとか大都会だとか温泉と全然関係ない所を選ぶことだろう。
ともあれ温泉宿で1泊してから車で南下。
ロトルア郊外には間欠泉や泥の沼がボコボコ噴き出す場所が多い。
ドライブの途中で渡った川は丁度良い温度で、服を脱げばそのまま入れるような場所もあった。
きっと地元の人しか知らないような場所がたくさんあるんだろうな。



1日ドライブしてウェリントンに投宿。
街の中心から少しだけ外れたコロニアルビレッジのホテルに泊まった。
周りはアンティークの店とかクラッシックの楽器屋とか小洒落たカフェとかが並ぶ。
昔ながらの建物がそのまま残っている街並みは雰囲気が良い。
こういう昔の雰囲気が残っている街を見ると、僕は地震前のクライストチャーチを思い出す。
クライストチャーチは街の中心部が地震で壊滅的に破壊され、今は新しい建物が立ち並ぶ街になりつつある。
きれいだしおしゃれで洗練された雰囲気の街は、シドニーのようだと人は言う。
これはどうしようもない事だが、クライストチャーチらしさはなくなってしまった。
失われたものは戻らない。
ウェリントンの街も大きな地震が来ればそうなってしまう。
今まで地震がなかったから、これからもないという保証はどこにもない。
これは歴史を勉強して学んだことだが、今まで起こらなかったことがこれからも起こらないということはない。
逆を返して言えば、今まで起こらなかったことが今の世の中で起きている。
だからこそ今という瞬間が大切でありそれを感じることが生きるということだ。





夜はウェリントンの大学で勉強をしている娘に案内されて、街の中心部の繁華街にあるエチオピア料理のお店へ。
絶対に自分一人ならば来ない場所だが、地元に住む人は最高のガイドになりうる。
エチオピア料理なんて聞いたことも食べたこともないが、店は結構流行っていた。
お店はきっちりとしたレストランではなく、カフェっぽい造りのカジュアルな店だ。
料理は鶏肉や牛肉や豆類の煮込み料理を、やや酸っぱいパンケーキと一緒に食べる。
今まで食べた経験だとモロッコ料理に近く、スパイスが効いてなかなか美味い。
そして食後は娘がお勧めするアイスクリーム屋でデザート。
いくつも賞を取っているアイスクリーム屋は確かに美味かった。
繁華街を歩いて感じるのは、古い街並みの中での新しい感覚というものか。
大きすぎず小さすぎず、都会だが変に金持ちぶってるわけでもなく、古い物も新しい物も、人種も文化も全てが程よく入り混ざるバランス感が良い。
素直にいい街だな、と思った。
「将来的にこの街に住みたいとは思わないが、この街で大学生活ができたのは良かったと思っている」と娘が言う。
ごもっともな話だ。
18歳の僕が高校卒業後に日本を飛び出してオークランドで短いながらも生活をしたように、娘は娘の人生で色々な経験を積んでいる。
もしも娘がウェリントンにいなかったら、この旅でも素通りするであろうが、娘のおかげでこの街の今まで知らなかった一面を見ることができた。
こういうのもご縁というものだし、いろいろな刺激を受けるのが旅の本質でもある。



旅の最終日はフェリーが2時間ほど遅れたので、朝ホテルの周りを散歩する時間ができた。
地形的に山が海のすぐそばまで迫っているので坂が多い。
ホテルの周りにも車が入れないような路地もある。
そういう路地を当てもなくブラブラと歩くのはなかなか気分が良い。
フラっと見つけたベーカリーカフェでのんびりコーヒーを飲むのもフェリーが遅れたおかげだ。
無事にフェリーに乗り南島へ着くと、あとはひたすらクライストチャーチへ帰るだけのドライブ。
南島に渡った瞬間に僕の旅は終わってしまった気がする。
夕方に無事に我が家に着き、妻が作ってくれた日本式のカレーを食べて「あーあ、やっぱり我が家はいいなあ」などというのも旅の終わりっぽくてよろしい。






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非日常

2019-06-07 | 
人間とは変化を求める生き物である。
時間の変化、場所の変化、物事の変化、意識の変化、いろいろあるが、多かれ少なかれ誰もが潜在的に変化を求めている。
そう考えると旅という物自体が普段の生活からの変化、非日常のものである。
それを求めて古今東西、人は旅をしてきたのであろう。
今回僕は思い立って里帰りをした。
期間は1週間ちょっと、と短い滞在だったが色々な経験をした。
旨い物もたらふく食べた。
記憶が薄れる前に書いておこう。

5月のこの時期、日本に里帰りする人は多い。
仕事も暇になり休みも取りやすく、なおかつ飛行機の運賃が安くなるのだ。
偶然に友達サムの妻子が里帰りする日程と一緒になった。
サムはNZに残るが、奥さんのユーコと長男カイト次男ワタルが里帰りする。
サム一家とは浅くない付き合いで、子供達も生まれた頃から知っているので、向こうも僕も一緒の日程で喜んでいた。
だがクライストチャーチからオークランドまで早朝の飛行機でケチがついた。
僕は彼等と一緒の席に座ろうとしたのだが、すでにそこは埋まっていたので、すぐ後ろの席でチェックインした。
飛行機に乗り込み、窓際にカイト、その横にユーコがワタルをひざに乗せ、通路側に誰か知らない人、そのすぐ後ろに僕。
ユーコの横に乗ってきたのは50代後半、パケハ(白人)のビジネスマン風の人。僕は彼に頼んだ。
「あのう、この家族は僕の友達なんだけど、良かったら席を替わってもらえないでしょうか?小さい子供もいるし」
「だめだ。ここはワシの席だ。席は替わらない。ワシはここに座る。」
なんだよ、この親父、そんな言い方無いだろ。
こっちなら横は空いているから楽に座れるだろうに。
ユーコと後で話したのだが、英語の訛りから言ってニュージーランド人じゃないだろうと。
気さくなキウィはそんなみみっちい事は言わない。
まあ1時間ちょっとのフライトだから仕方ないか。
その1時間ちょっとの間に、ユーコのひざの上のワタルがぐずって暴れ、横のイヤな親父に2,3発、ケリを入れた。
「よくやった、ワタル」とユーコは内心思ったそうだ。



オークランドでは旧友Mが会いに来てくれた。
聞くと仕事場が空港のすぐそばなので、普段会えないから挨拶だけでも、というわけで一緒に国際空港まで10分ぐらい歩きながら話をした。
4年前に10年ぶりに日本へ帰った時には、浅草園芸ホールで落語、そして屋形船で夜の東京湾観光、締めは彼が当時住んでいた品川の高層マンションの最上階ペントハウスでジャグジー、という普段の生活からは考えられないような経験をさせてもらった。
ヤツにも色々な人生があるが、こうやってことあるごとに会えるのはうれしいものだ。
オークランドから東京までの飛行機ではユーコ達の横に座っていた若い中国人が快く席を替わってくれて、僕はカイトと並んで座り、一緒にゲームなどして遊んで時間を過ごした。
旅は道連れ、と言うが、長いフライトも誰か友達と一緒の方がいいな。



成田でユーコ達と別れ、30年来の旧友龍崎昇が迎えに来てくれてヤツの家へ。
4年前は龍崎がJCと成田へ迎えに来てくれた。
空港から家へ向かう車の窓からは竹やぶ、田んぼ、畑、雑木林、そういったものが見えた。妙に懐かしい風景だ。
「ああ、日本の田舎の景色だなあ」僕がつぶやくと龍崎が言った。
「親子で同じように感動するんだな。深雪(僕の娘)が来た時も同じような事言ってたぞ」
一昨年は、娘が初の一人旅で日本に来て、日本初日はヤツの家に世話になった。
ヤツの家に着き、荷物を開けて気がついた、頼まれていたお土産のクランペットが無い。
家を出る時に、何か忘れ物をしているなあ、と思ったのはこれだったのか。
まあ忘れてしまった物は仕方ない。
その晩は旨いビールと地元の魚で至福の時を過ごした。やはり昔からの友っていいな。

今回の里帰りは家族に会うためなので、家族はもちろん親戚の人にも挨拶に行った。
父と兄の3人で熱海の温泉に泊まり、伊豆の小旅行もした。
すでにブログにも書いたが、竹原ピストルのライブも行った。
中学の頃の友達にも会い、よくケンカをしたヤツとも仲良く飲んだ。
終わってみれば結構いろいろあった1週間だったのだ。
今回は、と言うか前回もそうだったが兄の家に泊めさせてもらった。
僕が生まれ育った家は、今は誰も住んでいなく物置のような状態である。
父親は別の家に住んでおり、物置のような実家も老朽化が激しく、いっそ取り壊してしまおうか、という話になった。
取り壊すにしても、その前に片づけをしなくてはならない。
兄は大工の仕事をしているので忙しいし、父は体が弱ってきているのであまり力仕事もできない。
となれば僕がやるしかないか。
毎年の事だがこの時期は仕事が無いので帰ってくることはできる。
そんなわけで来年、5月に再び帰ってくることに決めた。
その時は1ヶ月ほどかけて、実家の片付けをするつもりだ。



実家を後にして東京へ。
東京では友達と新宿で会うことになっている。
時間に余裕があったので寄席なんぞへ行っちゃう。これも非日常。
そして新宿の餃子居酒屋で酒を飲む。
一緒に飲む人達は百レボの仲間達
ひょんなことから繋がった仲だが、波が合う人というのは初対面でもバチっと合うし、時間が開いてもすんなりと合える。
手土産に持ってきた全黒雫搾りもその場でみんなに飲んでもらう。
居酒屋の後はカラオケへ。
カラオケなんて何十年ぶりだろう。
しかもビル全部がカラオケなんて、さすが都会はすごいね。
それにしても新宿の夜の人の多さよ。
「これって、今日がお祭りだから人が多いわけじゃないんだよね?いつもこうなんでしょ?」
ううむ、そういう場所が存在する、と頭で理解するのと、自分の身をそこに置いて経験するのは違うことだ。
自然のエネルギーと違い、都会独特のエネルギーというものもあると思う。
これまた僕には非日常なのだが、疲れるなあ。



百レボメンバーのこまっちゃんの家でさらに飲み、飲みつぶれた翌日。
地下鉄有楽町線で有楽町駅へ、そこから東京駅まで歩き、東京駅のコインロッカーにスーツケースを置いて、御茶ノ水で友達と会うというプランを僕は立てた。
なぜ東京駅かというと、その晩は再び竜崎家に世話になる予定で、総武線快速は東京駅を出るので都合よかろう、というわけだ。
御茶ノ水ではウクレレを買おうと思い、昔スキーパトロール仲間だったマヤに会う。
マヤもギターをやるので楽器を買うのに付き合いつつ、お昼でも一緒に食べようという話になった。
地下鉄有楽町駅から地上に出てみるとすぐに山手線の電車が見えた。
ここから東の方向へ歩いていけば東京駅か。
僕は線路に沿って重いスーツケースをゴロゴロ引っ張って歩いていった。
しばらく歩くと駅の入り口が見えてきた。
あれが東京駅か、ん?なんか違うぞ。
看板には新橋駅の文字が。
あれえ?なんで新橋に来ちゃったんだ?
そこで気がついた。
有楽町で地上に出た時に、太陽の位置を北だと思ってしまい、それならば東はこちらだと勝手に考えてしまったのだ。
南半球に長く居て、山歩きをしたりスキーをしたり野良仕事をしたりと野外にいる時間が長いので、太陽のある方向イコール北という概念が体に染付いてしまっていた。
北と南を間違えたものだから、当然東と西も間違える。
これで東と西を間違えなかったらそっちのほうがおかしい。
東の東京駅に向かって歩いていたつもりが西の新橋に向かっていたのだから、僕の方向感覚は間違っていない。
ただ肝心のお日様が南にある、ということを忘れていただけだ。バカだね。
後でマヤに会ってその話をしたら、都会でそういう感覚で方向を知る人はなかなか居ないと妙に感心されてしまった。ふむ、そうかもしれないな。
あーあ、やっちまった、さすがにそこから東京駅まで歩く気にならなかったので、山手線で東京駅へ。
東京駅に着いてコインロッカーを探したら全て満杯。
えー、なんで?コインロッカーに張ってある張り紙を見るとトランプ大統領来日でテロ対策の為、東京駅のコインロッカーは全て閉鎖だと。
なろー、トランプ!どれだけの人に迷惑かけるんだよ。
たぶん警備やなんやかんやで、非番のお巡りさんもタダ働きさせられていることだろうに。
しかも今通ってきた有楽町にも新橋にもコインロッカーはあってそれが空いていたのに。
好きでもなかったトランプだが、この瞬間から大嫌いになった。
待ち合わせに遅れそうなので、マヤに電話を入れると何かしら調べてくれて、日本橋口近くの佐川急便で荷物預かりのサービスがあることを教えてくれた。
そこでまたそれを探してウロウロしているうちにマヤが東京駅まで来て合流。
めでたく佐川急便を見つけたもの、ここでも荷物の一時預かりはしていないと。
もう僕はすっかり嫌になって、結局そこから空港まで荷物を送ってしまった。
これなら最初から送っちゃえばよかったよ。

マヤに会うのも20年ぶりぐらいだ。
20代のころアルツ磐梯というスキー場でスキーパトロールをした時に同僚だった。
その後、アライで働いていた時に旦那と遊びに来てくれて、その時に当時彼等が住んでいた新潟の家へ遊びに行った。
今では一児の母であり、代々木に住んでいる。
お茶の水に行くならば美味しい天丼屋があるのだと言うので、マヤに連れられてその店へ。
ガイドがいるというのは楽だな。
その日は5月としては記録的な暑さで、気温も30度を越える日だった。
そんな日に朝からスーツケースを持ち歩いて、あっちへフラフラこっちへフラフラしていたのですっかり喉が渇いて、お昼からビール。
天丼が出来上がるまでに2本も飲んでしまった。
出てきた天丼は見事な物で、コロモはサクサク、中はふわっと、油はくどくなく、旨いの一言。
アナゴがどんぶりからはみだしちゃったりしてね。
写真を撮ったのだがピンボケで使えないのが残念だ。
日本橋の老舗の天丼屋の支店らしく、僕らの後すぐに行列ができた。
腹も膨れて楽器屋街まで歩き、お目当てのウクレレを買った。

マヤと別れて僕は再び龍崎家へ。
前回もそうだったが、旅の幕開けと締めはヤツの家なのだ。
ヤツが駅まで迎えに来てくれて、家へ向かう車内。
「なあ、今日の酒ぐらいはオレに買わせてくれ。ワインでも日本酒でもビールでも今日の料理に合う美味い酒を買いたいから店へ寄ってくれ」
するとヤツは「あのですね、この近辺では古来人が住んでいた場所でして、大昔の貝塚なんかもあるのです。そうやって何千年も人が住んでいたような場所ですから・・・」
と始まって一体何の話になっていくのだろうと5分以上もヤツの話を聞いていて要約すると『もう地元の酒蔵の美味い酒は用意してあるから黙って家へ来て飲め』というものだった。
ヤツの家へ行くと先ずビール。
そして近くの酒蔵で買ったという純米吟醸生原酒。
ほう、これは蔵人としては見逃せないぞ。
ヤツのウンチクを聞きながら利き酒。
うむ、確かに美味いぞ、これは。
何がどう美味いか、やはり上手く説明できないが美味い。美味いと言ったら美味い。
全黒の美味さとは違う美味さがある。
美味いのだが原酒だけあってアルコールは18度とやや高め。
時間は5時を廻ったばかりで、こんな時間からこの調子で飲んでたらすぐにつぶれてしまう。
外は暑いしロックで飲むのなんかよろしいな。
晩飯は地元の新玉ねぎのフライと鰯のフライを奴が揚げてくれた。
ヤツの家の周りにも玉ねぎの畑があちこちにあったな。
その玉ねぎの甘いこと。
旬の野菜に熱が通った甘さ、というのはそれだけでもご馳走だ。
そして鰯は脂が載っていて、青魚独特の香りがまた旨い。
青魚の脂の旨さというのは、マグロやブリなどの魚の脂と違う。
鰯も玉ねぎも旬の物で、多分値段は安いのだろう。
高い値段を出して遠くから物を取り寄せるより、近くにあるもので旬の物を出すのが本当の意味でのご馳走だ。
値段が高い安いというのは、後から人間がつけたもの。
時には一杯の水がその場で最高のご馳走となる。
それが茶の湯の心であり、日本の心だと思う。
友が作ってくれた肴をつまみに生原酒をあおり、今回の旅を締めた。



翌日の飛行機で僕はニュージーランドへ帰ってきた。
気温17度は猛暑から来た身にはとても心地良い。
娘が空港まで迎えに来てくれた。
娘は12月に再び日本へ旅行で行く。
親離れする時も近づいている。
今回の旅では嫌なことも多少あったが、それを上回る喜び、感動、人との再会、家族の時間、新しい発見、そういった楽しいこと嬉しいことが多かった。
義理を欠いて会えない人も多かったが、それも縁。
今回会えなくても、いつか会って肩をたたき合える人が日本中にいる。
自分の心を通して見た日本はやはりいい国だなあ、というのが非日常の感想である。




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竹原ピストルのライブを見に行った話。

2019-05-31 | 




今回は4年ぶりの帰国である。
久しぶりの帰国なので日本でしかできない事をしたいな、と思っていた。
真っ先に考えたのが、大好きな竹原ピストルのライブを見に行く。
調べると滞在期間では、実家清水に近い所で甲府でのライブがあった。
それも一人での弾き語り。それこそ一番見たいものだ。
甲府?行く行く行っちゃう。ニュージーランドからの数千キロに比べたら、清水甲府間の100キロぐらいなんて目と鼻の先だ。
だがすでにチケットは売り切れ。
そうか縁が無かったかと思いきや、あるサイトを見つけた。
それは音楽スポーツ芸能その他もろもろのチケットを転売するものだった。
昔はダフ屋だったが、今はこういうものになっているのか。時代も変わっているのだな。
それによると竹原ピストルの甲府公演のチケットが8000円で売っていた。
ちなみに定価は3800円である。
買う、買う、買っちゃう、オレ。
竹原ピストルのライブなんてニュージーランドに居たら絶対に見れないものだ。
いつもユーチューブとかで見て、こんなの生で聴けたらいいなと思っていた。
それが実現するなら8000円は高くない。
結局のところ、保険、送料、税金、その他もろもろで9800円となった。
ライブ会場で出会った人の話だと、それぐらいが相場なんだそうな。
ネットで予約したはいいがカードでの支払いが上手くいかず、清水の姪に連絡してコンビニで支払ってもらい、めでたくチケットを手に入れた。







ライブ当日、僕はお昼ごろの汽車を選んだ。
ちなみに静岡の古い人は、清水と静岡間を走る静岡鉄道のことを電車と呼び、昔の国鉄で今のJRのことを汽車と呼ぶ。
特急ふじかわ5号甲府行き。
清水駅近くの魚河岸でネギトロ丼、名物ハンペンフライ、それにビールを買い込んで僕は車上の人となった。
平日の車内はガラガラで4人がけのシートを独り占めする。
清水から富士までは東海道線。
右手には駿河湾が広がり、遠くに伊豆半島の山が見える。
正面には雲の上から富士山がチラチラと頭を出す。
海と山のある景色が僕の故郷の景色だ。
海と山と言っても日本海側とは全く違う。
上手く表現できないが、東海道の景色なのだと思う。
そんな風景を眺めながらビールを開ける。
興津、由比、蒲原、海沿いの町を抜ける。
普段ならこの時期は桜海老の時期で、蒲原あたりには桜海老を干すピンク色があちこちに見られるのだが今年はそうではないらしい。
今年は桜海老がとんでもない不漁で全く取れないと言う。
そのおかげでとんでもなく高い物となってしまい、僕が大好きな桜海老のかき揚げも1回しか食べれなかった。
地元の物で好きな物でベスト3は桜海老、しらす、そして黒はんぺんである。
その好きな黒はんぺんを肴にビールを飲みつつ、列車は富士川を渡った。
富士川は前日の大雨の影響でかなり増水していた。
前日は日本中どこも大雨で身延線も運休だった。
1日ずれたら東京まで出て、そこから中央本線で甲府までと、とんでもなく遠回りをする羽目だった。
富士からは東海道線から身延線へと変わる。
富士宮あたりの地形は富士の裾野であり、広くなだらかな勾配の大地が広がっている。
そこから列車は山間部へ入っていき、富士川に沿って走る。
窓からは農家の人が働いている様子が見え、田植えが済んだ田んぼが太陽の光を映す。
そういう景色を眺めながらビールを飲みつつ弁当を食らう。
僕が求めていたローカル線の旅であり、速さだけを求めた新幹線の旅とはおもむきが違う。
身延、下部温泉、鰍沢と越えていき、甲府盆地へ入り終点甲府へ着いた。






僕は甲府は初めてで、この町のことは何も知らない。
♪知らない街を歩いてみたい どこか遠くへ行きたい、という昔の歌があったなあ。
今は情報が先走りする世の中なので、どこかへ出かけるにしても瞬時に見所やおすすめスポットが分かる。
でも僕はそういうスタイルではない。
もし見逃したとしたら、それはそれで縁がなかったのだろう、と考える。
思いもがけず、いい場所、いい店、いい人に出会うこともある。それもまた縁。
先ずはホテルへ行くのだが、駅を出てすぐに城跡が目に付いた。
ライブは夕方からなので時間はたっぷありある。
ホテルと同じ方向だし、先ずは登ってみた。
登ると言っても城が残っているわけではない。
小高い丘に登るぐらいのものだ。
それでも丘からは盆地が一望できた。
確かに完全に山に囲まれた見事な盆地だ。
僕は今回の旅から地形をよく見るようになった。
この山はどういう形をしているか、その横の谷はどうやって流れているのか。
ここまで山が張り出しているので町がどこにできたのか、そんな地形の見方をするのがなかなか楽しい。
武田信玄もここからこの地形を見ていたのだろうな。
ボランティアガイドの人が話しかけてきて、少し話をしてホテルへ向かった。
ホテルで自転車を借りて、ライブ会場の下見。会場までは自転車で5分ほど。
そのまま自転車で市内をぐるっと廻ってみたのだが、町並みもありふれた地方都市という感じで、これと言って面白いところもなくホテルへ戻ってきた。
身支度を整え、ライブ会場へ向かった。
いよいよだ。



全席自由席というのでかなり早くから並ぶのかと思いきや、会場はガランとしている。
開場時刻になると人が集まってきて、整理番号順に呼ばれた人から入っていく。
そういうシステムかあ、ちなみに僕は96番。
最後から4番目の入場だった。定員は100人らしい。
それでも運よく4列目中央やや右、わりと良い席がポッカリ空いていた。
開演時間となり竹原ピストルが出てきて一曲めのオールドルーキーを歌いだした。
思い起こせば数年前にタイが家に来た時に教えてもらってから、はまりにはまり毎日のように聞いていた。
自分でもコピーをして何曲か歌を覚えた。
その本人が目の前で歌っている。
感動と、はるばるここまで来た想いが混ざり、涙があふれて止まらない。
ライブで泣いたのはJCと武道館へクラプトンを見に行った時以来だ。
あの時も二人してボロボロと泣いたものだった。
ライブが進むうちに僕も落ち着いてきた。
ギブソンのギターが良い音を出す。
一人での弾き語りなので、とことんじっくり彼の世界に浸れる。
知ってる曲を何曲もしたし、新曲もいくつかあった。
曲と曲の間、MCでピストルが喋る。
「今度8月ぐらいに新しいアルバムが出るんですけど、今の歌もそれに入っているんです。」
僕は大きな声で叫んだ。「買うよー!」
「それを言わせたかったんだよねー」
暖かい笑いが会場に流れる。
こんなやりとりができるのも小さいライブハウスならではの物だろう。
ハーモニカのキーが違っていて、曲の途中でハーモニカをすり替えるハプニングもライブのうち。
「ハーモニカ間違えたままで終われるか」と言ってから再び熱唱。
アンコールに応えて再び現れてから、6曲ぐらいは演っただろうか。
いつもユーチューブで動画を見ながら、こんなの生で見れたらいいなあ、と思っていたものが現実となった。
人間には物事を実現させる力がある。
いつかその時がくれば、と思っていればその通りになる。
夢を見なければ事は始まらない。
僕はライブ会場を後にし、自転車で一人、夜の甲府の街へ飲みに出た。


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神の国の旅 4

2015-11-09 | 
極論を言おう。
本州と北海道では全く違う神が住む。
スピリチュアル的に言えば、一緒くたに同じ国であることがおかしい。
行ったことはないが、多分沖縄も同じことで琉球の神がいるのではないかと思う。
極論を続ける。
北海道、独立すれば?
だってもともと倭人の土地ではないでしょうに。
江戸時代に青森から倭人が来てアイヌを追いやって開拓をした。
それまでは日本から見れば未開の地で、たぶんアイヌが平和に暮らしていたのだろう。
アイヌから見れば、ある日突然日本人がやってきて、ここを開拓するからお前らどこか行け、と理不尽に追いやられた。
欧米諸国がやってきたこととなんら変わらない精神構造、それは全て自分達さえよければいいというエゴだ。
イギリスやフランスが黒人を奴隷として扱ったこと、スペインがインカやアステカを滅ぼした事、アメリカがインディアンを迫害したこと、オーストラリアがアボリジニを追いやったこと、中国がチベットやウイグルでやったこと、みーんな同じ。
日本もアイヌや琉球民族に対し同じ事をやってきた。
そしてそれは今もなお続いている。
他人のことは言えないぞ。



北海道は独立してもやっていける国だろう。
でも今の日本政府は絶対にそれを認めないことも理解できる。
それは権力や経済、その他もろもろが中央に集まる社会の構造にも問題がある。
社会の構造を作っているのは人間の思考だ。
東京に住む人が地方を低く見るのと同様、北海道の中でも同じようなことはある。
札幌という中央まで新幹線を開通させようとやっきになって、地方のローカル線はないがしろにされている。
程度の大小はあれど、根本は同じことだ。
いつの世も末端は犠牲にされ、中央で資本家をはじめ権力者は肥え太っていく。
今まではそうだった。
だがこれからは違う。



北海道も沖縄も独立して自分らしさというのを表にあげていく社会というのを僕は夢見ている。
それはアメリカの価値観を押し付けるグローバルというものと正反対に位置する。
グローバルが平ら、均一にするものに対し、僕が唱える物は凸凹だ。
地域性や民族性という物を重視して、違うことを互いに認める。
それにはやはり精神性の高さが必要だ。
人を差別する心が少しでもあったら成り立たない。
相手を認めるということは自分も認めることであり、客観的に自分の内面を見なくてはならない。
自分自身に対して恥ずかしくない生き方をしているか、自分を正当化して言い訳をしていないか、自分がやるべき事をやっているか、そういった自分自身によるチェックを全ての人がクリアーしないと先の世界はない。
新しい世界には国境もパスポートもなく、今の世でいう国という概念はない。
国はないが、地域性や民族性は色濃く存在し、互いにバランスを保ちながらやっていく。
地域性、民族性で独立できるぐらい際立った場所、分かりやすい例だと大阪なんかそうだろう。
北海道や沖縄より先に大阪、独立すれば?
バチカン市国だってあるんだから大阪市国、あってもいいんじゃない?
こういう話をすると「難しい問題だ」と分かったように言う人がいる。
全然難しくない、難しい問題にしているのはその人の心だ。
実際には簡単なことなのだが、人間はわざわざ難しくして物事を複雑化させている。
そしてまた、一番簡単な事は一番難しい事でもある。
ああ、また禅問答になってしまった。



本州での八百万の神、そして北海道のアイヌの神を肌で感じ、ニュージーランドに帰ってきた。
それから半年、時間が思考を熟成させるのか、僕は以前にも増して神という物を考えるようになった。
それは目に見える物、キリスト像や大仏や神棚を拝むだけでなく、目に見えなくともそこに存在する物、それは自分自身の心の中にあり、自分の存在も神なのである。
私が神ならあなたも神、あいつもそいつもどいつも全て神だ。
ちなみに自分で言うのもなんだが、僕は福の神である。
その証拠にお昼時など、数あるお店でどれにしようか迷い、あまり混んでいないお店に行き注文をするとお客さんがどやどやとやって来て満席になる。
そんなことがとてもよくある。
お店の人は僕が福の神などとは知らないものだから、普通に料金を取る。
間違っても「ああ、あなたが福の神さんですか。今回のお代は無料とさせていただきます」なんてことにはならない。
なんたって七福神の一人、大黒様が守護神だもの。
いかにも福っぽい姿かたちじゃあーりませんか。
行くとこ行くとこで人に幸せをもたらす福の神。
これからも人を幸せにしていくように、そして幸せのバイブレーションは波紋のように万人に広がっていく。
その先には常に明るい光あり。
八百万の神もアイヌの神もマオリの神も僕の背中を押してくれる。
神に背中を押され、前に進んで行こう。



全ての民に光あれ。


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神の国の旅 3

2015-11-08 | 
鉄道で北海道へ渡り、北海道では富良野の辺りを拠点として車で回った。
一ヶ月ほど北海道に滞在したのだが、その間に訪れた神社の数、ゼロ。
本州では出雲大社や戸隠のように自分からそれが目的で行ったものもあれば、町を散歩していて小さな神社を見つけ立ち寄って手を合わせる、なんてこともあったのだが、北海道へ渡ってからは全く巡り合わない。
町をぶらぶら散歩しても神社がない。
いや、神社はどこかにはあるのだろうが、僕のブラブラ歩きのコース上にない。
なんだろうなこれは、と思っていたら巫女さんの家系の人が教えてくれた。
北海道には神社はあるがその中に神様はいない、建物だけで中はからっぽだと。
なるほどねえ、どうりで引き寄せられないわけだ。



ガイドの山小屋という兄弟分の男がいて、そいつと道東を巡る旅をした。
オヤジ二人で辺境の地をさまよう様は、それはそれで面白かったのだし感ずることも多くあった。
旭川方面から大雪山の北側を抜けオホーツク海へ向かう途中、道を間違えて引き返すことになった。
そこは夏ならば遊歩道がある場所だが、春の訪れが遅い北海道ではまだ雪に閉ざされている。
何の変哲も無い笹におおわれた山道なのだが、そこでやはり手がピリピリと震えた。
「ああ、ここに何かいるな」それは原生林の中などで気が高い所で僕が感じるもので、ニュージーランドの山でもよくある。
目には見えないが、もののけ姫に出てくる木霊のようなものかと思っている。
その後、車で本道に戻り、北見峠という見晴らしの良い場所で一休みをした。
その時に、僕は不意に感じた。
神があそこにいる。
あの山だ。
ピンポイントでそれを感じた。
そこはさっき道を間違えて引き返す時に、何かを感じたその先にある山だった。
ああ、なるほど、こういうことか。
これがアイヌの神なんだな。
僕がポイントしたその山へは登山道はなく、笹に覆われ簡単に行ける所ではない。
ニュージーランドで感じるのと似たような感覚の山の神に、僕は手を合わせ拝んだ。





サロマ湖、網走、知床、摩周湖、屈斜路湖、釧路、帯広、襟裳岬と名前だけ聞いたことがある場所を巡る。
行くとこ行くとこで自然を満喫し、自然の中にいる神の存在を感じた。
屈斜路湖では三香温泉という所に泊まった。
この温泉宿が最高でロケーション、温泉、建物、宿のオヤジ、どれも申し分ない。
露天風呂から木立の向こうに湖が見える。
朝湯に浸かった後で、歩いてみた。
距離にすれば100mぐらいなんだが、辺りは沼地のような湿地帯でズブズブと膝ぐらいまでもぐってしまう。
人の手が入っていない場所とはこういうものなのだな。
それでもなんとか湖畔まで出てみると湖に突き出した半島が見えた。
妙にその半島に心が惹かれる。
あそこには何があるのだろうか。
旅館を発ち、車で5分ぐらいで半島の付け根の駐車場に着いた。
和琴半島というらしく、半島一周を歩くコースがあるので山小屋と二人で歩いてみた。
歩き始めて15分ほど、半島の先端近くに来ると僕の手が反応した。
ああ、きたきた、この感覚。ここでもアイヌの神がいるのか。
あるポイントで僕は強い『気』を感じたのだが、それは湖の向こう側から来るようだった。
ここだな。手のピリピリ感が最高になった場所で僕は湖に、『気』が来る方向に手を合わせ拝んだ。
さっき温泉からこの半島を見て心が惹かれたが、この場所に呼ばれていたのだろうか。
そこから歩き始めるとすぐにその『気』は感じられなくなる。
実に分かりやすく面白い。
そうやってあちこちで『気』を感じるところで拝むのだが、同行した山小屋曰く「オマエが拝む所では行者ニンニク(アイヌネギ)が生えている」と喜んでいた。
いやはや、人間の食い気とは何にも勝るものなのである。



アイヌという人達のことを僕は何も知らなかったが、マオリと遠い親戚のようなものという話を聞いたことがある。
成り行きでアイヌの人との交流があるかと思ったが、唯一あったのが屈斜路湖のアイヌコタンでお土産屋のおばちゃんと話をして、神とは自然であり自分達もその一部である、というマオリの言葉で繋がった。
アイヌの民族資料館にも行ったが、やはり本州の大和民族のものとは全く違う文化と生活があり、倭人に邪魔をされずに生活をしていた頃は平和だっただろうなと思った。
トーマスが教えてくれた言葉だが「世界で一番優遇、保護されている民族はマオリであり、世界で一番虐げられている民族はアイヌだ」と。
その虐げられた現場のニ風谷へも行った。
そこはアイヌの聖地だったのだが、日本政府はダムを作り村を湖に沈めた。
治水が目的のダムだと言うがそんなのは強者、権力者の理論。
少数民族の精神性の高さを怖れる権力者が、民族自体を力でねじ伏せるのは古今東西どこにでもある話だ。
ニ風谷に着く少し前に、相棒の山小屋が車の中で言いにくそうに僕に言った。
「あのさあ、できればでいいんだけど、迷惑でなければ、あのマオリの歌をあそこの場所で唄ってくれんかの?」
マオリの歌とは、僕がライブでいつもやる天の神に捧げる歌のことだ。
全くこいつはまわりくどい言い方をするヤツだ。
「できればでいいなんて言うなよ、水くさいなあ。喜んで演らせてもらうぜ、兄弟よ」
「そうか、そう言ってもらうと助かる」
北海道に住んでるヤツにはヤツなりの思いいれがあるのだろうか。
僕らは湖の湖畔へ行き、大きな石の上に座った。
繁忙期から外れた平日の午後、僕と山小屋以外は誰もいない。
穏やかな水面の下に存在したアイヌの文化、そこに心を馳せて僕はマオリの神の歌を唄った。
僕の歌は風に乗って山の向こうへ消えていった。
哀しかった。
こんな哀しい想いでこの歌を唄ったのは初めてだ。
唄い終わると涙がとめどなく溢れてきて僕の頬を濡らした。
「せつないな」
「ああ、せつないわ」
先祖の供養のような気分とでも言うのか、踏みにじられた民族の痛みなのか、穏やかの春の日差しとはうらはらに物悲しさが僕達の心に残った。





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神の国の旅 2

2015-11-06 | 


松本からは三重へ行き、友達に案内されて伊勢神宮である。
伊勢神宮には内宮と下宮があるというのも行って初めて知った。
先ずは下宮からお参り。
駐車場で車から降りた途端に感じる気。
これだ、これこれ、僕はワクワクしながら中に入っていった。
伊勢神宮では何十年に一回の建て替えが行われたばかりで、真新しい社の横に今まで建物が建っていた場所が空き地のようにある。
そこはしめ縄で囲まれ真ん中には大幣があった。
そこを通る時にやはり感じた。
ああ、ここにもいるぞ、神様が。
僕の手はキタロウの妖怪アンテナの如く反応した。
いや、むしろ新しい建物よりも、その何もない場所の方が強いような気がする。
神様も新しい建物が出来たからと行ってサッサと引越しをするのでなく、時間をかけてゆっくりと移るものなののかもしれないな。
そして内宮を参拝。
内宮は半分観光地だな、外国人のお客さんも多い。
まあこれはこれでありなんだろうが、個人的には静かなたたずまいの外宮の方が好きだ。
内宮を回り、案内看板を読んでみると祭ってある神様は天照大神だと。
ちなみに僕の守護神様は大国主命で、祭られているのは出雲大社である。
行きたいな、という思いがムクムク湧きあがった。
内宮の参拝途中でそんな想いが浮かぶなんて天照大神さんに失礼な話だが、自分の思いは止められない。
その日にライブの予定があり、それが終われば本州でのツアーは終了。
北海道へ行くまで特に予定は無い。
しかも天下御免のJRパスがある。
これはチャンスかもしれないぞ。
翌日の昼に僕は出雲にいた。



出雲にはばくぜんと行きたいなと思っていたのだが、本当に実現するとは。
それも前日のお昼までは伊勢神宮にいて出雲大社の事など考えてもいなかったのに。
日本の神社のトップ2を2日で巡ってしまうなんて、という想いも浮かんだが神サマだってそんなケチ臭いことは言わずおおらかにゆるしてくれるだろう。
先ずは何はともあれ出雲大社である。
大社というだけあってでかいぞ。
しめ縄の太さだってケタ外れである。
ここでもやっぱり僕の手はピリピリと痺れっぱなしだ。
この日は何か特別な日らしく、いつもなら垂れ幕がありその中は入れないのだが、その日だけ中まで開放して参拝できると。
なるほどね、急にどうしても行きたい、と思ったのはこういうわけか。呼ばれたな。
一番奥までくると手の痺れも絶好調。
ピリピリではなくビリビリ、ジンジン痺れる。
やっぱりここは気の力が強いんだな。
お賽銭は奮発して千円。
お賽銭に紙幣を出したのは生まれて初めてだ。
そして普段お世話になっている守護神の大国天に長々とご挨拶。
「今まで護っていただいてありがとうございます。自分なりに生きていきますからこれからもよろしくお願いします。」
僕はブツブツと唱え、長い間手を合わせ目を閉じた。
今までの人生で、山でも街でも死にそうになったことは何回もあった。
単独行の岩場でバランスを崩し、なんとか踏みとどまったこと。
足元から雪崩が起き、巻き込まれそうになったこと。
居眠り運転の車がセンターラインをはみ出して来て、正面衝突しそうになったこと。
そういった場面の状況が次から次へ浮かび消える。
各場面でギリギリで助かったのは守られているからだ。
自分は護られている。
何か大いなる存在によって、生かされている。
この限られた命で、何をとは未だはっきり見えないが、自分がやるべき事をやっていくことを、僕は大国様に誓い、出雲大社を後にした。



よく神社仏閣めぐりなどと言い神社とお寺は一緒にされてしまうこともあるが、今回の僕の旅ではお寺はほとんど行かなかった。
唯一行ったお寺は先祖のお墓参りに行った地元のお寺と、最後の最後に鎌倉観光に寄った大仏の高徳院にあじさい寺ぐらいだ。
意識してそうしたわけではないが、気がついてみると神社ばかりに足が向き、人生でのお参りを凝縮したぐらいにあちらこちらの神社へ行き、祠や社などにも手を合わせたが、仏教のお寺には全く縁がなかった。
そういう流れなのか、今回はとことん八百万の神に触れてきなさいという、神様のはからいだったのかもしれない。
日本はやっぱり神の国なんだな、と思ったのも本州までだった。



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神の国の旅 1

2015-11-04 | 
日本を旅してから数ヶ月経つが、その感動は衰えることなく僕の心に刻まれている。
今回は神のことについて少し書いてみようと思う。
旅は東京から始まったのだが、最初にお参りしたのが芝大神宮。
この存在を僕は全く知らなかったのだが、知り合いのお勧めで連れて行ってもらった。
浜松町の駅から少し歩き、旧東海道の通りから神社の方向へ曲がるとすでにそこには何かしらの気があった。
鳥居の外からでも感じる気。
具体的にどうなるかと言うと、手や指先がピリピリと痺れるのだ。
これは決して嫌な感覚ではなく、山歩きや森林浴をしていてもエネルギーの高い所だとよく起こる。
最近では僕はこの気を感じることを楽しんでもいる。
大都会の中でそこだけは凛と静まった空間があった。
そこの神社には気位の高い神様がいると言う。
なるほどね、僕が鳥居の外からでも感じた気はその神様のものだったのだな。
すぐ近くにはオフィス街があり高層ビルが並ぶのだが、近代的な空間とバランスを保つようにその神社は存在する。
ああ、この国はこうやって護られているんだろうなあ、となんとなく思った。
そうやって僕の旅が始まった。

9年ぶりの日本に全てが珍しく懐かしく、そして今まで見えなかった所も見えた。
友達のにしやんに会うために東京の中心で指定された駅を降りた。
溜池山王という聞いたことも無い駅で降りてウロウロしているとなにやら偉そうな建物があり警備の人がいて、偉そうな車が出入りしていた。
何だろうなここは、と軽く考えてその後西やんと会ったのだが、そこがどうやら首相官邸だったようだ。
西やン曰く「何かドス黒い気がただよう」首相官邸のそばに日枝神社があり、そこはこれまたドス黒い中でも異空間のごとく違う気があった。
なるほど、都会のパワースポットとはこういうようなもので、周りと上手くバランスを取っているのだな。
僕がここに行った数日後に、首相官邸でドローンが見つかり大騒ぎになっていたがきっとその時はあの辺りも報道陣やヤジ馬や警備の人で大変な事になっていただろう。
そして日枝神社の神様も呆れながら人間の様子を見物していただろうな。



もうかれこれ十数年前の話だが、当時つるんでいた相方JCと一緒に戸隠へ行った。
何故そういう流れになったのか全く覚えていないが、なにか不思議な場所という想い出がある。
その時には奥社の奥、登山道入り口まで行き、修行僧が登った山道を眺め、いつかまたここに戻って来るだろうなという想いを持ちつつ引き返してきた。
ニュージーランドに住むようになっても、何故か心が惹かれる場所が戸隠だった。
新潟へ行き友達に話をすると、奥社までの参道は最近のパワースポットブームの影響ですごいことになっていると。
観光シーズンにもなれば原宿の竹下通りのごとく、人で埋め尽くされるそうな。
友人曰く、確かに戸隠のパワーはすごいのだがそのパワーが薄まってしまっている、それぐらいの人らしい。
今回はゴールデンウィークも始まる前だったので人も少なく、パワーも薄れることなく戸隠を歩いた。
例によって行き当たりばったり、流れに身を任せる旅である。
戸隠山に登るか、と考えたのだが雪も残っていて登るには準備不足。
代わりにといってはなんだが、本来の参拝順路でもある5つある神社を巡ってきた。
友人に案内されて神社を巡ったのだが、ここでも行くとこ行くとこですさまじいばかりの気があり手はしびれっぱなしだ。
ああ、今回はきっちりと全ての神社を参拝することが目的だったんだな、と後になってから気がついた。
同時に次回はこの山に登りに来るだろう、とも感じた。
それがいつになるか分からないが、そのタイミングはいつか自然にやってくるだろう。



トークライブの旅をしながらも行く先々で鎮守の杜、名も無い神社、小さな祠などもお参りした。
神様が降りてくるのがお祭りなのだが、日野祭りに遭遇したのは忘れられない思い出だ。
その後、松本で講演をした後、ちょっとだけ時間ができたので松本城へ行った。
ゴールデンウィーク明けで平日の朝ということで人も少い。
ちょうど開館の時間だったので、しばらく待って一番乗りに入った。
聞くとゴールデンウィークの時には入場に2時間待ちだったとか。
うーむ、自分だったら2時間も並ばないだろうな。
開場一番、僕はお城に入った。
係の人と挨拶を交わす。
「おはようございます。今日は人も少ないですから、ゆっくり見られますよ」
係の人もゴールデンウィークの混雑から開放されたのか、のんびりモードである。
天守閣に登り、1人。
誰も居ない天守閣で殿様気分で景色を楽しんだ。
町並みが一望でき、朝のラッシュ時の喧騒が聞こえてくるが、この空間は異次元の如く静かなたたずまいだ。
ふと気がつくと、ここでも手がピリピリ痺れる。神社で感じるアレだ。
天守閣と言っても景色はいいが今は何も置いていない小部屋だ。
何だろうな、と思ってふと上を見上げれば、あったあった立派な神棚が梁の上に居座っていた。
ああ、これなんだな。ここに神様がいるんだ。
僕はその場で手を合わせ拝んだ。
ここも人でごった返していればそんなものにも気付かなかっただろう。
朝の早い時間に1人でこの空間にいたからこそ気付いたものだ。
とことん、そういう流れなんだろうな、良い良い。
充分に1人の時間と空間を堪能した頃、他の観光客が上がって来る気配がして僕は天守閣を後にした。

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百レボと愉快な仲間たち 4

2015-08-13 | 
祭りの翌日は米原まで小正の車で送ってもらった。
この日は大阪へ行くので米原は遠回りになってしまうがJRパスで鉄道乗り放題だ。
新幹線に乗れば大阪へ行くのも早いし、それにせっかく出会った彼らともう少し一緒にいたいとという思いがあった。
小雨の降る中、近くの神社にお参りをして日野を発った。
祭りのメインの日が晴れで良かった。
あれが雨だったらまた違うものになっていただろう。
車は田園地帯を走る。
高い建物がないので遠くまで見渡せる。
何気なく景色を眺めていると、田んぼの中にこんもりとした茂みが見えた。
近づくと赤い鳥居が見えその奥に社が見えた。
そうか、これが鎮守の森だ。
そういう視点で見ると到る所に杜がある。
田んぼの中にポツリとある鎮守の森はどれも小さいながらも存在感がある。
あの一つ一つの中に規模は違えど昨日僕が感じたような神様がいるのだろう。
日本は神の国だと言ってこきおろされた総理大臣がいたが、それは言う人の人間性の問題であり日本は神の国であることに間違いない。
神という物をどのようにとらえるかで物事の見方は変わる。
神とは自分の中にあり、自分達もそれの一部であるというのがマオリにもアイヌにも神道にもその他の宗教にも通ずるところではないだろうか。
ドライブは続き、彦根城を遠くに見て市街地に入り米原に着いた。
星子家族とも仲良くなり、このまま一緒に旅を続けて行ったら楽しいだろうなと思うのだが、僕には僕の行く道がある。
その日は大阪に行くことになっており、そこでは僕を待ってくれている人がいる。
小正そして星子家族と別れ、僕は再び旅に出た。



本州、そして北海道を廻り、ニュージーランドに帰る予定を立てた時、もう一度西やんに会いたいと思い連絡をした。
「前回はあわただしかったがもうちょっとゆっくり話したいね、できれば一杯やりながら」などと言っていたら、星子のはからいで西荻窪にある星子が勤める治し家という針灸院で宴ということになり、僕もその晩は治療院に泊めてもらう流れとなった。
相変わらず行き当たりばったりの旅である。
前の晩は巣鴨に泊まり、その日の朝にお婆ちゃんの原宿を見物してから西荻窪へ向かった。
今まで中央線沿線というのは縁がなかっただが、今回はご縁があったのだろう。
西荻窪の駅で降り、歩いてすぐの所に鍼灸院がある。
そこの院長の角谷さんと話をしているうちに、仕事を終えたみんながやってきた。
西やん、ごっちゃん、角谷さん、星子家族、星子の友達のエリちゃんと乾杯を交わす。
合言葉は百姓万歳だ。
宴が盛り上がってきたところで小正も遅れて登場。
集まるべき顔ぶれが揃った。
心の深い所で繋がる人達とは、話が早くそして深い。
一対一で各個に会って話をするのもいいが、波長の合う人達との集まりはそれとは違うものがある。
場は盛り上がり僕は院長のギターを借りてマオリの唄を何曲か歌い、最後はマオリの賛美歌、神に捧げる歌で締めた。
今回のジャパンツアーではあちこちでこの歌を歌ったが、これが日本で歌い収めだな。
東京でライブをするかと漠然と思ったが、これが東京ライブだったのか。
マオリの歌は父の神に捧げる歌で、僕はこの歌を歌う時、いつも何か大いなる存在を感じる。
それは自分の後ろ、やや上の方向で、何か漠然と大きなものという感じか。
それは日野祭りで感じた感覚と似ていて、後ろから背中を押してくれるような感覚。
目に見えない進むべき道へ、導いてくれるような気持ち。
それが後ろから来るのを感じる。
同時に示唆されるのは引っ張ってもらってそこに行くのではなく、自分の足で一歩ずつ踏み出す事。
これは行動を意味しているのではないかと思うのだ。
自分の行動の現れが目の前の仲間であり、その仲間と共に新しい世界を作っていく。
そしてクライマックスは星子が提案する地球人70億人による地球祭り。
スケールがでっかいね。
そのでっかい話に対して世の常識のあるオトナはこう言う。
「そんなことできるわけない」
「理想論だ。現実を見ろ」
「簡単じゃないぞ」
あーあー分かった分かったよ。
あんたたちのその言葉はクソ食らえだよ!く・そ・く・ら・え。
いいかげんに目を覚ませ!
できないと思った時点でできなくなる。
その時点で僕が見る未来とその人が見る未来は違うものになっている。
どうぞ、あなた達はあなた達の見る未来に行ってください。
それはどんな世界ですか?
簡単じゃないと言う人も同じこと。
自分は分かっているんだというスタンスで、結局はブレーキをかけていることに気がついていない。
簡単じゃないと思えば難しくもなるし、簡単だと思えばこれほどシンプルで簡単なことはない。
あとは各自それぞれの心次第、気持ちの持ちようということだ。





刻一刻と世界情勢は変化している。
地球もまた然り。
まだまだこれからも動き続けるだろう。
今回出会った仲間達も前に向かって進んでいる。
行動力のある星子は伯宮さんと連絡を取り合い、再び日野を訪れ東京でのトークショーを企画した。
西やんの人脈で百レボはこれからもどんどん広まるであろう。
ふと思ったのだが百レボの映画化なんて面白そうじゃないか?
近い将来、日本のあちこちで百姓ビレッジが出来て、その流れは世界に飛び火していく。
いやすでにその兆候は世界中で現れ始めている。
中央銀行を追い出した国、地域通貨を考え始めた地域、フリーエネルギーの発明。
それらが全て混ざりながら目指す所は地球祭り。
地球祭りで美味しい酒を仲間と一緒に飲みたいじゃないか。
そこに向かって自分の足で歩いて行こう。
光はそこにあり。

百姓万歳。

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