あおしろみどりくろ

楽園ニュージーランドで見た空の青、雪の白、森の緑、闇の黒の話である。

日刊ココちゃん

2023-01-11 | 日記


それは何となく、本当に何となく始まった。
女房が書いた飼い犬ココの、生死をさまよいましたというイラストをフェイスブックに載せてみた。
特に理由があったわけでなし、そのイラストもだいぶ前に書かれたもので、たまたま目に付いただけで載せた。
そんな絵をいきなりコメントもなしで載せたものだから、よく知ってる友達はてっきりココが死んだと思ったらしい。
まだ元気ですよ〜という意味も込め、その後に毎日一枚ずつ絵を載せ始めた。
女房がサラサラっと書くイラストは、シンプルで可愛くて、人の心を和ませる。
絵心の無い僕から見ると、大した才能だなあと感心する。
絵だけでなく、そのイラスト内のココのつぶやき、そして人間の声の黄色い吹き出しも含めて作品なのだが、こういうのはセンスなのだとつくづく思う。
センスの無い人がいくら頑張っても出来ない事を、センスのある人はいとも簡単にやってしまう。



見よう見まねで始めたインスタグラムで投稿をするとフェイスブックにも連動でき、それまでの友達がいいねをしてくれた。
いいねの数がだいたい20〜30ぐらいなので、それぐらいの人しか見ていないと思っていた。
しかしそれまでいいねをしてくれなかった人達に実際に出会い「ココちゃん、いつも見ていますぅ」という声をいただくことが結構あった。
そうかぁ、自分も人の投稿を見て、好感を持ってもいいねを押さないこともある。
いいねの数以上に作品を良いと思ってくれる人がいることに気がついた。
中には「毎日同じ絵でいいから投稿してくれ」なんて事を言ってくれる人もいたが、まさかそういうわけにもいくまい。



圧倒的に多いのは癒されるという声だ。
おいみんなそんなに病んでるのか?
確かにココは癒し系のキャラであり、実生活でも癒されるし、我が家を訪れる人もよっぽど犬が怖いという人を除けばみんなが気軽に頭を撫でる。
そんな癒し系のココと一緒にたまに僕が出てくる。
作品の中では、左右で靴下の色が違うおじさん、というのが僕の立ち位置のようである。
靴下に穴があいてたり、だらしなく寝てたり、オナラをしたり、まあ本当のことだから仕方がないが、そういう役割だと思ってあきらめよう。



イラストの総数は100を超え、良い出来のものもあれば普通のものもあるし、当然ながらボツになったものもある。
ニワトリを殺した時のように、我が家の出来事を赤裸々に表した作品もあった。
面白いのは自分達が良いと思ってもそれほど人気がなく、大した事無いと思う作品が人気だったりする。
日刊とうたっているので1日1作品を目標にやっているが、時々ネタ切れをする。
女房画伯先生が言う「君ねえ、そんなに描け描けと言われても、描けない時は描けないんだよ」
編集者の僕「先生、そこをなんとか!全国1200万の日刊ココちゃんファンが先生の作品を今か今かと待っています」
「そんなこと言われても描けないんだから仕方ないじゃないか。なんなら君が描いてくれたまえ」
「先生、そんな事をおっしゃられても困ります。私はしがない編集者ですので。どうか頑張ってください。締め切りも迫っていますので」
「フン、クリエーターの気持ちが分かっていないね、君は。大体君が勝手にこの企画を始めたのだろう。」
「それはそうなんですが、先生、そこをなんとかお願いします」
というような夫婦漫才をしつつもなんとか続いている。
編集者の僕が見ても(いつから編集者になったんだお前は)日刊ココちゃんはとてもいい出来だと思う。



今のところ、僕の友達の間でしか知られていないが、なんとか世に出したい。
最初に考えたのは、日めくり。
それって365枚も描くのか、さすがにしんどいかな。
でも日めくりって、めくる所は数字だけで絵が描いてあるのはその上の一枚だけだよな。
カレンダーなら12枚プラス表紙ぐらいか。
よく言われるのは「絵本にしてみたら?」
それもいいかも、でも編集とか製本とかそういう知識も経験も資金もない。
自分で本を作るか?
経験は無いと書いたが、20年ぐらい前に『あおしろみどりくろ』の本を出したことがある。
5つぐらいの話を自分で印刷して、その紙に穴を開けて、表紙と裏表紙はやや厚めの色紙を使い、ひもを通して縛り、自分だけのオリジナル本を作った。
この世に30冊ぐらい存在する。
若い時は勢いでそんな事もしたが、それも何か違うな。
ネット上で売り出すというやり方もありそうだし、たぶんその辺りで新しい何かが見つかるかもしれない。
自分にできる事とは、女房画伯先生にお願いしてイラストを書いてもらいせっせとアップすることぐらいか。
バズらなくとも数十人か数百人かの心を和ませている。
僕のポッドキャストよりはるかに多くの人の心に届いている。
それが一隅を照らすってことなのかもしれない。
ちなみに話は変わりますが、本物のココちゃんは茶色です。



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年明けて 何でもできると 思う日々

2023-01-03 | 日記
思いついたままにタイトルを決めたが、思いつくままに書き散らすのも良しとしよう。
だいたい僕は朝早く起きてブログを書くことが多い。
多いというかほとんどがそれだ。
葡萄畑で働いていた時は、朝5時起きで弁当を作ったりお茶を飲んだりしていると1時間ぐらいすぐに経つ。
6時には家を出て1時間ぐらいドライブして、ドライブの時にポッドキャストを録音して、7時から仕事。
そんなかんじで毎日を過ごしていたので、朝にブログを書く暇がなかった。
帰ってくる時間も早いのだが、早ければ早いで庭仕事なぞしてしまう。
やはり自分にとって、朝というのが気分が乗る。
女房が起きてくるまで、一人の時間に書くのが習慣となってしまったようだ。



大晦日まで働いて正月から急に何もなくなったというのは前回も書いた。
何もなくなったというのは、何でもできるということだ。
忙しいから、時間がないから、という『やらない』言い訳は通用しない。
まずは庭の手入れからだろう。
ぼうぼうに伸びきった庭木の剪定、家庭菜園とニワトリ達の世話、芝刈り、雑草取り、やることは常にいくらでもある。
庭仕事をしていて感じることは、土を直に触ることの大切さだろう。
どこで聞いたのか忘れてしまったが、土を触ることで人間の免疫力が高まると。
科学的な根拠があるのかどうか調べてもいないが、それは肌で感じる。
そして植物を時には動物を育て、それを食べるということで、命というものを考えるきっかけになる。
野菜に話しかけるという話をバカにする人は多い。
植物には耳がないから声を聞けない、脳がないからかんがえることができない、よって植物に話しかけることは意味がないというのが科学原理主義的な物の考え方だろう。
僕の考えでは植物が声を聞いて云々というより、声をかける行為の前に植物を観察する、植物を見るという、そこがポイントなのだと。
植物を見れば、元気なのか病気なのか、水は足りているのか、雑草に覆われていないか、生い茂り過ぎていないか、などなど考える。
その次のステップで各問題に対処する行動が起こる。
無視、無関心というのは愛から一番遠い存在であり、そういう心境では植物を育てることはできない。
「農家の足音は野菜のご馳走」という言葉がある。
要は農家が畑に来れば、水が足りなければ水をもらえるし、虫がいれば取ってもらえる、何かしらの行為をしてもらえる、それが野菜にとってご馳走なのだと。
かー、こういう考え方って実に日本的でとても好きだな。
結局のところ、植物だけの話でなく、それを育てる人間の心へ戻っていくのではなかろうか。
まーた、そういう話になっちゃったな。
徒然なるままに書くとそこにいく、というのは自分の心がそこにあるから。
こうやって心のおもむくままに書いてみると、自分の心の在り処がはっきり見える。
漠然と感じてはいたが、やっぱりそこにいくのねん。
まあそういうことなんだろうなぁ。
さあて、今日は何をしようかな。

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年始のご挨拶

2023-01-01 | 日記
新年明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願い致します。



というわけで2023年である。
今は元旦、見事に晴れ上がり、風もなく穏やかな朝。
大晦日は友達が家に来て飲めや食えやで酔いつぶれて寝てしまい、ちょっとだけ酒が残っている薄ぼんやりした状態でこれを書いている。
この場で発表するが、去年まで働いていた葡萄畑をクリスマスで辞め、大晦日までツアーがありそのツアーを無事終えた。
葡萄畑の仕事を辞めた理由はロックじゃないから。
それ以上はここでは書かない。
辞める日まできっちりと葡萄と向き合う仕事をして、そのままツアーの仕事に突入した。
来年の事を話すと鬼が笑う、という言葉を理由に先の事は考えず、その瞬間ごとに自分がやるべき事に集中してきた。
ツアーはおおむね天気にも恵まれ、お客さんとも良い関係が築けた。
雨で予定が変わった時には、なんとなく立ち寄った町で年に一度の競馬が開催されており、お客さんも生まれて初めて馬券を買うという貴重な体験をした。
こういう番狂わせというか、ハプニングというか、予定外の出来事を楽しめるかどうかは、その人の人生観や生き様によって変わる。
予定から外れることを不快に感じる人はいるだろうし、それはその人の選択なのであーだこーだ言う気は一切ない。
自分はそういったハプニングは大好きで、これぞ人生の醍醐味と考えてしまう。
とにもかくにもツアーは順調でお客さんにも満足してもらい、自分なりに良い仕事ができた。
そして年が明けた。
2022年の大晦日までばっちりと仕事が入っていて、その後は何も決まっていない、というのも何か示唆しているような気がする。
なんとなく白紙の状態、ニュートラルな状態に自分を置いてみたかった。
そうすることにより次に進む道が開けてくる、というのは今までにいくらでもあった。
何かしらの目標を持ってそれに向かって進むというのは良いことであろう。
だが全ての人にそれが当てはまるわけでもない。
ニュートラルな状態に自分を置く恐れから、無理やり方向を決めて進もうとしても根底に恐れという感情がある限り上手く行かないような気がするのだ。

激動の時は続いており、社会はすごいスピードで変化をしている。
歴史を学んで大切だと思ったことは、状況を認識することの大切さ。
だが状況認識という行為はとんでもなく難しいことでもある。
黒船が来たと言って騒いでいた時に、その後の明治維新をどれだけの人が予測できたであろう。
今の状況もそれと大して変りはしない。
そんな時だからこそ、心を鎮め自分の内側と繋がるのだ。
そして状況を見極めつつ、瞬間ごとに自分がやるべきことをやる。
アフガニスタンで亡くなった中村哲先生の座右の銘でもある『一隅を照らす』というのはそういうことなのだろうと僕は解釈する。
この先に自分がどういう状況に置かれるのか、同時に社会がどう変わっていくのか。
何も分からないし、分からないから面白いとも言える。
一つ言えることは、自分は何も心配はしていないし恐れてもいない。
かと言ってこのまま全てが上手くいくとも思っていない。
今後も数々の問題は発生し続けることだろうし、血も流れるし、多くの命が失われる事だろう。
だがそういった事を乗り越え人類は進み、新しい世界が開けていく事を信じる。
具体的な事柄は何一つ分からないが、面白い事が起きるような予感は常に感じる。

しかしまあ何だろうねこの根拠のない自信は。
それこそ根拠がないので誰にも説明はできない、けれど直感を信じる先にある明るい光が見えるのだ。
そして自分が想像する事とは懸け離れたところからやってくる自分が進むべき道。
最近はそんなことだらけで、自分があんなことになるのかなこんなのとになるのかな、と考えてみてもそれをあざ笑うかのごとく目の前に別の道が現れる。
例えてみると、自分が目標に向かって歩いていたら急に大雨が降り出し目の前にとても渡れないような川ができ、同時にその川の下をくぐるようなトンネルが口を開き、そこを進んでいったら異世界にたどり着いてしまった。
そんな具合だろうか。
このワクワク感は年を重ねるごとに大きくなりそのスピードは加速している。
洗濯機の中でかき回されているような社会は、状況を見据えるのは非常に困難であるというのは先にも書いた。
そのためにも一度立ち止まって、周りを見回してみようと思う。
きっと今まで見えていなかった物が見えるようになる気がする。
そんなことを元日の朝に思いついた。
この年が皆様にとって良い年でありますように。

2023年 元旦
北村 聖




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代理戦争と国民意識 ワールドカップに思ふ。

2022-12-20 | 日記


先日女房と一緒に近くのバーへワールドカップの試合を見に行った。
我が家では放映する会社と契約をしていないので、家では見る事ができない。
そしてニュージーランド時間の朝8時の試合しかバーでは見られない。
多くの試合は朝4時で、その時間帯はバーは営業をしていないからだ。
予選リーグで日本とスペインの試合を見に行った時は、お店はガラガラで日本人は僕ら二人、スペイン人のおじさんが二人、あとは訳のわからないイラン人が一人というぐあいだった。
決勝トーナメントで日本が負けた後、準々決勝でイングランドとフランスの試合を見に、再び同じバーに行った。
日曜日ということもあり、お店はほぼ満員で多くのイングランドファンで占められていた。
前回とはえらい違いで、座るところを探しウロウロしていたが、気の良さそうなおじさんが自分たちのテーブルの相席を許してくれた。
話を聞くと熱狂的なイングランドファンという感じでもなく、大きなスポーツのイベントが好きというオーストラリア訛りのおじさんだ。
でも応援しているのはイングランドというぐあいで、そんな人がお店には3分の2ぐらい。
イングランドの白いユニフォームを着て、何が何でもフランスに勝てよ!というような人が残り3分の1ぐらいだ。
まあニュージーランドにはイギリス人(イングランドだけでない)も多いのでそうなるだろうな。
そんな中で僕らのテーブルの横で、立ちながら試合を見つめるフランス人が一人。
彼はご丁寧にフランスの青いユニフォームを着て、孤高の人そのもの、完全にアウェイである。

試合を見始めて女房が言った。
「気楽に見れるね」確かにそうである。
日本代表の試合の時には手に汗握り、ハラハラドキドキ心臓に悪いだろうなという具合に見た。
今回は所詮、他人の喧嘩、対岸の火事、一応フランスを応援してるが、どちらが勝ってもどうってことない。
冷静に楽しくサッカーというスポーツを観られるし、周りの人の動向も見れた。
そういう観点で考えたのは、やはりこれは代理戦争なんだろうな。
イングランドとフランスは西側という点で同盟国なのだが、昔は何百年も戦争をしてきた過去がある。
表面的には仲良く見えて、内心は「あのヤロー気に入らないぜ」というような感情はあるのかもしれない。
幼稚園の先生が「ケンカはだめですよ〜、仲良くしなさい」などというように、人の感情は簡単には割り切れるものではない。
意識は集団になると増幅する。それが国家という集まりになった時に起こったのが第一次世界大戦だ。
いや厳密に言うと違うな。
自分の国のために戦うという意識を持った方が強いに決まっている。
それまでは兵隊は雇われていた傭兵で、死んじまったら終わりなのでそれほど一生懸命戦わなかった。
自分の友や家族のために戦う、お互いに自分の国のために、そうやって戦争になったのが第一次世界大戦という話だ。
それ以前は自分がどこの国の人だ、という意識があまりなかったようだ。
日本だって黒船が来るまでは『何藩の何がし』というぐあいで、日本人という感覚は無かった。
今でこそ国と国民という概念はあるが、それはつい最近できあがった感覚なのである。

僕が国民感情と代理戦争というのを初めて見たのは86年のメキシコワールドカップの時だ。
フランスのプラティニ、ブラジルのジーコ、アルゼンチンのマラドーナ、イングランドのリネカー。
スーパースターが出揃った大会を高校生の時にNHKで見た。
世界のサッカーってこんなに面白いんだと感心した。
ワールドカップの何年か前にフォークランド紛争というイギリスとアルゼンチンの戦争があり、その戦争でアルゼンチンはボロ負けした。
ワールドカップの決勝トーナメントでイングランドとアルゼンチンの直接対決という試合があった。
アルゼンチンのサポーターは、「戦争では負けたけどサッカーじゃ絶対に負けないぞ」という意気込みがあった。
その思いが伝わったのか、試合はマラドーナの独壇場で、伝説にもなった神の手、そしてハーフウェイライン付近から一人で持ち込みゴールを決めた5人抜き。
アルゼンチンは危なげなくイングランドを下し、その勢いのまま優勝を果たしマラドーナは国民の英雄となった。

そのワールドカップの数年後に僕は南米アルゼンチンを旅した。
アルゼンチンの人々は明るく気さくなのだが、時々みせるよそよそしさや、時には敵意の視線を向けられることがあった。
不思議に思い考えてみると、時期は夏でそれなりに暑いのだが、たまに肌寒く感じ長袖のTシャツを着るとそうなることに気がついた。
僕が着ていた長袖Tシャツとは胸いっぱいにユニオンジャックがプリントしてある代物だ。
何も考えずただその時にパンクを聴いていたから、という理由で買ったユニオンジャックのTシャツ。
ニュージーランドでも同じシャツを着ていたが、そこはそれ同盟国だし祖国的なところがあるので、誰も何も言わない。
でもアルゼンチンでは敵の国旗を着ているクソヤローだ。
袋叩きにあってもおかしくない。
僕はその時に初めて、国民感情というものに触れて、背筋がぞっとした。
若くて無知で世間知らずとはこういうことだ。



イングランドとフランスの試合は、互角の勝負で見ていても面白かった。
フランスがゴールを決めてリードした時は、店内全体にため息が流れた。
孤高のフランス人は拳をにぎりしめ、下向きに喜びをかみしめていた。
後半終了間際にイングランドのPKとなり、入れれば同点で勝負は振り出しに戻るという場面。
次に繋がる期待と歓声をあげる準備ができているイングランドファンが見守る中、キッカーが外してしまった。
そういえば昔ベッカムも外したっけなあ。
99%のイングランドファンの嘆きとフランス人の拳にぎりしめ。
試合はそのままフランスが逃げ切り、イングランドファンの失意が店を埋め尽くした。
静かに店を出て行こうとした孤高のフランス人と目があった。
「よかったね」
「ありがとう」
僕らは目だけで会話をした。
こういうコミュニケーションもあるんだな。

僕が言うまでもないことだが、ワールドカップという代理戦争はメッシがマラドーナに並んだのか超えたのか、英雄となり優勝した。
奇しくも86年メキシコワールドカップ以来の快挙だ。
そして僕がサッカーを見始めた頃に比べれば、日本は強くなったなあと思う。
その昔は日本がまさかワールドカップに出るなんて考えもしなかった。
今回は代理戦争で戦ってくれた代表チームにお疲れさん、とねぎらいの言葉をかけたい。
いつか日本も今回のモロッコのように歴史を塗り替える時が来るだろう。
それぐらいに日本のレベルが上がっている。
今回は日本人として日本チームを応援した。何も間違っていない。
では日本国民という意識で応援したか?
ニュージーランドに長く住んでいるが僕は自分で日本人だと思い、日本人であることに誇りを持って生きている。
でも正直な話、日本国民という意識は無い。
もちろんニュージーランド国民でも無い。
決まりだから仕方なく日本国民の証である赤いパスポートを使っているが、自分の中で日本人と日本国民がどうしても合致しない。
第一僕は日本を牛耳っている日本政府を信用していない。
環境問題だかなんだか知らないが海外に金をばらまいて、国内で使わず庶民を増税で苦しめている姿はどう考えてもおかしい。
まあニュージーランド政府も信用していないし、アメリカ政府も中国共産党もロシアもウクライナもW H Oも全て信用していない。
島国では国境は海なので分かりやすいが、陸続きのところでは地図に定規でまっすぐに線を引いたような場所もある。
だいたい国境なんてものは、時代と社会情勢や人の動向、自然災害や気候変動などでコロコロ変わる。
本来なら必要無いような場所で地元住民は自由に行き来しているところでも国境はある。
なんのために?
庶民が国という概念を持ち続けた方がいろいろと権力者にとって都合がいいのだろう。
権力者が大衆を操作する手段の3S(スポーツ、スクリーン、セックス)にまんまと乗っかってワールドカップを楽しみ、そして考えた。
社会は変わり続けている。
国の概念も変わる、間違いなく変わる。
これを書いていたらキヨシローのイマジンが頭に浮かんだ。
ジョンレノンのイマジンではなくキヨシローのイマジンだ。
代理戦争が終わった祭りの後でこれを聴きたい。

天国は無い ただ空があるだけ
国境も無い ただ地球があるだけ
みんながそう思えば かんたんなこと
さあ 夢かもしれない 
でもその夢を見ているのは
君一人だけじゃあない。
仲間がいるのさ
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生の男と書いてナーマメーンと読む。

2022-12-11 | 日記


ずいぶん前の事だが、日本語を少し喋るキウィと日本人の奥さんの友達と一緒に飲んだ時の話。
「お前はなんでもライブが好きなんだな。生の男でお前は生マンだ」と命名された。
カタカナで発音を表すのは難しいが、ナーマメーンというような具合である。
たぶん言った本人はもう覚えていないだろうが、なんとなくその言葉のイントネーションが頭の片隅に残っていた。
確かに僕は生が好きである。
ビールも生。
ちなみに日本で言う生ビールというのは、本来の意味から少しずれている。
日本ではサーバーからジョッキに注ぐやつのことを生と呼ぶ人が多い。
本来は熱処理をしていないビールのことである。
なので僕が作るビールは全て生ビールだ。
日本酒も生が旨い。
日本酒の製造過程で火入れという作業をする。
これは酵母菌を殺してそれ以上発酵が進まないようにするのと、火落ち菌という菌を殺す殺菌効果。
この二つの理由で63度まで酒を温めるのだが、同時に旨味の何かをも殺しているような気がする。
実際にこの段階で酵母菌は死ぬのであり、酵母菌自体が旨いのかどうは知らんが、火入れをする以前と以後では味が違う。
味で言えば絶対的に生の方が旨い。
これは自分がやっていたから自信を持って言える。
ただし貯蔵、流通、販売などを考えると生のままというのは技術的にも難しい。
発酵が進んだりして味そのものが変わってしまうからだ。
菊水など缶詰にして特殊なやり方で売っているものもあるが、一般的ではない。

酒と言えば肴であり、肴とは魚である。
魚の生は刺身だが、刺身の旨さは僕があれこれ書く以前の誰もが知っている。
では刺身の一歩手前の段階の魚の旨さを味わったことがあるか?
これは若い頃の思い出だが、90年代前半、まだフラフラとアルバイト生活をしていた時の話だ。
その時は伊豆諸島の三宅島で大規模な火山噴火があり、近隣の島々も被害が出てお隣の神津島に復旧作業の仕事で行った。
真夏のハイシーズンで普段なら賑わう時期だが、火山の影響で観光客は一人もいなく外から来るのは工事関係者だけという状態だった。
ある寿司屋の親父と仲良くなり、毎晩そこの寿司屋で飲んだ。
その寿司屋も火山と地震の影響で商売上がったり、毎晩僕たちだけの貸切で、滞在の期間に他のお客さんと顔を合わせたことは一度もなかった。
昼間に目一杯働いて、その後に素潜りで貝など取り、それを持って寿司屋へ行く。
島に唯一あった信号の前の寿司屋の店先の桟敷で、「今日のラッシュアワーの渋滞は最長で3台」などと車を数え、海に沈む夕日を見ながら自分が取ってきた貝をつまみに生ビールを飲む。
日が暮れてからはカウンターで親父相手に島の魚をつまみに島焼酎を飲む。
今から考えれば、夢のような生活をした時もあった。
ある晩のこと、親父が「子供頃に腹が減って魚をそのままかじった」というような話になり、「じゃあ俺がそれをやる」などという話になった。
酔っ払いのノリってこういうものだな。
さすがにウロコとか頭とかハラワタは食べにくいだろうからと、その場で親父が頭とエラを落としウロコを取りハラワタを抜いて洗ってくれた。
なんの魚か忘れてしまったが、15cmぐらいの青魚だった。
みんなが見守る中で何もつけずにガブリとかじりついた。
まずは新鮮な魚の肉のコリコリ感がすさまじい。
だがやっぱり醤油は欲しいと、醤油をつけてかじった。
味自体は刺身で食べるのと同じなのだが、ワイルド感というのか野性味というのか。
焼き魚や煮魚の骨を外して食べるのはよくあるが、生魚をかじる、食べるのではなく文字通りかじるのは初めてだ。
蛮族というのはこういうものなんだろうと思った。
それはそれで良い経験だったが、二回やろうとは思わない。
そういうものなんだろう。

もうひとつ生魚の思い出だが20年以上前に、当時の相方JCと西海岸でホワイトベイトを取ったことがあった。
ホワイトベイトは白魚のような魚なので、それなら踊り食いなるものをやってみようという話になった。
うろ覚えの話ではピチピチ跳ねる喉越しを楽しむとかなんとか。
やってみたところ、ただ飲み込むだけなので味もへったくれもない。
なので今度は口の中でピチピチ跳ねる白魚を歯で挟み噛んで味わった。
これは確かにコリコリした食感で、新鮮な魚感はあったが味はよく分からないというのが感想だった。
生しらすを食べるように酢醤油で食べればよかったかもしれないな。



生麦生米生卵、の生麦と生米は食べても美味くなさそうだが、生卵は旨い。
うちでニワトリを飼っているのは、卵かけ御飯を食べたいがためである。
新鮮な卵は黄身も白身もしっかりしているので簡単には混ざりにくい。
炊きたてご飯にかければそれだけでご馳走だ。
友人が遊びに来た時に、すき焼きをやったのだが彼は生卵が大好きだと言って、器に3つ卵を溶いてザブザブと食っていた。
すき焼きの時に最初の卵がなくなり、二つ目をお代わりする事はよくある。
だが最初から3つ卵を割って食うという人は初めてであり、こういう食い方もありだなぁ、と妙に感心をした。

生というのは音楽の世界でも使われる。
生演奏、生歌、生ギター、その他もろもろ。
愛用のギターは生の音が気に入って買ったものだ。
ギターをある程度やっていると、ギターによって音色の違いが分かるようになる。
楽器屋で何回も何回も何回も試し弾きをして、音色に惚れて買った。
アンプにも繋げるタイプだが、僕はやはり生の音が好きだ。
それから生のライブ。
ライブというのは独特なもので、演ずる者と聴く者で場の雰囲気を作り上げる。
ライブはライフであり、生とは是即ち生きることである。
行き着くところ、生きている今この瞬間が大切なんだという、いつもの結論にたどり着いた。
最近は作務衣なんぞ着ているものだから、見た目は坊さんに見えなくもない。
自分で生臭坊主と名乗っており、それもやっぱり生なのかと思う今日この頃である。




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年に一度の農業祭

2022-11-13 | 日記
11月半ばにクライストチャーチで開催される、A&Pショー(Agricultural and pastoral shows)という農業祭がある。
A&PショーというものはNZ国内のあちこちで開催されるが、クライストチャーチのそれは国内最大規模のお祭りである。
コロナ禍で2年の間、祭は中止だったが今年から再び開催されることとなった。
広大な敷地には、農業に関するありとあらゆるものの展示や即売所、出店が並ぶ。
そしてまた農業にあまり関係ないようなものの出店も並ぶ
子供用の遊園地、家畜の品評会、食べ物の店、バー、特設ステージでは生バンドの演奏、乗馬の競技、丸太ぶった切り大会。
とにかくいろいろあって1日楽しめる。
普段は静かな犬の散歩コースの公園が、1年で1番賑わう日である。
庭で畑仕事をしていても、馬のいななき、モトクロスのエンジンを吹かす音、マイクチェックの声、などが風に乗って流れてくる。
過去2年間はロックダウンやワクチンパスポートなどで規制をされた社会だったが、やっと元の生活に戻った証でもある。
僕もこのイベントは大好きで、仕事で行けない時以外はいつも行く。
写真を大量に乗せるので雰囲気を味わってください。



犬の散歩がイベント会場になる。ワクワク感が漂う。


物販コーナーは農業に関わるものが多いが、そうでないものもある。色々あって楽しいのだ。


農業ドローンなど最新機器もある。


羊毛コンテストの結果発表。羊の他にもアンゴラ山羊やアルパカなどカテゴリー別に展示される。


丸太ぶった切り会場。いろいろな種目がある。


一角で見つけた子羊。生まれたばかりでまだ立てない。


羊牧場の展示。実際にここで商談がまとまることもあるのだろう。


簡易遊園地では子供達の歓声が響く。


かなり広い範囲で農業用機器の展示販売がある。


農業機器。


農業機器。


一般人はあまり馴染みのない世界だけどね。


クボタも頑張ってるよ。


農業といっても多様であり、全体的に牧畜関連が多い。


長靴メーカーがスポンサーの長靴投げ大会。


警察のトラクターもパトカー仕様。


古い機械を愛する人々。


なんかいいね。


広大な会場を無料シャトルが行き来する。


市内の小学校の子供達も遠足で来る。


うちの犬みたいな子牛を見つけた。


牛の品評会の表彰式。連れ歩く方も正装。


馬はおとなしいのです。


特設ステージでは常に何かしらのライブミュージックがある。


ニュージーランドアーミーのビッグバンド。軍隊が戦争ではなく音楽をやるのっていいな。


豪快なバーベキュー。美味かったあ。


農業に関係ある・・・のかな。


車のメーカーも各社出揃ってます。


特設バイクコースではバイク小僧の見せ場。


ギャラリー(特に女の子)が多いと見せる方も熱が入る


家畜の品評会会場。牛と羊が圧倒的に多いがいろいろな種類の動物がいる。


牛の親子。


山羊も。


羊も。


子羊はやっぱり可愛いね。


アルパカも


ニワトリも


変わり種も。


でっかい馬のパレードがあった。


天気も良いしブラブラ歩いて見て回るのが楽しい。


これぞニュージーランド。毛刈り大会も開催。


これまたこれぞNZ。牧羊犬の競技。


けっこう好きです。






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発信を発進 プロレタリア万歳

2022-09-26 | 日記
もう知っている人は知っていると思うが、ポッドキャストを始めた。
その名も『プロレタリア万歳』
発信を始めた理由は第一回目でも喋ったが、ブログという文章とは違う形で自分を表現をしてみたかった。
同じ人間がやるわけだからブログと重なる部分もあるだろうが、それも承知でやってみるという行為をしたかった。
新しい一歩を踏み出したかった、のかもしれない。
ポッドキャストでコテンラジオを聞いてそこからノウカノタネへ飛んで色々なポッドキャストを聞いてみた。
ブログで書いた資本主義の話はコテンラジオから、ブルシットジョブはノウカノタネからの引用である。
ある人が研究した書物を読んで噛み砕いた人がポッドキャストで発信して、それを聴いた僕がブログで文にしたというわけだ。
僕のブログを読んで影響を受けた人も数人はいることだろう。
何を隠そう(隠すわけでもないが)ポッドキャストをやろうとして、第一回目の録音を去年の七月頃したのだ。
でも誰に知らせるわけでもなく、それから1年が経ってしまった。
そこから葡萄畑で働き始めて、なんだかんだと慌ただしく時は流れたわけだ。
秋の収穫が終わり、相変わらずポッドキャストを聞いていたのだが、その中での一言が効いた。
「配信しないというのは、存在しないというのと同じだ」
行動を起こせ、行動しないのは知らないことだ、というような陽明学の吉田松陰先生に通じるものがある。
結果的には、7月の頭に配信を始めたというわけだ。
配信をしようと思ったのは5月くらいから考えていたが、番組タイトルが思い浮かばなかった。
なんか一言で全てを表すようなタイトルねえ。
候補はいくつかあったが、ネットで検索するとすでに誰かしらが使っていた。
ラジオとオヤジでラジオヤジとか、時事と爺を掛け合わせてジジラジオとか、思いついたものには先約があった。
一人でぼーとしている時も、犬の散歩をしている時も常に考えていた。
それが決まらないと配信ができないからだ。
ある寒い朝、犬のココといつもの公園を散歩している時にひらめいたのが、プロレタリア万歳である。
ひらめきというのはこういう感覚か、頭の中にその単語が降りてきたと言っていい。
これは直感のようなもので、迷うことなく決まった。
家に帰って誰も使っていないのを確認して、すぐに登録をした。
落ち着いて考えると、これ以上のネーミングはないな、というぐらいに気に入った。
今このご時世でプロレタリアという言葉自体が時代錯誤感ハンパなく、それでいてその状況下での「やったるでー」という心意気。
昔はブルジョアジーとプロレタリアは対立構造だったが、今はそうではないのだよという深いメッセージも含んでいる。
タイトルが決まり、登録をして何回か録音をしてから載せたのが今の状態である。
まだ始まったばかりで、これからどうしていこうか決めかねている。

録音を聞き返してみると、プツプツと雑音も入る。
これは買ったマイクが原因か、あーあせっかく買ったのに・・・
そんなことを思っていたらオトシが日本からやってきて、ワイヤレスのマイクをプレゼントしてくれた。
オトシとの出会いは19年前に、ヒッチハイクしていた彼を拾ってブロークンリバーへ連れて行ったところから始まり今に続く。
そんなオトシがゲストで3回ほど一緒に喋り、また通常回で一人語りとなった。
そもそもは畑への行き帰りの車中で何か語れたらいいなあ、と思いついて始めたことである。
ドライバーガイドとしてやっていたので、運転しながら話す事には慣れている。
その日に思ったことや感じたことをそのまま語るのでもいいか。
とにもかくにも、試行錯誤をしながらでもやっていこうと思った。
結果だけを追い求めるだけでなく、結果は後から付いてくるものでありそこまでの手順が大切という考えを持ち続けたい。
そこを深堀すると、今が大切という当たり前の所にたどりつくわけだ。

そんな具合に見切り発車的に始まったわけだ。
それと同時ってわけではないけど、ツイッターも始めた。
ポッドキャストの話もアップした時にツイートをするようにした。
誕生日の話を上げて、誰もこんなの見ないよな、って思っていたら、知らない人から初イイネがついた。
おお、知らない人が聞いてくれてフォロワーがついた、どんな人だろうと思いきや、、、、、エロアカでした。

プロレタリア万歳
試行錯誤でも発展途上でも聞いていただくことに感謝を忘れてはいけないと自分に言い聞かせた。
同時にこのブログも同様、読んでいただくことに感謝を忘れてはいけない、と再認識。
ありがたやありがたや。




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一巡りしたなぁ。

2022-07-02 | 日記
冬がやってきた。
南半球ニュージーランドでは冬至を迎え、いよいよ冬本番である。
日の出の時間は遅く、なかなか太陽が上がってこない。
暗いうちに家を出て、車を走らせるうちに日が昇ってくるのを見ると1日の始まりだ、という気分になる。
葡萄畑の地面は牧草で覆われているが霜で真っ白で、踏むとバリバリと音がする。
朝一の作業もソレルのスノーブーツにヘストラのグローブ、と雪山並みの装備で行う。
それでも太陽が上がり陽光を受けると汗ばむような温度になるので、作業の合間に帽子を取りジャケットを脱いでいく。
畑から見える山も雪化粧で、スキー場もぼちぼちオープンする時期だ。
再び冬がやってきた。



葡萄畑で働き始め、そろそろ1年が経つ。
1年というサイクルで葡萄の生長を見てみたいと思い、その願いは叶ったと言えよう。
去年は何も分からずに言われた事だけをやっていたが、さすがに2ラウンドめになると季節ごとの作業の段取りも見えてくる。
そして今年から剪定、実際に枝を切る作業もするようになった。
選定はただ闇雲に切るのではなく、この後この葡萄がどういうふうに育っていくのかを考えながらやる。
木から長く伸ばす枝を1本、これはケインと呼ばれワイヤーに巻きつけ、ケインから伸びた枝に葡萄の実がなる。
そしてもう1本はスパーと呼ばれ、これは5cmぐらいの長さで切る。
スパーは来年用で、来年のケインはスパーから取るというのが基本のルールだ。
基本はそれでも相手は自然のものなので、不規則にいろいろなものができる。
病気だったり、向きが違ったり、細すぎたり太すぎたり、木自体が高くなりすぎたり、とにかくいろいろある。
1本1本が全て違うので、問題が全て違うパズルを解いているような、そんな気分になる。
すんなりと回答が見つかる木もあれば、「これがあーなってこーなって、ウーム」と考え込んでしまうような難問もある。
最初にやった時は考えすぎて脳ミソが汗をかいたようだった。
それでもやっているうちに少しづつコツも掴んでくるし、慣れた時に油断をして間違った枝を切ってしまうこともある。
作業はシンプルだが集中して頭を使うので時間があっというまに過ぎる。
ヒマでヒマで1日が長いなあ、などという仕事よりよっぽど建設的で健康的だ。
なによりブルシットジョブでない感が半端ない。
ちなみに僕がやっている農場での仕事のように、社会的に意味はあるが高収入を得られない仕事はブルシットジョブと区別され、シットジョブというようだ。



こうやって毎日毎日、葡萄の木と接していると、木に対する思い入れも生まれる。
木を育てるというより、木に仕えるという言葉が正しいだろう。
実際に僕らがやっている仕事の全ては、葡萄にとって育ちやすい環境を整えるというものだ。
これは葡萄に限らず、地球上の農業全てに当てはまることだと思う。
農家がやっている事は、植物の特性を知りそれにあった環境を作ってあげることだ。
寒いのが苦手な植物は温室で育てるとか、病気や虫対策に薬をまいたりとか、影にならないようにとか風通しが良くなるよう雑草を駆除したり。
まるで植物様に仕えるしもべじゃないか。
人間は万物の長などという言葉があるが、思い上がりもはなはだしい。
シンプルに考えて、全ての動物は植物がなければ生きていけないが、植物は動物がなくても生存できる。
植物は自分の種を存続するのに有利なので、他の動物や鳥や虫を利用している。
人間だって植物に利用されているとも考えられる。
最近は農系ポッドキャストを聞いているが、その中でこんな事を言っていた。
「植物というのは生物学的に動物よりも優れている。自分が宇宙人で地球の事を何も知らずにやってきたら、人間より植物にコンタクトを取るだろう。」
実に面白い視点の話で、個人的には納得できる。
さらにその話の延長で、トウモロコシ宇宙人説は人類はトウモロコシに支配されているなんていう話も実に愉快でよろしい。
そうやって考えると、この地球上で人間とはどうしようもない存在だな。
地球にとって人間がガン細胞である、という例えは聞いた事があるが、そのガン細胞同士がいつまでも殺し合いをしている。
教科書に載っていない歴史だが、人類は過去に何回も大絶滅を繰り返している。
過去の絶滅では、この世の終わりが間近にあるのに人間は略奪や殺戮をやめなかった。
今の世の中とどう違う?



話が大きくそれた。
人間がどうしようもないという話ではなく、植物が優れているという話だ。
何と言っても植物は光合成ができる。
自分の中でエネルギーを作る事ができるというのは、動物には逆立ちしてもできないことだ。
他の生物の助けを借りなくても生きていける。
地球上で人間を始め他の動物が絶滅しても植物は存続できる。
そんな優れた植物の致命的欠点は自分で動く事ができない。
それが故に動物や昆虫や鳥を利用したり、風で種子を遠くへ運んだり、様々なやり方で種を残している。
環境に合わせ自分自身の姿を変えるとも言えよう。
その環境を人間の科学と考えるならば、遺伝子組換えも植物の本意かもしれない。



ヨーロッパで生まれた葡萄という木は、実を肥やし菌と結託して葡萄酒という形で人間に味を覚えさせた。
味を知った人間は、種を海を越えて地球の裏側まで運んで栽培を始めた。
植物が知ったことでない人間界のドタバタ劇で仕事が無くなった僕が、今はせっせとその子孫の面倒を見ている。
壮大な話ではないか。
そんな葡萄のもくろみにまんまとはめられている自分を見るのが楽しくもある。
葡萄の陰謀を知りつつ、1本、また1本と枝を切っていく。
ひょんなことから葡萄畑で働き始めて1年。
季節は巡り、自然のサイクルの中に実を置く感覚は研ぎ澄まされていくような気がする。
葡萄との出会いもこれまたご縁というわけなのだろう。
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ブルシットジョブ

2022-06-13 | 日記
ブルシットという言葉は直訳すると牛の糞だが、とんでもないとかでたらめとかくそったれとかコンチクショーとか、ロクでもない意味だ。
ちなみに英語の発音をカタカナ表記にするとボゥシッになるが、今回はブルシットで行こうと思う。
ブルシットジョブとはロクでもない仕事という意味で、デイビッド・グレーバーという人の本のタイトルでもある。
ブルシットジョブの定義は『被雇用者本人でさえ、その存在を正当化しがたいほど、完璧に無意味で不必要で有害でもある有償の雇用の形態である。とは言え、その雇用条件の一環として、本人はそうではないと取り繕わなければならないように感じている。』 デイビッド・グレーバー
僕が自分の言葉で書くなら、本当はやりたくないクソバカバカしい仕事だけど金になるからやってるだけで、生活のために綺麗事ばかりも言ってらんねーよな。
そんな具合かな。
ここであらかじめ書いておくが、今回の話は読んでいてムカつく人が多く出てくると思う。そして長い。
仕事というのはその人が選択した生き方であり、それをけなされたら誰だって腹が立つ。
「なんでオメーにそんなこと言われなきゃならないんだよ、このクソ野郎が。だいたいテメーは偉そうなんだよ、何様のつもりだ!」と思われても仕方ない内容だ。
なのでそうなるかもしれないなという人は、途中でも読むのをやめて別の事をする方がいいだろう。本当に長いから。
ではなぜ書くかと問われたら、長年自分が投げかけてきた質問の答えがそこにあったからだ。長くても。
仕事と言うものを考え、構造を理解する点でうまく説明をしてくれたのがブルシットジョブだったという話。
まず仕事とは一体なんだろう、労働とは違うのか?
その答えは人によって違い、それこそがその人の持つ人生観であり価値観である。
「生きていく為にする事」「嫌いだけど仕方なくやる事」「お金を稼ぐこと」「ただ考えずにやる事」「楽しいこと」「自分がやるべき事」「社会の為にする事」「家族の為にする事」「何かよく分からないけどやらなきゃならないこと」「自分の使命」「人がいやがる事をすること」「うだうだ言ってないでだまってやれ!」
いくらでも出るがなにが正しいというのはない。
よく職業に貴賎はない、などと言うが僕は違うと思う。
この言葉も職業とは何かで意味合いが違ってくるが、ヤクザは職業だろうか?ヤクの売人は?サギ師は?殺し屋は?戦争仕掛け人は?
そこまで含んで考えると、例えば医者と殺し屋は同列か?ヤクの売人と消防士は同列か?となってしまう。
今回の話も前提に、職業に貴賎はある、ただしその貴賎とはどれだけ金を稼ぐのではなく、どれだけ社会に貢献しているかで決める、これをベースに考えていきたい。

さて、ここでブルシットジョブの種類をいくつかあげる。
1 取り巻き 誰かを偉そうに見せたり、偉そうな気分を味わせたりするためだけに存在する仕事。
2 脅し屋 雇用主の為に他人を脅したり欺いたりして、その事に意味が感じられない仕事。
3 尻拭い 組織の中の存在してはならない欠陥を取り繕うだけの仕事。
4 書類穴埋め人 組織が実際にやっていないことを、やっていると主張する為だけに存在する仕事。
5 タスクマスター 他人に仕事を割り当てるためだけに存在し、ブルシットジョブを作り出す仕事。
一つ一つは後で記述するが、全ての人が思い当たる事があるだろう。
職種そのものがブルシットジョブであることもあるし、仕事の一部がブルシットジョブということもある。
エッセンシャルワーカーの仕事でも時と場合によってブルシットジョブになりうる。
自分のやっていることが100%ブルシットジョブだという人は少ないと思う。
だが今の社会で生きていたら多かれ少なかれ誰もがブルシットジョブに巻き込まれる。
エッセンシャルワーカーというのは社会機能維持者と訳されるが、社会に必要な職種のことである。
食料生産、交通、流通、物販、生産、教育、医療、建設、消防、安全管理、通信、治安維持、他にもあるかもしれないがざっとこんなものだろう。
これをやっている人が全て立派かと言うとそうでもなく、職業として社会の為に必要でもそれをやっている人間はクソ野郎、というのはどこの世界にもいる。
あくまで仕事の構造の話で、おおまかに言ってエッセンシャルワーカーは社会に必要な仕事、ブルシットジョブはあってもなくてもどうでもいい仕事と考えていいだろう。
ちなみに社会には必要だけど賃金の低い仕事、農業とか看護師とか介護とか3Kのキツイ仕事は、シットジョブと区別されている。
そしてヤクザや売人のように目に見えて社会の毒となるような仕事もあるが、ブルシットジョブは表向きは毒気はないが実質は社会全体に害を与えている。
何と言って儲かるし金になるのがブルシットジョブなのだ。
ホワイトカラー、エリート、なんとかエグゼクティブ、なんとかコンサルタント、なんとかコーディネーター、全てではないがそういった人にブルシットジョブは多い。

ここで一つづつブルシットジョブについて具体的に述べる。
その1、『取り巻き』。誰かを偉そうに見せたり、偉そうな気分を味わせたりするためだけに存在する仕事。受付係、ドアパーソンなど。
組織の派閥争いには必ず存在するし、ゴマをするなんてのはどの業界でもある。
昔あるスキーリゾートで働いていた時に年上の正社員が僕ら若手のアルバイト社員に偉そうに言っていたのを思い出した。
「私はオーナーが来る時は常にポケットの中でライターを温めておくんです。オーナーがタバコをくわえた時にさっと出して一発で火がつくでしょう。これが気配りです」
こいつはそんなくだらない事を考えて人生を生きているのか、と心の中で思った(さすがに言葉には出さなかった)だがこうやってネタに使わせてもらったんだから良しとしよう。
これを一言で言い表すなら『媚びる』という言葉だろう。
権力もしくは財産を持つ人間に媚びて自分を認めてもらいたい欲求。
そこにあるのは人間として平等というものではなく、常に上下関係だ。
しかも自分で上下関係を作り上げて、その関係の中に身を置いてぬるま湯に浸かるように思考を停止している。
そういうやつはたいてい上にはペコペコするが、下にはきつく部下の失敗は部下のせい、部下の成功は自分の業績とするんだろう。
そういう事だけで金を稼いでいる人はたぶん多いんだろう、しかもその金は大金なんだろうなあ。
今ここまで書いて気がついたが、例を挙げたスキー場のゴマすり野郎はそれで大金を貰っているわけでないからブルシットジョブではなく、単にバカなヤツという話だろう。
政治界とか財界とか、それから大学病院の中にもあるのをテレビドラマで見たが、似たような権力構造ではヤクザの社会でも同じだ。
客に媚びるという意味では、客商売でも無意味なサービスというものはある。
媚びることと正当なサービスというものは本来違うものだが、むやみに媚びる側とそれで気をよくするバカな客と1セットになっているのが現状だろう。

その2 『脅し屋』雇用主の為に他人を脅したり欺いたりして、その事に意味が感じられない仕事。
ロビイスト、顧問弁護士、テレマーケティング業者、広報スペシャリストなど雇用主に代わって他人を傷つけたり欺いたりする為に行動する。
言葉巧みに雇用主に取り込み、敵もしくは標的の弱みを見つけ出し脅して利益というエネルギーを奪う。
脅すという点ではヤクザや総会屋も似たようなものだが、彼らは直接的に利益を奪う。
どちらもコントロールドラマでいうところの脅迫者で、他人からエネルギーを奪うのでいくら奪っても満ち足りることはない。
奪ったエネルギーは人に回すことなく、自分だけでもしくは自分の所属する組織だけ溜め込む。
エゴ、自分さえよければいいという考えから脱却できない人々だ。

その3 『尻拭い』 組織の中の存在してはならない欠陥を取り繕う為だけに存在している仕事。
例えば粗雑なコードを修復するプログラマー、バッグが到着しない乗客を落ち着かせる航空会社のデスクスタッフ、客からの苦情電話係。
この話でも昔会った人を思い出した。その人は何か事あるごとに「ごめんなさい」を連発していた。
なぜそんなに謝り続けるのか聞いたところ、とある会社の苦情の電話番を長い事していたと言う。
そこではひたすらに謝り続ける仕事でそれが癖になり、プライベートでも事あるごとに謝るようになった。
自分自身が悪い事をしたわけでもないのに謝るなんて悲しいことだなぁ、と思った。
これが自分なら「自分が悪い事をして謝るのは納得がいくが、自分が悪くないのに謝るのは何か違う」という考えが態度に出て客を怒らせてしまう。
実際に若い時にはそういう事が原因で大クレーム問題になったこともあった。若気の至りだったんだなあ。
自分が悪くないのに謝るのは人として悲しい話だが、その仕事を選ぶのもその人の選択の結果なのだろう。
たまにあるのがクレームを受け続けた人が、立場が変わった時にクレーマーになってしまう事で、負の連鎖とはそうやってできる。

その4 『書類穴埋め人』 組織が実際にやっていないことを、やっていると主張するために存在する仕事。
例えば調査管理者、社内の雑誌ジャーナリスト、企業コンプライアンス担当者など。
役に立たない時に何か便利なことが行われているように見せる。
これは自分の身近にはいないので具体的な例は見つからないが、なんとなく想像できる。

その5 『タスクマスター』 他人に仕事を割り当てるためだけに存在し、ブルシットジョブを作り出す仕事。中間管理職など。
これが僕が長年疑問に思っていて、誰も納得のいく答えを指し示してくれなかったことの答えの一つだ。
フランスのお茶工場の話だが、その工場がリプトンという会社に売られて放置された。
従業員はそのままで、新しくただ椅子に座っているだけという工場長がやってきた。
新しい工場長は何もしなかったが、古くからいる従業員が力を合わせ頑張って、いろいろな改善をして業績は以前の2倍半になった。
上の人が何もしないというのは時に良い結果を招く。
それで従業員の給料が上がったかというとそうでなく、新しい機械を導入したかというとそれでもなく、現場を知らない10人のスーツを着た人達が中間管理職としてやってきたという話。
ここからは僕の想像だがその人達は何をしたんだろう。
きっと何もしなくても給料をもらえるのだろうが、人間は何かしたという証が欲しい。
現場の人に必要のないレポートを提出することを命ずるかもしれない。
自分が仕事をしているという証が欲しいだけで、あれやこれや命令したかもしれない。
現場のことを知らない上司がしゃしゃり出て現場をかき乱す、そんなことは世の中にいくらでもあるし僕も今までの人生でいくつも見てきた。
そうやってブルシットジョブが増えて行く。
僕がツアーで仕事をしていた時、多分今もそうだがツアーレポートの提出を命じられた。
ホテルから空港まで1時間ぐらいの仕事で何も問題なく終わった時でもレポートを出せと言われる。
くだらない仕事だなと思いながら『何も問題なし』と書いていたら、「問題なしではなく、もっと具体的にお客さんの様子を書け」とまで言われた。
問題があった時に報告するのは当たり前だが、何事もなく終わった時にもするのは実にバカバカしい。
当時はファックスでそれを送っていたが、紙のムダ、通信費のムダ、労力のムダだ。
何故こんな作文をしなくてはならないのか、お客さんは満足して帰ったんだからめでたしめでたしでいいじゃん。
今となっては僕の何故?の答えは『それがブルシットジョブだから』で結論づけられる。

こうやって見てみると世の中はブルシットジョブで溢れている。
全く意味の無い会議、誰も見ないレポートの提出、接待ゴルフ、自分の仕事が終わったのに同僚が終わっていないという理由で帰れない残業、余った予算を年度末に使い切らなければならない理由でやる道路工事、自分の存在価値だけのためだけに部下に命ずる生産性の無い作業。
誰もが思い当たることがあるはずだ。
気をつけなければならないのは、それを悪だと決めつけてしまうことである。
悪だと言った瞬間に思考は停止してそれで終わってしまう。
一見ブルシットジョブは悪いと思いがちだが(確かに良いものではない)そこで一歩踏みとどまって冷静に考えなくてはならない。
まずはブルシットジョブの構造、そして世の中はブルシットジョブで溢れているというファクトを理解する必要がある。

ケインズという経済学者が考えた理論では、将来(僕らの現在)はテクノロジーが発達して人は週に15時間ぐらい労働すればいいという世の中になるだろうと予測した。
実際には週40時間どころか残業休日出勤で、人は休みなく働いている。
全然違うぞー。
一説では人類は産業革命以前よりも忙しくなっていると。
人間が楽に生活ができるように科学が発展したのに、どうなっちゃったんだよ、一体?
確かに生活は楽になった。
全自動の洗濯機はボタンを押せば機械が洗濯してくれて脱水や乾燥までしてくれる。
炊飯器はご飯を炊いてくれるし、掃除機ロボットが掃除をしてくれる。
昔の人から見れば夢のような生活なのだろうが、昔はブルシットジョブも無かった。
便利になり生活に余裕ができた、その分ブルシットジョブが増えたということだろう。
言い方を変えると新しい機械を買うためにブルシットジョブをやり、新しい機械を作って売る側もブルシットジョブをする。
なぜこんなにもブルシットジョブが増えたのか?
それは『自由市場経済では全ての物が商品となり労働者の労働時間というものも商品になる』というところだと思う。
要は資本家は労働者から時間を買っていて、労働者は自分の時間を売って生活をしているとも言える。
だから仕事に意味や生産性があろうがなかろうが、会社に居るだけで給料をもらえるという構造ができる。
これを考えるとブルシットジョブは資本主義が発達する上で当たり前に発生するものなんだろうな。

働かざる者食うべからず、という格言がある。
生きていくためにちゃんと真面目に働きなさいよ、という言葉だがこれについて一言もの申す。
まずこの言葉ができた昔は、人間の労働はほぼ全てがエッセンシャルワークであり、働くこと=家族を養う、ひいては社会の為でもあった。
そしていつのまにか人々の心に、労働=尊いもの、という概念ができた。
その概念が一人歩きすれば、家族を犠牲にしてでもするべき義務、となる。
誤解のないように言えば、僕も労働は尊いものだと思っているが、労働の質と言うものを忘れてはいけない。
働く事は大切な事だから、ブルシットジョブだろうがなんだろうが働けば良い、という考えから脱却すべきだ。
そして今の世の中では雇用を生むというのが、政策にもなっている。
オバマが大統領だった時の話、あるシステムを導入すれば1万人の人件費が節約できるという話があったそうな。
オバマは「そんなことをしたら1万人はどうやって食っていくんだ」と言ってそのシステムが導入される事はなかった。
結果は1万人分のブルシットジョブが残っただけだ。
似たような話は世界中に転がってる。
これからAIがもっと進めば、いやすでにそうなのだが、人間がやってきた事を機械ができる時代になっている。
そこで出てくる質問は、雇用がなくなって生活がやっていけるのか、これは絶対に出る。
これを打開するにはベーシックインカムの導入という方向に行くのだろうが、それも簡単な話ではないだろう。
でもまずは考え方を変える事からだと思う。
自分のやっているその仕事は本当に大切な仕事なのか、ブルシットジョブか。
それだけで世の中の見方が変わってくるはずだ。
ちなみに政治家のほとんどはブルシットジョブだ。

さて世の中には様々な仕事があるが、それが社会にどれだけ役立つかという興味深い話を聞いた。
これは言い換えれば、仕事のブルシット具合というものだ。
人間が1ドル分実際に働いて、その1ドルが社会の中でどれだけの価値になるか。
例えば保育士の1ドル分の仕事は、社会では7ドル分の価値がある。
ナルホド、理解できるぞ。
看護師の1ドル分の仕事は社会では9ドルの価値がある。
仕事きついし、それぐらいの価値はあるわな。
ゴミ収集車の人の労働は10ドルの価値があるという。
面白いことに医者はそれほど高くなく、看護師の方が高い。
実際の社会では高い給料をもらって威張っているのは医者だ。
それだけ医者はブルシットにまみれている一面もあるという話。
対極では銀行員が1ドル分働くと、社会では7ドルの損失になると言う。
損失っていうのもありなんだね。
極め付けは広告代理人、この人が1ドル働くと11、5ドルの損失になる。
ああー、なんとなく分かるぅ。
この値を指標にして、各職業がどの辺りに位置するかおぼろげに見えてくる。
ただしこれは職業の平均値であろう。
医者でも現場で患者に寄り添って仕事をする医者もいれば、ふんぞりかえって威張っているだけの医者もいるだろう。
これはあくまで全体を見る話であって、個人の働き方や生き方とは区別して考えなくてはならない。

ブルシットジョブの定義に一度戻ると、社会において意味がないもしくは害になっていて本人も認めているのがブルシットジョブだ。
深読みすれば、本人が「自分がやっているのはブルシットジョブではない」と言い張ればブルシットジョブではないわけだ。
これは面白い観点で、それを決めるのは周りでなく自己申告制というのがいい。
統計では欧米諸国の3割から4割ぐらいの人が、自分がやっているのはブルシットジョブだと認めている。
人間はそれぐらいの割合で理性と良心を持ち合わせているのだな。
そしてまたブルシットジョブをやり続けるのはある意味つらいものだと思う。
たとえブルシットジョブで大金持ちになって社会的に成功をしたように見えても、虚しさからは逃れられないだろう。
僕の考えでは仕事というのは何かしら社会に奉仕する一面が必要だ。
それがエッセンシャルワークでなくても、たとえ何も産み出していなくても、人を幸せにする仕事はある。
よく聞く話だが家事は仕事かどうか。
家事自体は直接的にお金を生み出していないので、低く見られている。
だが労働者に次の日も元気で働けるエネルギーを与える大切な役割だ。
こういう仕事のことをケア労働という。
ケア労働もエッセンシャルワークだ。
その他にも音楽家、画家などのアーティストなども人を幸せにする仕事だと思う。
他人を幸せにするということだけで、どの仕事でも社会的意義はある。
それを自分が選択するかどうか。
その想いが社会を作り上げていく。


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さらばガラケー

2022-06-06 | 日記
やっとなのか、ついになのか、年貢のおさめどきなのか、今さらになってようやくなのか、ガラケーを卒業した。
こうやって書くと知らない人は、旧石器時代の人間に文字を教えるようなでっかい変化を想像するかもしれない。
実際のところはそれほどではなく、戦国時代の人間に無線通信を教えるぐらいのものである。
今まで使っていたガラケーは、防水防ショックで1回充電すれば2週間ぐらいもつという優れものだ。
最後に充電したのはいつだったっけ?と思うぐらいバッテリーがもつ。
電話機として使う分には何ら問題はない。
一応ネットも繋がるが、哀しいことにほとんどのサイトは表示されない。
日本語のメッセージは読めるが、返信は英語のみ、絵文字は読めない。
文字は小さく、老眼鏡がないと見えにくいぐらいだ。
でも電話機として使う分には何ら問題はない。
問題があるとすれば、今の世の中で電話機を通信手段の電話機として使い続ける人間はほとんどいなくなったということだ。
ある意味、絶滅危惧種であり僕以外にガラケーを使っている人は全黒で一緒に働いていたアキさんぐらいしか見たことがない。



余談になるが、90年代後半に携帯電話が普及してほとんどの人が持つという時代、とあるスキー場で働いていたが僕と相方のJCだけがケータイを持っていなかった。
その時の僕らの合言葉は『あれば便利は・・・無くても平気』
皆からは連絡が取れなくて困ると言われ「連絡取りたい時はどうすればいいの?」と聞かれたら「手紙を書いてくれ」と言っていたあの頃。
それでも街には公衆電話は存在しており、なんとか有線電話でも生活ができていた時代だった。
そういう自分も時代からかなり遅れて携帯電話を持つようになり、街から公衆電話や電話ボックスが姿を消した。
一度携帯を使い始めるとナルホドこれは便利であり、そしてまた社会で生きて行くのに必需品となった。



お気に入りのコテンラジオで情報通信の歴史というのを聞いたことがあった。
昔は人が移動するスピードで情報が伝えられていき、重要な伝達事項は騎馬による伝令、日本では飛脚などで伝えられた。
情報の重要さはスピードに深く関係していた。
科学が進むに連れ人間の移動速度が速くなり、それに比例して情報も速くなった。
実際の軍事だけに限らず政治戦略でも経済戦略でも情報収集は戦略のイロハであり、相手より早く情報を得ることが勝利へ繋がる。
さらに時代が進むと有線通信さらには無線通信ができて、情報の速さは人間の移動スピードを超えた。
そして話は地球上だけのものでなく宇宙まで飛び、人工衛星のおかげで地球の裏側でもリアルタイムで通信ができるようになった。
人類史で見るとこんな具合だが、僕個人の通信手段の思い出は黒電話そして郵便だった。
ジーコロコロコロとダイヤルを回すタイプの黒電話を我が家では長らく使っていた。
電話機も親子電話になりコードレス電話がでてきて、携帯電話の登場だ。
携帯電話も出てきた当初はバッテリーもでっかくて、とんでもなく高く、しかもトンネルとかに入ると切れるというしろもの、それがわずか30年ぐらい前のことか。
通信の種類も直接会話をする電話、メール、テキストメッセージ、ライン、メッセンジャーと多様になった。
携帯電話、スマホ、アイフォン、アイウォッチ、もうこうなると電話は機能の一つとして存在し、小型のコンピューターを各個人が常に持ち歩いているようなものだ。
電話機を電話機単体として使う時代はとっくに終わったのであり、やっとこさ乗り換える時になった。



こうやって書くとまるで僕が何も使えない旧石器時代の人間と思われるのも癪なので書いておく。
家ではiPadを使っているし、娘のiPhoneのお下がり(故障して会話ができない状態)を電話機としてでなく、音楽を聴くツールとして使っている。
なので使い方はある程度知っているし、買う金がないというほど貧乏でもない。
そしてまたいつまでもガラケーを使い続ける僕を哀れんでか、友達のタイが中古のiPhoneをプレゼントしてくれたのが1年前。
シムカードを入れ変えればいつでも文明開化で文化人の仲間入り、旧石器時代よサヨウナラという状態がしばらく続いた。
でもなんとなく、政治的思想があるわけでもなく、死んだ爺さんの遺言でもなく、宗教上の理由でもなく、本当になんとなく使えるものを廃棄するのに抵抗があり、それだけの理由でガラケーを使ってきた。
ガラケーが壊れたら換えようと思っていたが、何せ防水防ショックとにかく頑丈で壊れないし、充電待受時間は多少短くなったが10日ぐらいは普通にもつ。
本体自体は壊れないが、充電部分をカバーしているゴムが壊れたのを機会に、iPhoneデビューと相成ったわけである。
だからと言って自分の生活が劇的に変化したわけではないが、便利になった点があるのも認める。
何よりケータイを換えたなどとくだらない話だけで、一つブログが書けてしまった。
20年後先、いやもう今すでにそうなのだがケータイは形態を変え別のものになっているだろう。
その時に時代遅れとなったケータイから自分がどのように新しい通信手段に乗り換えるのか、それが今から楽しみでもある。
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