あおしろみどりくろ

楽園ニュージーランドで見た空の青、雪の白、森の緑、闇の黒の話である。

山小屋が来た。

2014-10-28 | 
山小屋という男。
もちろん本名ではない。
北海道で『ガイドの山小屋』というガイド会社を営み、バックカントリーのスキーガイドをする男で「山小屋さん」とか「山小屋」とか呼ばれている。
この人は毎年自転車で長距離の一人旅をして心と体を鍛えていて、オーストラリア縦断5000キロとかニュージーランド南島一周3000キロの旅とか、そんな事をやっている。
ヤツとの付き合いもかれこれ8年ぐらいになるか。
ある時にひょんなことからヤツのホームページを見つけ、その内容にそのまま同調。
連絡を取り合い、クィーンズタウンのユースにヤツが滞在している時に押しかけ、そのままユースの庭で七輪焼肉をやり、そのまま兄弟の杯を交わした。
それ以来、ニュージーランドに来る時にはクライストチャーチの我が家から旅を始め、クィーンズタウンでは僕がフラッティングしている家でしばらく留まり、クライストチャーチの僕の家から去る、というようなつきあいだ。
ヤツとは同じ年で背格好も似ており、山のガイドという共通点がある、がそれだけではない何かがある。
波が同調する時に余計な言葉は要らない。
心の奥で繋がる物を感じ、そこに意識を向けて相手と接する。
生まれ育ち、家庭、職場、その他もろもろの相違点もあり、考え方に違うところもあるが深い所で繋がることができたこの男を僕は兄弟と呼ぶ。

ヤツが最後に来たのは3年前。
それからもメールやブログのコメント、たまに電話をしたりとつきあいは絶えずに、互いに自分がやるべき事をやっていた。
ずいぶんとやられているなあ、と感じたのはこの日本の夏だった。
ヤツのところは7月8月の2ヶ月が一番忙しい時なのだが、最近は大陸系の中国人が大挙押しかけるようで、トイレを壊されたり、無理難題をふっかけられたり、お客さんでもない人にゴミを駐車場に捨てられたりとか、まあいろいろと気苦労が絶えないようだ。
遠くに居てもソウルブラザーの兄弟である。
そういう人達にエネルギーを奪われているんだ、という事が僕にもひしひしと伝わってきた。
「がんばれよ、兄弟」心の中で僕はつぶやき、ヤツは多忙な夏を乗り切り、そしてニュージーランドにやってきた。
3年ぶりの我が家である。
ヤツも最初は遠慮をしたのだろうな。
卵が大好きだが食べたいと言いづらかったのだ。
「なんだよ、お前、卵が食いたかったら食いたいって言えよ。こんなにたくさんあるのに」
「いやさ、北村家の物だからさあ」
「まだ分かってないのか?オレの物はオマエの物。オマエの物はオマエの物。ここはオマエの家でここの食い物は全てオマエの物でもあるんだぞ。一々聞かないで何でも好きなものを食え。」
「そうか、分かった。遠慮なくもらう」
「それでよし」
遠慮をする人は追い出すというのが我が家の家訓である。









遠くから兄弟が来たのである。
そりゃ厚くもてなすわな。
まだ夏の仕事の前で時間に余裕もある。毎日毎日、日替わりでいろいろな所へ連れ回すのだ。
まずはリカトンのサンデーマーケット。
行ったことがあるかと思いきや、「ない」と言うので家族で一緒に行ってみた。
ぼくらにとっては当たり前にあるものでも、旅行者にはご馳走である。
物を捨てないニュージーランドの、観光者向けの体裁を整えた面ではなく、地元の人が集うマーケットである。
ガラクタも多いが、男心をくすぐるような物も多い。
案の定、ヤツは大喜びである。
そして平日は庭仕事の手伝い。
ヤツの今回の課題は門を直す事。
うちの門が古くなりガタがきている。
3年前にヤツが来た時にある程度の修理をしてくれてのだが、また壊れてしまった。
壊れたと言ってもなんとか使える程度なのだが、何かしらの手を入れなければならない。
僕は自分が直すイメージは湧かず、ヤツが来るのを待っていたのだ。
先ずはリサイクルのエコショップや建築廃材の店を回り門に使えそうな物を探す。
こういった店も自分でやらない人には「ふーん」で終わってしまうだろうが、自分で何でもやる人には宝の山だ。
そこでおあつらえ向きの門を発見。お値段は$15、即決。毎度あり~、ちーん。
次にニワトリの小屋に使うオガクズを買いにガーデンセンターへ。
トレーラーをその場で借りて、ホイールローダー一杯分のオガクズを積んでもらい、家へ運ぶ。
オガクズはニワトリ小屋と産卵の小部屋に敷き詰め、余った物を袋に詰めて保管。
空になったトレーラーに木の枝を切ったものを満載して、ゴミ処理場へ行って捨てる。
ついでに家の物でリサイクルできる物もそこで引き取ってもらう。
作業を兼ねた社会見学である。
「どうだ兄弟?ここの社会のシステムはいいだろ?」
「うん、いい。あー、今日はすごい癒されたよ。」
「癒されたか。そりゃよかった。」
見る人が見れば、この社会の合理性というものが分かる。
僕がよく言う『成熟した大人の社会』というやつだ。
それを経験させることが僕流のもてなしでもある。
もてなしをするがお客さんではない。
餃子の皮を作り、深雪がそれを包む。
二人で仲良く作業をしているのが微笑ましい。
庭の門も直してもらったし、芝刈りもやってもらった。












天気の良い日には軽く近所の山へ犬を連れてハイキング。
ここは牧場の中を歩くのだが、犬専用のゲートがあり、人間と一緒でないと犬が入れないようになっている。
こういうシステムが好きだ。
山からの下り道ではワラビを発見。
そういえば去年もこの場所でワラビを取ったな。
二人でガサガサと収穫。これは山小屋があくを抜きキンピラ風に煮付けた。絶品。
山を歩けば犬も喜んでついてくるし、人間も気持ちよく汗を流した後はビールも美味い。
運動をした翌日は御馴染みオノさんの整体でボキボキとやってもらう。
僕はこれから夏の仕事で体を使うし、山小屋はこれから何千キロも自転車で走る。
その前に体を整えておこうと二人連続でやってもらうのだが、一人はギュウギュウやられてウーとかアーとか言い、もう一人は観客でそれを見るわけだ。
オノさんも観客がいるほうが乗るのかそれともサービス精神か、いつもより痛い時間が長いぞ。
二人でフラフラになり、オノさんも仕事を終えて一緒に飲むビールが又美味い。

続く

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矍鑠

2013-11-07 | 
矍鑠、かくしゃくという字はこういう漢字だったんだなあ。
年老いても元気な様子、と辞書にはある。
今回は矍鑠としたおじいさんの話。

この場を借りて発表するが、今シーズンから僕は古巣タンケンツアーズに戻ることになった。
そうなったいきさつは20年来の友達でボスであるリチャードから「この会社にお前が必要なんだ。お前はナンバーワンガイドだ。どうか戻ってきてくれ」とおだてられ(作ってないぞ)「そうかそうか、そこまで言われたら行くわいな」という軽いノリで話が決まった。
3年前の地震でタンケンツアーズを離れ、その後は別の会社でドライバーガイドをやった。
そこでも色々な出会いがあったが、そこの会社は基本的に観光ガイドで自分としては山歩きのガイドをしたいという想いは常に持っていた。
なのでこの話に飛び乗った。
そして移籍後の初仕事にこの依頼が来た。
仕事の行程はクライストチャーチ空港からスタートでテカポで一泊。
翌日にマウントクック経由でクィーンズタウンへ行き、その翌日はミルフォードサウンド1日観光。
4日めにクィーンズタウンの空港まで送って終わりという、この国の王道コースである。
お客さんのインフォメーションとしては小説家、太宰治の娘の旦那さん、義理の息子ということだ。
えーとえーと太宰治ねえ、『坊ちゃん』は夏目漱石だったよな、『羅生門』は芥川龍之介か、そうだ『走れメロス』だ、それなら子供の頃に読んだ事はあるぞ。
逆に言えばそれしか知らないのだが、だからと言って今さら太宰治の本を読んでも始まらない。
ニュージーランドの我が家にあるわけでもないし。
ひょっとするとお客さんは有名人の関係者ということで、そう扱われるのを好まないのかもしれない。
僕としては有名人も普通のお客さんも同じ。
皆ニュージーランドに来てくれた大切なお客さんである。
さらにボスのリチャードからメッセージが届く。
『お客さんはワインが好きで、食事もガイドと一緒に取りたいようなので、よきにはからえ』
おお、そうか。じゃあ普段は飲めないようなワインをご馳走してくれるかもしれないな。
まあ自分としては普段どおり、自分ができることをやるのみ。
自分ができることとは自分を見つめることにより分かる。
今回の仕事もうまくいくだろうなという漠然とした予感を持ちながら空港へ向かった。

今回はお客さんが一人のプライベートツアーである。
こういう場合は料金も高くなるのだが、お客さんはお金持ちなんだろう、きっと。
VIPということだが僕にとってはVIPも普通のお客さんも同じこと。ちなみに給料も同じなのである。
飛行機は時間通りに到着し、ゲートから出てきたおじいさんがサインボードを見てにこやかに手を振った。
今回のお客さんT氏は83歳。
冒頭で述べたとおり、背筋はピンと伸び足元もしっかりして、かくしゃくという言葉どおりの人である。
人当たりも良く、着ている物も上質でダンディー、丁寧な紳士というのが第一印象だった。
自己紹介をして先ずは市内観光。
「どこでもいいので街並の写真を撮りたいので停められる所で停まってください」
ちょっと小奇麗な住宅街で車を停めるとTさんが言った。
「あなたを入れて撮りたいのですがモデルになっていただけますか?」
「え?僕なんかでいいんですか?まあいいですけど」
「はい、ではその辺りに立って。もうちょっと下がって、ハイその辺。ああ、いい笑顔ですね」
そしてパチリ。カメラは使い捨てカメラだ。
クライストチャーチはイギリスよりもイギリスらしいという、訳が分からない呼び方をされている街だ、というようなことを説明すると即座に反応が返ってきた。
「ああ、確かにこの町並みはそうですね」
「イギリスに行かれたことはあるんですか?」
「ええ、私は若いときにはアメリカにもいましたし、フランスにも長いこと住んでいましたのでイギリスもよく知っています」
「そうなんですか。じゃあ言葉の方も問題なく?」
「はい。英語はイギリスのアクセントがあるとよく言われますし、私の場合はフランス語の方が得意でして先に出るのはフランス語なんです」
気障なセリフだがTさんが言うと嫌味がない。
「へえ、すごいですね。僕なんか若い時にニュージーランドの田舎のパブで地元のヤツとビールを飲んで英語を覚えちゃったからここの英語は分かるけどアメリカ人の英語が分からないんですよ」
「外国語はそうやって覚えるものです。日本では英語の勉強をしているけど会話ができない。それは間違いをしたら減点というやり方なので失敗を恐れてしまう。このやり方ではダメです。言葉はコミュニケーションの手段なんです」
「言葉は生きていますしね」
「生き物です」
「それも最終的には心ですよね」
「心です」
息が合った。
こうなると仕事も楽である。
市内観光からテカポへ行く道中でも話は弾む。
車内でもTさんは南島の地図を広げ、見ながら質問をする。
「この次にはジェラルディンという街を通るんでしょうか?」
「はい。ジェラルディンは平野の外れに位置しまして、そこから先はなだらかな丘陵地帯へ入ります。このルートで1箇所だけ太平洋が見える場所を通ります。」
こういった説明も地図を見ながらだとより一層分かりやすい。
Tさんの質問も的確でこちらが説明しようとする事を一歩前に聞いてくる。
そして一つ答えれば十理解するタイプ。
こうなると話が早い。あっという間にテカポ到着。
晩御飯も一緒にということになり、ホテルのレストランでテーブルを挟んだ。
Tさんはかなりのワイン通でウェイターに色々とお勧めのワインを聞いていた。英語は堪能、僕が口を挟まなくてもいい。楽だ。
こちらと言えばワインを喉越しで味わうような男である。口の中でクチュクチュなんて飲み方は知らん。
たぶん高いんだろうなと思うようなワイン(これがまた旨いんだ)をガブガブと飲みながらTさんの話を聞いた。
「私は長いこと、人の為に働いてきましてね、そろそろ自分の為に楽しもうと去年はフィンランドへ。そして今年はニュージーランドへ来たんです。」
そこで名刺をもらった。
肩書きには弁護士、元衆議院議員。
「大蔵省で働いた後、代議士を33年やりまして、今は引退して息子に代をゆずったんです。」
「じゃあ息子さんも」
「はい、今回から議員をやっています」
33年も国会議員をやっていたなんて、さぞかし大変だったんだろうな、と思った。
きれい事じゃない苦労だって数多くあっただろうに。そりゃ自分の為の時間なんてないだろう。
こうやって一人で海外旅行なんてのも立場上許されなかっただろうな。
「そうですか、それじゃ今回の旅行はご自分の為に楽しんでください。『こういうことをしたい』というリクエストはどんどん言って下さい。出来る事はやりますし、できないことは出来ないって言いますから。『空を飛べ』と言われてもできませんしね」
「あははは、ありがとう。いや、だけどニュージーランドへ来て本当に良かった。想像してた以上です。又ね、あなたに出会えてよかったです。」
「いやいや、まだ初日じゃないですか、旅は始まったばかりですよ。明日は今日よりもっと変化に富んだ1日になります」
「それは楽しみだ。よろしくお願いします」
そして又ワイン。
楽しいお酒である。
僕の信条として人間を国籍、性別、年齢、社会的地位、財産の有無で判断しない。
人間として対等の立場でその人の魂と語り合う。
政治家だろうがその辺のおばちゃんだろうが大会社の社長だろうが一流のアスリートだろうが障害者だろうが対する態度は同じ。
色々な人に出会ってきたが、このやり方が一番上手くいく。
逆に肩書きで勝負をしようとする人は居心地が悪くなるのだろう。
自然に僕から離れていく。
なんといっても僕の肩書きは『にんげん』だ。
人というのは上下を付けたがる生き物なのだろう。
その上下をつけるのが社会的地位であったり、財産だったり、年齢だったり、時と場合では性別ということもある。
ニュージーランドにいる日本人の場合、長くいる人が上、というような雰囲気もある。
天は人の上に人を作らず、って言葉もあるように上も下も右も左もない。
全てはワンネス、丸く一つなのだが、一番簡単な事は一番難しいので分からない人にはとことん分からないし分かる人は分かる。



こうして僕はTさん滞在の間、毎晩夕食をご馳走になった。
その誘い方も「もしよろしければ一緒にお食事をいかがですか?」ととても丁寧に聞かれる。
僕としては是非ともとご馳走になるわけだが、こういう時に僕は全く遠慮をしない。
自分の財布では行けないレストランを選び、『一番高い物』ではなく『一番旨そうな物』や『一番飲みたい物』を注文する。
旨い料理を挟んでTさんのワインの話は面白く、とことんこの人はワインが好きなんだなあ、と思うのだ。
料理は毎晩フルコースで、毎日こんなのを食べてたら太るだろうなあ、と思ったらTさんが言った。
「私はこの年で食欲旺盛で油断すると太っちゃうんです」
「本当にお若いですね。若さの秘訣はなんですか?」
「若さの秘訣はよく聞かれるんですがね『イヤなことは忘れる』これに限ります」
「なるほどねえ・・・。ぼくはこんなのなんですがどうでしょう。『イヤなことがない』」
「あっはっは、それはいい。一段上を行きましたね」
「こんなこと言うのも時々お客さんに聞かれるんです『ニュージーランドで暮らしていてイヤなことってなんですか』とね。で僕は考えちゃう。えーっとなんだろう。空気も水も食べ物も美味い。泥棒だっているけどそんなのどこの国にもいることだし、むしろこの国は少ないほうだろう。海も山も自然がたっぷり残っていて遊び場には事欠かない。だからこう言います。『残念ながらイヤなところが見つかりません。僕自身としましては隣のクソネコが家の菜園でクソをすること。これが目下最大の悩みです』ここまで言うとだいたいみんなあきれちゃう。」
「あははは、そうでしょうね。いやあ楽しい。聖さん、今回の旅行は私の人生の中でも一番思い出に残る旅でした。」
そしてTさんはフランス語で何か言った。
僕が聞き取れたのは最後のメルシーボクゥという言葉だった。
ポカンとしている僕にTさんが言った。
「百回でも言います。どうもありがとう」
「いえ、こちらこそありがとうございます。これは持論なんですが、お互いにありがとうと言い合うときは健全な人間関係にある時ではないかと。例えば今、僕たち二人、誰も争っていませんよね。それよりも愛を分かち合っている」
「ほう、なるほど」
「とあるお客さん、その人はニュージーランド人で今は香港に住んでいる人なんですが、その人がこう言ったんです。『数多くの言葉はあるけど共通して一番大切なのはありがとうなんだよ』と。」
「そう、そして日本語のありがとうは、そうあることが難しい、という意味です。」
「はい。うちの父も全く同じ事を言ってました。ありがとうって魔法の言葉ですね」
「そうです」
Tさんとの会話は深いところで繋がる。実に心地良い。
「聖さんはいろいろな人に接しているようですが、今までに国会議員のお客さんはいましたか?」
「いえ、いませんね。どこぞの市長さんという方はいましたが国会議員はTさんが初めてです。」
「そうですか、では私のような政治家もいるんだということをどうぞ覚えておいて下さい。」
「はい、心得ました」
ドキ、心を見透かされている気がした。
正直、僕は議員センセイという人達に偏見を持っていた。
偉そうで威張ってて横柄で、というイメージを持っていた。
確かにそういう人もいるだろうが、全ての人がそうではない。
現に目の前のTさんは立派な紳士だ。
こういう人もいる。
今回は『偏見を持つな』という天からのメッセージなんだろうな、たぶん。

最終日は空港までの送り。
僕たちは固い握手を交わし、さようならではなく『また会いましょう』という言葉で別れた。
こうして一つのツアーが終わり、家に戻ってからネットでTさんの事を調べてみると、出るわ出るわすごい経歴が。
えー!元厚生大臣、それも2回。
そうか、あの人は厚生大臣だったのね。
どうりで、この国の見方が普通の人と違うと思った。
スキーパトロールをやっていた時に、よそのスキー場へ遊びに行っても「ここはこういうコース規制をやるんだ」とか「ここはこういうネットの張り方だ」なんてのを見てしまう。
そんな感覚でTさんもニュージーランドという国を見たのか。
しきりにこの国のやり方に感心していたのも頷ける。
それに元厚生大臣とか元衆議院議員なんて言ったら周りが構えてしまうだろうからと、太宰治の義理の息子としてツアーを組むなんて素敵じゃないですか。
現代の水戸黄門様みたいだ。
それにしても良かったあ、余計な事を言わなくて。
いつものガイドトークでは、ニュージーランドの大臣の話をして日本の制度を引き合いに出して「どこかの国の大臣に聞かせてやりたいですね~」なんて話をするのだが、今回はなんとなく、心のどこかでブレーキがかかりその話はしなかった。
なんとなく、というのは直感なのだな。
それより「どこかの国の大臣に聞かせてやりたい」としゃべったことが現実化してるぞ。
うっかり冗談も言えないな、こりゃ。

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マジックハンド再び

2013-04-28 | 
僕は腰痛持ちである。
20代後半、アライでスキーパトロールをしていた時、きつい体勢で怪我人の搬送をおこなった。
その翌日、スタッフルームでブーツを履いている時にピキっときて動けなくなった。
無線で仲間を呼んで助けに来てもらうというありさまで、その後一週間は寝て過ごした。
まあ俗に言うぎっくり腰というやつだ。
それ以来、疲れが溜まると腰が痛くなる。
もうこれは一生つきあっていくものだと、半ばあきらめてはいる。
NZで住むようになっても腰が痛くなると鍼を打ったりカイロへ行ったりして、なんとかだましだましやってきた。
そんな時に出会ったのがオノさんだ。オノさんとの出会いは劇的だった。
クィーンズタウンの行きつけの店のトイレで隣同士で小便をしながら声を交わし、3分後には一緒にビールを飲んでいた。
オノさんの話は以前から人づてで聞いていたので、さっそく翌日やってもらって又一緒にビールを飲み、それ以来何年ものつきあいだ。
去年はオノさんの奥さんが日本語の補習校の先生で娘の担任だったりと、まあ家族ぐるみのつきあいなのである。
今回はもう1ヶ月以上も前になるが、忙しい夏が終わりかける頃、やはり腰が痛くなった。
女房はオノさんに見てもらえば?と言ったが、どうも違うような気がした。
なんとなくその時は連絡をする気にならなかったのだ。
腰の痛さを騙しながらツアーをして、クィーンズタウンで知り合いにマッサージをしてもらい、その時は事なきをえた。
そして仕事が一段落して、今度はなんとなく今がその時だと思いオノさんに連絡をした。
なんとなく、これは直感である。直感に沿った行動は全て上手く行く。
数日後の午後の最終に予約を入れてもらった。
いつものことながら、僕はその日の最後に予約を入れてもらう。
その後で一緒にビールが飲めるからである。
さてその日、いつものように施術用の服を着て、寝台にうつぶせに寝てゴリゴリとやってもらう。
カルテだと1年ぶり、去年の4月以来だと言う。
僕は1年に2回ぐらいは診てもらうようにしているが半年前は、オノさんに診てもらおうと思いつつ忙しい季節が始まってしまったのだ。
肩の辺りをグリグリと押されて僕は悲鳴をあげる。
「いたたたたた、痛い痛い!オノさん、痛いよ」
「そうだな、ここは痛いよな、でもなこう押さえるともっと痛いんだよ、ほら」
「あたたたたた、分かった分かった、分かりましたから」
そして力を抜く。
反対側も全く同じようにやり、そしてまた戻ってくると今度はそれほど痛くない。
その気持ちを察するようにオノさんが言う。
「あれ、もうほぐれちゃったのか、つまんないな」
この人は絶対Sだ。
そして腰。腰の横辺りをグリグリと押されると、痛いけどむずがゆいような場所がある。
そこもグリグリ、必死に耐えるがそこにオノさんが嬉しそうに言う。
「あれー、こんな所にもあったぞ、もうひとつ深い所だ、ほれ」
もう耐えきれない。言葉にならない悲鳴をあげる。
「うぎゃああああ!そこそこそこ。あやややや」
「今まで隠れてたな、もう見つけちゃったもんね」
確かに今まではその辺りで終わってホッとして黙っていた所があったのだ。でも隠していたわけでもない。
これからはここももっと深く揉まれるのか。
治るためにはいいことだけど、そこはすごおく痛いし、ちょっと複雑な心境である。
クィーンズタウンでやってもらったマッサージはオイルマッサージでその時に全身のコリをほぐしてもらった。
その時は全身ガチガチにこっていたようで、そんな状態でオノさんにグリグリやられたらと思うとぞっとする。あの時になんとなくオノさんじゃないと思ったのはこういうことか。
ただ、今回感じたのはオノさんの施術は深い所で効く。
その分、痛い。
だがその痛みは、良くなるための痛みである。
地球の脱皮に痛みが伴うのと同じ事だ。
そして又、いろいろなやり方があるのだと。
クィーンズタウンのオイルマッサージとオノさんの施術は、例えて言うならばヨガと気功の違いのようなものか。
どちらが上とか下とか言うものではない。その人に合ったものを選べばよいのだと。
痛いのはイヤだという人はいるだろうし、僕は全く気にならないがオノさんのしゃべりがどうも好きになれない、と言う人もいるかもしれない。
波長が合わない人とは無理に付き合わない。ただそれだけのこと。
僕はオノさんの施術が好きだし、その後で一緒に飲むビールも好きなのだ。
今度はちゃんと半年後に予約を入れよう。

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人との出会い

2012-12-20 | 
この世に偶然はない。
全て必然のものであり、その中で僕達は生かされている。
人との出会いも又、然り。
なるべくしてなっている。
それらはタイミングというもので調整されている。
会うべくする人とは自然にそうなるし、会わない時はどんなにがんばっても会えないものなのだ。
僕は仕事をしていて、常にそれを感じる。
そういった出会いを感じることは楽しいものだ。

この前出会った添乗員は霊感の強い人で僕の前世が見えるようだった。
「あなたは以前僧侶だったようですね」
「はあ、そうですか」
僕自身、輪廻転生を信じているのでこういった話もすんなり受け入れられる。
こういう話を聞いても驚かない。
それよりも『やっぱりそうか』という思いがあった。
その人曰く、僕は仏師だった時もあるそうだ。
仏師という慣れない言葉を聞いて物資と勘違いして、物資を荷馬車で運ぶ人を思い浮かべたがピンと来なかったが、よくよく聞いてみてると仏像などを彫る人だったのだそうな。
それならば心の遠い奥にそういうイメージが湧くことはたまにある。ピンと来る。
それからキリスト教徒だった時もあるそうだ。
僕の宗教観とは、キリスト教も仏教もイスラム教も聖教も根底では全て一つ、というものだからこれもありえるだろうな、と思った。
「人間以外の物はないんですか?ミジンコだったとか、ガラパゴスの大亀だったとか、恐竜だったとか、マンモスで生まれてきてはじめ人間ギャートルズに食べられちゃったとか、そういうのはないんですか?」
と尋ねたが、笑って相手にしてくれなかった。
とまあ面白い出会いもあるものである。

もう何年も前になるが、その時の人はこれ以上無いというぐらい嫌味なババアで、僕の言う事全てにケチをつけた。
たまたま一緒のツアーになった人が「もうあの婆さんとは一緒に行動したくない」と言い出すぐらいの意地悪婆さんだった。
僕はツアーの時にも気が向けばマオリの唄などを歌う事がある。
その時もマオリの唄を一曲歌ったが、その婆さんはこう言った。
「日本の人でもボサノバを歌う人がいるけど、どんなにがんばっても土着の人のようには歌えない。そんなのがんばるだけ無駄だわ。悲しくなるわね」
僕は手を握り締め、怒りに耐えた。
何故、僕が怒ったのか。
それはその婆さんの言う事が真実だからである。
僕はマオリではない。
日本人の僕がどんなにがんばろうと、マオリのようには唄えない。
婆さんの言うとおりだ。
真実を突きつけられると人は傷つく。
だけど、だけど、だけど、一言言わせてもらえるならば・・・。
「お前には言われたくねえぞ、クソババア」
そのツアーでは嬉しい出会いもあったが、その婆さんに振り回されエネルギーを奪われ僕はぐったりした。
エネルギーが下がったまま次のツアーが始まり、そこでまた新たな出会いがあった。
今から考えると、あの時にあの婆さんに出会う事に意味があったのだろう。
一度、落ちる必要があったのだ。
その後の色々な流れを見ると、あの時の出会いは納得がいく。
その婆さんは今でも好きになれないが感謝をしている。
嫌いな人にもありがたやありがたやなのだ。

それからというもの、嫌な感じの出会いはほとんどなくなった。
人は自分を映す鏡なので、自分の目の前に現れる人を見れば自分の状態が分かる。
こうなると面白い物で、エネルギーを奪うような人は僕を避ける。
避けるというより自然に遠ざかっていくのだ。
同じ店にいながらタイミング良くというのか、会わない時は会わない。
それよりも嬉しい出会い、楽しい出会いは次々にやってくる。
それも信じられないようなタイミングでやって来る。
どんなに忙しかろうが、会うべく人達がNZに来るという時だけ、まるでジグソーパズルがぴったりはまるようにポッカリと時間が取れる。
直前でスケジュールが変わった時なども、『ああ、この人に会うために仕事が急に変わったんだな』と思うことは数多い。
もちろん前々から決まっていた仕事で、『やっぱりこういう出会いだったのか』と思うことも多い。
出会う人も様々である。
普通の勤め人から大会社の会長さんまで。
一流のスキーヤーや映画スター、はたまた貧乏旅行をしている若者。
先日は噂に聞く薩摩隼人にも出会った。
自転車で世界一周をしている人との出会いもあった。今そいつはアフリカにいる。
何年も前から仕事で顔を合わせている人とも繋がりができて、家に来てくれるようになった。
一度だけ出合った人が、僕の話を聞いてルートバーンを歩きたくなり再びNZにやってきた、というものもあった。嬉しい限りである。
出合うのは人だけではない。
我が家の犬のココとも運命的な出会いがあった。
この前会った人は「自分はシリウスから来たとずーっと思っていたが実は違う星から来ていることが分かった」と言っていた。
まあ僕の周りは自称宇宙人の友達は何人もいるので、こういう話も別に驚かない。
庭の鶏達とも出会いだし、野菜たちとも出会いだ。
様々な人々がいて、様々な出会いがある。
一度だけの出会いもあるし、仲良くなって家に遊びに来る出会いもある。
みんな違ってみんな良し、なのだが根底にあるのは一期一会だ。
今まであった全ての出会いに感謝。
そしてこれからやってくる出会いにも感謝。
最後はやっぱり、ありがたやありがたや、なのである。

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オノさん

2011-12-25 | 
ご馳走の翌日、山小屋と僕はオノさんの所へ向かった。
オノさんは近所に住む整体師で、数年前に運命的な出会いをして以来のつきあいである。
1年に1回か2回、シーズンが始まる前に僕はオノさんにボキボキとやってもらう。
昔スキーパトロールをやっていた時に腰を痛めてしまい、時々腰が痛くなるのだがオノさんにやってもらってからは大分腰の具合も良くなった。
今は体のメンテナンスの意味も含め、オノさんの所へ僕は行く。
オノさんは言う。
「悪くなってから治すのは大変だけど、良い状態で来てくれればちょっとやるだけで良い状態をキープできるからね」
人間は体の調子が悪くなって、初めて健康のありがたさに気づき人に診てもらう。
医者も悪い所だけを診て、それ以外の所は見ない。
だがこれからの世界ではあらかじめ悪くならないよう自分の体と向き合う予防医療というものが必要となるだろう。
そういう意味ではオノさんは一歩進んだ医者と呼べるのではないか。

山小屋は11月の初めから1ヶ月半かけて自転車で南島1週、いったい何千キロになるのか知らないが走ってきた。
体の疲れもピークに達していることだろう。
さらに日本へ帰ってすぐにスキーの仕事が1週間ほどぶっ続けで入っていると言う。
それならば疲れをほぐすのと体のメンテナンスの意味も含めやってもらうタイミングだろう。
僕も新しい仕事が決まったと思ったら、あっという間に忙しくなり夏のシーズンに突入した。
お互いに体が資本の商売である。
というわけで山小屋が帰国の日、オノさんにお願いをして予約を入れてもらった。

朝指定された時間に、僕と山小屋と深雪の3人はオノさんの家へ向かった。
去年までは近くでクリニックを開いていたが、今は自宅でやっている。
オノさんの家へ行くのは初めてだ。
大きな木がある素敵な家だ。その家の一部屋が今クリニックになっている。
「さて、どっちからやるかね?」
「オレはどっちでもいいよ」
「オレも、じゃあじゃんけんで決めよう」
その結果、山小屋からやることになった。
僕はその間、話しをしながら山小屋がううとかああとか呻きながらマッサージをされるのを見ているのだが、その時になって後悔した。
先にやってもらえばよかった。
何回もオノさんにやってもらっているので、手順も分かるしどれが痛いのかも分かる。
その痛いのはこうやってやってるのか、そして次は自分か、などと考えると気が重くなる。
痛さは恐怖である。そして恐怖は待っている間に増していく。
「あ~あ、先にやってもらえばよかったなあ」
「そうそう、バンジージャンプなんかもね先に飛ぶのがいいんだよ。」
山小屋がボキボキやってもらい、次はいよいよ自分の番である。
痛いのが来るぞ、という恐怖はマックスに達していて心の準備も万端である。
そこにオノさんが追い討ちをかける。
「さて今日はもう二人こなして、小野英志朗、ただいま絶好調です。」
「いや、あの、オノさん、そこまで気合入れなくていいです」
「ダメダメ、今日は思いっきりやるからね。さあいくぞ」
背中をグリグリと押され、ボクは歯を食いしばって耐えるのだがすぐに悲鳴をあげる。
「いたたたたたた、痛い痛い」
「そうか痛いか、痛いだろうな、ここ」
「あいたたたたた、そこそこ、そこ痛い」
そして力を抜く。
「はああああ。あの、オノさん、今日はなんか力が入ってないスか?」
「そうか?いやね今日はなんか調子いいんだよね」
そして首の辺りをグリグリ。
「あいたたたたた」
「これは後のお楽しみだな」
「ええええ?そんなあ。」
この人は絶対楽しんでやってる。
その証拠に痛いつぼがあると嬉しそうに言うのだ。
「あ、見いつけた。ここだ。ここ。これは痛いよね」
そしてグリグリ。
この人は絶対Sだ。そして痛いのを承知で喜んで来る僕たちはMなのだろう。
「いたたたた。あのお、オノさん。山小屋の時より押してる時間が長いような気がするんですが・・・」
「そうかあ?最近年を取ると数を数えるのが遅くなってな。若い時はいち、に、さんだったのが、い~ち、に~い、さ~ん、てな」
「あいたたたた、分かったから早く数えてください」
そして観客へのサービスも忘れない。
「ほら深雪ちゃん、パパがやられているところを写真に取ってあげな。こうやってここを押すと足が持ち上がるから」
「いたたたた」
悔しいがオノさんの言うとおりになってしまう。娘が携帯のカメラでパシャパシャと撮っているが、ボクは何もできない。
このころになると、顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃ。体は力が入らなくてぐにゃぐにゃである。
そしてなすがままにボキボキとやられ痛いのは終了。
あとはマッサージチェアでリラックス。
終わったあとのおしっこが気持ちよい。
体の中の老廃物が洗い流される気がする。

この日の仕事はこれでおしまいということで、ビールをふるまってくれた。
庭にはブラックカラント、黒すぐりがたわわになっている。
「それ持っていきなよ。どうせ鳥に食われちゃうんだから。目にいいんだよ」
山小屋とビールを飲みながら黒すぐりを採る。
これでジュースでも作ろうかな。
その後で一緒に近くのパブでお昼を食べる。
シーフードチャウダーが絶品である。
オノさんのマッサージは痛い。痛いが必ずその後に良くなる痛さである。
病気などの先が見えない不安になる痛さではない。
だが全ての人がこれを受けに来るかと言うとそうではないと思う。
やはり痛いのは嫌だという人はいるだろう。
そういう人は別のところへ行けばいいのだ。
道はいくつもあり、こうでなければいけないということはない。
それでもこの痛さを承知で来る人は、自分の体を自分で治そうという強い意思がある。
このブログを読んでオノさんのところへ行った人も何人かいるそうだ。
そのお礼でサービスなのか、オノさんはボクの時にはゆっくりと数を数えながらやってくれる。
喜んでいいのかどうか複雑な心境だ。
山小屋はその晩にすっきりした顔で日本へ帰っていった。
ヤツには雪山が待っている。
ボクも体が軽くなり再び仕事に戻った。
そしてやっぱり今回も締めの言葉はこれだ。

行けば分かるよ。
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さらば たっちゃん 2

2011-09-12 | 
2004年、僕達一家はハグレーパークから歩いて5分、アディントンというあまりガラの良くない、だが古くからこの街の一部である一角に住んでいた。
家は古かったけれどこじんまりとして住み心地は良く、まあまあ気に入っていた。
その昔、刑務所があった地域は今では開発が進み、新しいオフィスビルや店舗が立ち並ぶ。
刑務所として使っていた建物も今ではバックパッカーとして営業をしている。建物を囲んでいた高い壁もところどころ残っている。
裏道へ入ると今でも古い家が立ち並ぶ、街の中のランクで言えば中の下ぐらいの地域である。

2004年の冬に、たっちゃん(本名は辰明というらしいが)が生まれたのだが、この話の直後、たっちゃんが消されそうになっていた。
ボクはあわててカメラを取りに家に走り、たっちゃんの所へもどった。
タトゥー屋のオーナーと話を交わす。
「この絵は20年前のオレさ。オレも年をとったから描き変えようと思ってな」
実はあなたはたっちゃんで本名は辰明で岐阜の美濃の出身でワーホリでNZに来てタトゥー屋になったんですよ、などと言えるわけがない。
消してしまう前に記念にと写真を撮らせてもらった。
ちなみにこれと同じタッチの絵は街のあちこちにあり、それは若い溶接工だったり、白衣を着た薬剤師だったり、花屋のおばさんだったりと様々だ。
たぶんお店の人の絵を看板代わりに描いてしまうという人が昔いたんだろう。




数日後、この壁に新生たっちゃんがあらわれた。
黒い服を着た40男がタトゥーガンを持ち「ぐふふふ」と笑い、そこに稲妻が落ちているという、前回以上に悪趣味、前回以上にガラの悪いたっちゃんがいた。
「あーあ、たっちゃんもこんな風になっちゃって、まあ。」
センスが悪く、悪趣味なのは今に始まったことではないが、もう少し何とかならないのかねえ、と思うぐらいの絵である。
ちなみに新生たっちゃんの絵は、前回とはタッチが全く違う今風の絵である。
ホームページの連続コラムの中のたっちゃんはと言うと、六話で中座したまま何年も経ってしまい、多分辰明がNZにワーホリでNZに来る、ということはもうないのかもしれない。
だがボクの中ではタトゥー屋の壁の人はたっちゃんなのであり、そこを通る度に心の中で挨拶をしていた。
そんな悪趣味たっちゃんも時が経つにつれ、この街の風景の一部としてそれなりに馴染み、常にそこに居続けた。

去年の9月、クライストチャーチを襲った地震でたっちゃんはダメージを受けたのだろう。
補強の板が張られ、たっちゃんの姿は隠されてしまった。
そして2月の地震でたっちゃんは致命的なダメージを受ける。
建物自体、取り壊しの運命となるのだ。



そしてつい最近、ガレキの山だったたっちゃんの跡地がきれいさっぱり片付けられていた。
メインストリートに面した角地は場所が良い。
すぐに新しい建物ができて、昔の面影はなくなることだろう。
だがボクは忘れない。
そこにたっちゃんが居たことを。
人間だろうが建物だろうが、形あるものはいつかはなくなる。
なくなるからこそ、いとおしいのだ。
なくなってみて、初めて人はその存在の意味を知る。
さればこそ、今そこにある物、今そこに居る人を敬い親しみ愛しむ。
一期一会とはそういうことだ。
今回、この話を書くにあたって二代目たっちゃんの写真を探したがどうしてもでてこない。
写真を撮った覚えもあり、女房とパソコンの中を探しまくったが見つからなかった。
二代目たっちゃんの趣味の悪さをみんなに見せられないのだけが心残りである。
さらばたっちゃん。
君はボクの心の中で生きる。



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さらば たっちゃん 1

2011-09-11 | 
TATOO屋たっちゃん

序章

この冬になって、社長(?)のヒッジは引っ越しをした。
ハグレーパークにほど近いその場所を説明するには、
建物ごと真っ赤にペイントされたタトゥーショップが便利だった。
煉瓦造りの壁。2階建分ぐらいの高さを無造作に塗りたくってある。
目印になるぐらいだから、目立つわけであって、目立つ、ということは、つまり
・・・
見苦しい。こう言っては失礼かもしれないが、悪趣味だ。
おまけにでかでかと人間の絵が描かれている。
若い男の絵だ。
坊主頭に白いTシャツ。ジーンズにトライアンフのバックルが付いたベルトをしている。
大きく広げた両手には無数の入れ墨がしてあり、右手にはタトゥーガンが握られている。
車に乗っていて、始めて見たとしたら、正直ドキリとしてしまいそうだ。
でも、オイラは別段そうは思わなかった。
なぜか?
そう、オイラは奴を知っているのだ。
いや、これから知っていくことになるのだ・・・

このバックカントリートラバースに携わる人間は持ち物に名前を与え、
たとえその寿命がつきようとも愛し続ける、といった性癖がある。
たとえば、スキー板に、車に、自転車、ギター・・・
JCは昔、「シンディ」という名前を与えられたボードをもっていたが、
NZに渡る際に飛行機でエッジをやられてしまい、保険会社送りになってしまった。
が、その後なんとか手中に取り戻し、現在も大切に保管されている。
ヒッジなどは、スキーをスキーと思わぬ扱いをしているが、
彼は、別の意味で自分の所有物をあいしているのだ。
WAXもかけない、エッジは研ぐどころか、剥離し、
ところどころ亀裂がはいり、アウト側は飛び出ている物もある。
ソールはヘタクソなリペアで波打っているが、
雪が降れば嬉々としてそれを持ち出し、シュートに身を投じてゆく。
そして、滑るたびにスキーに語りかける。
(いままで、いろいろな所にいったな・・・)
そして、
(次はどこにいこうか・・・?)
と。
チューンナップ業を日本で営むオイラとしては嘆かわしい限りだが、
奴の考え方は分からなくもない。

ああ、話しを元にもどそう。

こんなメンツが集まって、引っ越し祝いにビールを空ければ、
自然と話題も盛り上がってくるものだ。
会社設立時に購入したハイエースに名前を付けよう、と息巻いたが、
結局、ボンベイ・サファイアのオーガニックレモン割に脳をやられてしまい、
その夜はお流れになってしまった。
翌日、すこしアルコールが残る頭を抱えながら外にでると、
「奴」と目があった。そして、だれからともなく、
「ねぇ、あいつの名前は?」
誰が口にしたかは覚えていないのだが、きっと全員、同じことを思ったのだろう。
しかし、昨日の夜はあれだけ頭を回転させてもハイエースの名前は出てこなかったのに、
今回は・きた。きっと名前が付くタイミングだったんだと思う。
「・・・たっちゃん。」
暫くの失笑の後、
「えー・・・なに?奴は日本人?なの???」
タトゥー屋だからたっちゃん、という、ものすごおおい安直な理由で口走ってしまったが、
意外にも話はそこで終わらなかった。
オイラはみんなに向かって、勢い、話しはじめたんだ。
「そうなんだよ、あいつは日本人なんだ。岐阜の美濃の出身でさ、云々」
話し始めると、まるで、もう一つの自分を生きているようになってきた。
昭和から平成へ、バブル経済、少雪、恋愛、旅。
街角に描かれたサインはいつの間にか人格を持ち、輝きを放ち始めた。






Backcountry Traverse ホームページ コラム Tatoo屋たっちゃん 序章 by RYU
http://www.backcountrytraverse.co.nz/tatoo.htm


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フォークス日記 後書き

2011-07-15 | 
西海岸へ行ってから数ヶ月が経ってしまった。
この時は一気に書き上げるつもりだったのだが、この後にクライストチャーチの地震、そして日本の地震が起こり、ボクの身の回りにも大きな変化があった。
あの時歩いた大きなクレバス、ブルーミストはどうなったのだろうか。
氷に押されてつぶれてしまったかもしれないし、氷が開いて底なしのクレバスになったのかもしれない。
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
物事は常に移ろいで行く。
なくなるからこそ愛おしいのだ。なくなった物事を嘆くのはちょっと違うと思う。
それに対しあの時、あの瞬間に感じた感動は永遠の物であり、今もボクの心の中に在り続ける。

以前ルートバーンを一緒に歩いた人が言っていた。
「自分は都会の団地に住んでいて、その環境はこの森とはかけ離れている。だけどたとえ日本の都会にいようと目を閉じて意識を飛ばせばいつでもこのルートバーンの森に帰って来られる。」
その言葉が忘れられない。
ボクも今はクライストチャーチだが、いつでも西海岸の氷河、土ボタルのいるトンネル、そしてリムの森へ飛ぶことはできる。
それは自分の経験という財産がそうさせるのだ。
そしてその経験は、その地に住む友によってより大きなものになる。
自然との繋がりと同じくらい人との繋がりは大切だ。
ボクは良い友を持ったことに感謝をする。
今さらだが、タイ、キミ、マー君、すばらしい夏休みをありがとう。
いつでもクライストチャーチの我が家に来てくれ。
次はボクが君達にもてなしをする番だ。
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忘れ物

2011-01-26 | 
結論から書くと、忘れ物が出てきた。
ただそれだけの話である。

1月頭、ボクはある仕事をして、お客さんに食事をおごってもらった。
お客さんは楽しんで森を歩き、ボクも納得のいく仕事ができた。クィーンズタウンの明の店で美味い料理をたらふく食い、美味い酒を飲み、タクシーで家に帰った。
それから数日、忙しい日が続き、ハイキングの仕事の時にサンハットを探したが見つからない。そのうちにどこからか出てくるだろうと予備の帽子で仕事をしながら数日。
その合間に部屋をくまなく探したが見つからない。
車に置き忘れたかな?車を探したが見つからない。
たぶん明の店で飲んだときに忘れてきたんだろう。帽子を最後に見たのはあの店でだ。

明は20年来の友達で、若い時には僕の家にいりびたり、浴びるほど酒を飲んだ。今ではクィーンズタウンで一番流行っている中華レストランを経営する。
中国人だが中国語と英語と日本語を使いこなす。ボクの数少ない中国人の友達である。
20年前、ヤツが日本に来たとき、ぼくらは東京駅で会う約束をして、僕が2時間も遅刻した。携帯もなく連絡も取れない時代である。ヤツは遅刻したぼくを全く責めることなく、再開を暖めあい東京のどこかで酒を飲んだ。
その後ヤツはニュージーランドでレストランを開き、以来ボクはずいぶんヤツに世話になった。
最近では一緒に飲む回数もめっきり減ったが、心の奥でのつながりを感じる。シーズンに何回かはヤツの店で酒を飲む、そんな間柄だ。

ある日、時間が出来たのでヤツの店に寄り、忘れ物を聞いてみたが無いとの事だった。
あと考えられるのはタクシーの中かな?でもタクシーの中で帽子を出した覚えはないけどなぁ。
そして又忙しさにかまけ数日経った。
タクシー会社はどこだったかな?そうだ明に聞けばいいんだ。あの時はヤツがタクシーを呼んでくれたんだっけ。
電話をすれば早いのだが、こういう時に限って電話帳が見つからない。やっと見つけても電話がつながらない。
又今度にしよう。そして数日。その間、ぼくは予備の帽子で仕事をする。
これでも問題は無いのだが、使い慣れた道具がないのはちょっとさびしい。
この帽子は以前、あるメーカーのカタログ撮影の仕事をしたときに、仲良くなった人からそのメーカーの帽子をもらったのだ。
以来、気に入って使い続けている。
無いなら無いであきらめよう。だけど最後にタクシーの会社に聞いてみてからだな。

数日後、街に行く用事が出来たので、ついでに明の店に立ち寄りタクシーの会社を聞いた。
その直後、目の前にその会社のタクシーが止まった。これはタイミングだろう。
ボクは迷わずそのタクシーに行き聞いてみた。
「前にタクシーに乗って忘れ物をしたかもしれないんですが、届いてないですか?グレーのサンハットです」
「ちょっと待ちな、聞いてあげるから」
「ありがとう。1月の○日です」
「○日?だいぶ経ってるな」
ドライバーが怪訝そうな顔をした。確かに忙しさに身を任せていたら、すでに10日以上経っていた。
ドライバーが無線でオフィスを呼び出し尋ねたところ、忘れ物は無いとのこと。
ボクはドライバーに礼を言い家に帰った。
気に入っていた帽子だが無いんじゃしょうがないな、あきらめよう。

その直後、ボクは帽子を見つけてしまった。
どこにあったかと言うと、その日に着ていたジャケットのポケットに入っていたのだ。
こうやって自分のバカさをネタにするのだが、その日その服を着ていたことをすっかり忘れ、さんざん部屋の中とかザックの中を探していたのだ。
そう、全部自分が忘れていただけなのだが、あきらめたとたんに見つけるこのタイミング?
ボクはその時、錬金術師の話を思い出した。
あらすじはこうである。
遠い昔、ある男が宝の埋まっている場所の地図を手に入れた。
そこははるか遠い場所で、長い旅をしなくてはいけない。
危険もあることだろう。旅の途中で死んでしまうかもしれない。
家族や今持っている物全てを捨てて旅立たなくてはならない。
男は考えに考え抜いたあげく、全てを捨てて旅に出た。
長い旅の末、地図に示された場所にたどり着き、そこを掘ってみると一枚の地図が出てきた。
それは本当の宝が隠されている場所の地図だった。
その場所とは・・・
自分が全てを捨てた、以前住んでいた場所だったのだ。

何故この話を思い出したのか分からない。
しかし何か人生を示唆している気がするのも確かである。
物事に執着しているうちは何も始まらない。
執着を解き放ったときに本当の宝は見つかるのだろう。
たかだか忘れ物の話だが、偶然で片付けてしまうには大きすぎるタイミングである。
これにはどんな意味があるのだろうか。
お気に入りの帽子をかぶって、今日もボクは森を歩く。

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北村家二軍

2010-11-21 | 
北村家一軍という人たちがいる。
誰が言い始めたか忘れたが、たぶんJCが言い出したのだと思う。
我が家に自由に出入りする人達のことで、なんてことはない皆僕の友達だ。
そんな彼らのことを僕は愛をこめて北村家一軍と呼ぶ。
ガレージには『一軍置き去りバッグ』というものがあり、ボードやスキーの道具、服などが入っており一軍は好きなように使う事が出来る。
使わなくなった板を置いていくヤツもいれば、山小屋のように自分の板を次回自分が滑る時に備えて人に持ってこさせるヤツもいる。
一軍は我が家に来れば、飲み放題食い放題泊まり放題の待遇である。
一軍は年齢性別どこに住んでいるかを問わず、「この世で何が一番大切か」ということを理解している人達でもある。そこを掴んでいれば誰でも一軍になれる。
そして一軍はスキー、ボードで言えばプロ級の腕前を持つ。
スキー、ボード業界の重鎮、伝説のライダーなんてのもいる。ある娘は昔オリンピック候補になったなんて話も聞いた。若手ではプロも生まれた。
言っておくがプロになるような上手い人が一軍になるのではない。
たまたま運動神経が達者な人が集まったのだ。
スキーの腕前はそこそこだが山登りの達人もいる。
自転車でいくつもの峠を越えながら旅をする人もいる。
カズヤのようにスキーはとんでもなく上手いが、北村家では永遠のドレイというような人もいる。
皆、本質を掴んでいてなおかつ自立し前向きに生きている、自然の中で楽しさを共有できる、かけがえのない友である。
職業はアウトドア関係の人がほとんどである。アウトドアのガイドが圧倒的に多いがその他、会社員、自営業、主婦、旅人などなど、職種は問わない。
ちゃんと数えたことはないが30人ぐらいはいるのだろうか。

そんな北村家一軍に去年、めでたくというか、ついにというか、やっとというか、とにかく二軍ができた。
あれは去年リオがクィーンズタウンに来た時のことだった。
リオは自転車で世界一周をしている男でクィーンズタウンの家に一週間ほど転がり込んだ。
http://ameblo.jp/gwh175r/
湖を見ながら僕とリオとエーちゃんの3人でビールを飲んでいた。
「リオ、お前はたいしたことをやってるな。次回は是非オレがいるときにクライストチャーチの家に来てくれ」
「ええ、それはぜひ」
「そうだな、お前も立派な一軍だな」
そして僕は一軍の説明をした。リオは恐縮して言った。
「そんな、だいそれた。だって僕はスキーとかボードとか上手くないですよ。」
「そんなことは関係ない。一軍とは何が大切か分かっていて、前に向かって進んでいて、ある能力に長けた人だ。お前は『自転車で旅をする』能力に長けているだろ?」
「はい、まあそうですねぇ」
「それで充分。ジャンルは関係ない。よって君は一軍」
「ハ、ハァ、ありがとうございます」
こうやって一軍は増えていく。
実際リオの運動のセンスは素晴らしく、1回フリスビーゴルフをやったが危うく負けるところだった。
ふとエーちゃんと目が合った。
「エーちゃんはなあ・・・、そうだなあ・・・。そうだ、今決めた。」
僕はあらたまって言った。
「エージ君、君を北村家二軍筆頭に任命しよう」
「ハイ、ありがたき幸せ」
これだけだと何がなんだか分からないだろうから説明しよう。
エーちゃんとの出会いは2年前だった。
フラットメイトのおっさんを通して彼と出会い、2シーズンフラットメイトとして過ごした。
クライストチャーチの我が家にも遊びに来て、女房も娘もエーちゃんという人柄を認めている。
彼の素晴らしい点はいつもニコニコしていることである。
そして他の一軍と同じく、何が大切か分かっていて前向きに進んでいることだ。
フラットは坂の上にあり、普通の人なら毎日歩いて通うのもおっくうになるのだが、エーちゃんは晴れた日も雨の日も歩いて通う。ボクにはとても真似できない。
車の運転が苦手ということもあるが、歩く辛さよりも一人で歩く間に色々考える事ができるという長所に意識を向けられる。ポジティブな人だ。
彼の徹底的な欠点はどんくさいということだ。
痛さを身をもって知る男と呼んでもよい。
クライミングでは落ちて骨を折る。マウンテンバイクをやれば大転倒してこれまた骨を折る。
数々の武勇伝を聞いたが「よく死ななかったね」というものはいくつもでてくる。
それでいて常に新しい事に挑戦しようというこの根性。
高所恐怖症のくせにバンジージャンプをやりに行き、一緒に行った女の子は飛べたがエーちゃんは飛べなかったというのも実にエーちゃんらしくてよろしい。
彼のすごいところはそれらの話がすべてネタになるくらい面白く、酒を飲んでいていいつまみになる。ずいぶんと痛いネタだ。
先々シーズンだったか、エーちゃんがオッサンとクライストチャーチにやってきた。
ボクはそのとき仕事が重なって行けなかったので、道具を貸してあげて二人はブロークンリバーに滑りに行った。
オッサンは初めてでもなんなくロープトーに乗ったが、われらがエーちゃんは悪戦苦闘の末プーリー(滑車)に激突。肋骨を折った。
彼の名誉のために書くが厳密にはその時には折っていない。彼の言葉を借りよう。
「なんかですね、それからずーっと痛くて大きく息をすると特に痛むんですよ。仕事に戻って職場の人で元看護婦の人がいるんですけど彼女いわく『それって肋骨にヒビがはいっている。どうにもできないからおとなしくしているしかない。』そうなんですね。それでしばらくして仕事中、くしゃみをしたくなって、『ファー、ファー、ブワックション。ボキッ、アイタタタタ、マジマジ、イテテテ』とまあそんなかんじで折れちゃいました」だそうな。
ちなみに彼はスキーヤーである。
ボーダーならまだ分かる。
スノーボードでロープトーに乗るのはすごく大変だからだ。
だが、だが、スキーヤーでこのどんくささ。
クラブのメンバーなら子供でも乗れるロープトーで・・・。
古今東西、前代未聞。筋金入りのネタ製造マシーン。
それがエーちゃんである。

彼が長けている能力。それは販売である。
以前、横浜の大手パソコンショップの店長だったという彼が言う。
「販売とは道だと思うんですよ」
ヤクザに監禁されながらパソコンを直した話や、店長の苦労話などを聞いていると彼の芯の強さが見えてくる。
今も彼はクィーンズタウンのお土産屋で販売という道を追求している。
フリスビーゴルフでは連戦連敗、アウトドアではネタ満載のエーちゃんだが、販売の事に関しては『これだけはゆずれない』というものを持っている。
実際そういう話をするときのエーちゃんはキリっとひきしまる。
だけどだけどだけど、ロープトーであばら骨折・・・・・・。
普通の人にはできないだろう。
逆の見方をすればこれはエーちゃんにしかできない快挙である。
よって二軍。
ただし断っておくが、一軍がえらくて二軍はダメというのではない。
山や自然を愛する心に上級者も初心者もない。
自然の中での感覚を共有できる事に意味がある。
エーちゃんと何回か一緒に山に行ったが、ニュージーランドの自然にやっつけられる感覚を彼は持っている。
まあ、エーちゃんは別の意味でもやっつけられちゃうのだが・・・。

「いまのところ二軍はエーちゃんだけだからね。二軍筆頭ということでこれからもがんばって面白いネタを作ってください」
「ハイ、痛くない程度にがんばります」
そしてエーちゃんはニコニコと笑うのであった。
さてさてこの先、エーちゃんを越える人材は現れるのだろうか。
あるとしたら、それはそれでまた楽しみである。
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