あおしろみどりくろ

楽園ニュージーランドで見た空の青、雪の白、森の緑、闇の黒の話である。

マジックハンド 再び

2010-09-03 | 
忙しい8月が終わった。
その間、体をこき使って働いたので腰が痛くなった。疲れも溜まっていたのだろう。
スキーブーツを履くのも一苦労である。
以前スキーパトロールをやっていた時に腰を痛めてしまい、疲れが溜まった時にはそれがぶり返すが、今回は普段痛いのと逆側だった。骨ではなく筋を痛めたというような感じである。
こんな時はマジックハンドのオノさんの出番だ。
ちょうどこの頃、オノさんから『近いうちに飲みたいですねえ』というメッセージが入っていた。
忙しい中、スケジュールを調整してもらい予約が取れた。
オノさんの所へ行く時は、ボクはお茶や水をガブガブ飲んでいく。
マッサージの後のおしっこが気持ち良いのだ。
体の老廃物が全部流れ出るような、そんなおしっこができる。
この日もお茶をガブ飲みして、いざ行かん。
家から車で10分位の所にクリニックはある。
ドアをノックすると、いつもと変わらぬ笑顔でオノさんは出迎えてくれた。

近況報告や世間話をしながら、ボクは施術用の服に着替える。
「ヒジリさん、この前紹介してくれたおばちゃん、喜んでくれたみたいだね」
先日ブロークンリバーのクラブメンバーのマリリンを紹介したのだ。
彼女は膝が悪くてフィジオに行ったのだが良くならなくてオノさんの所に来た。
「ああ、彼女ねえ、『整体をやってもらってから、寝返りがうてるようになった』って言って大喜びでしたよ」
「そういう話を聞くとうれしいねえ」
施術用の台にうつぶせになり、先ずは温める。
「オノさん、今回は普段と逆の方がいたくなりましてねえ」
「どれどれ、あ、ホントだ。いつもは右だもんね」
そしてギュッと押す。その瞬間ポキッと音がして何かが入った。
「ホラ、もう入っちゃった。ここがずれていたんだね」
そして上半身のマッサージへ。
相変わらず痛い。
「あのう、オノさん、いつもより痛いような気がするんですけど・・・」
「うん、腰のゆがみが肩の方へもきているからね。このラインだ」
左の腰から右の肩へのラインをなぞる。
「だからここなんか痛いでしょ」
ギュッ
「いてててて~」
「さらにここ」
ギュッ
「あいたたたた~」
「ほら角度を変えると痛みも違うでしょ?」
グリグリ
「違う、違う、いててて、オノさん、分かったから。参った、参った」
絞め技をかけられているプロレスラーのようだ。
力を抜く。
「はあああ~」
そして恐ろしい事を言う。
「こりゃ、腰の方が楽しみだ」

オノさんの施術は全身マッサージである。
腰が痛いからと言って腰だけを見ない。
そこから繋がっている筋などを全て見る。
腰痛から来ている肩のこりなどももみほぐしてくれる。
これもとても痛い。
「ハイ、リンパ腺押さえるよ~、痛いよ」
ギュウ
「いたたたた」
「1,2,3 ハイこれで良し。こうやって短い間で悪い物が全部流れるんだから。このあとのおしっこが気持ちいいぞ」
そしてお楽しみの腰へ。
グリグリと揉む。
「うわ~、いてててて」
「あ~あ、ここにあるね。これだ。」
ゴリゴリ
「あたたたた」
やられている自分もそれだと分かるしこりだ。情け容赦なくオノさんは揉む。
「今日はキッチリ治すからね。逃がさないよ」
逃げたくても逃げれないでしょ、と心で思っても口にだす余裕はない。
口から出る言葉は「痛ててて」とか「あひぃ」とか「ううぅ」とかそんなのばっかだ。
オノさんは右に左に移動をしながらやる。
1回目にあれだけ痛かった腰のしこりも、場所を移しながら2回目、3回目となるとウソのように消えてしまう。
やはりマジックハンドだ。

ほっとするのも束の間、再び痛いツボをオノさんは押す。
「あいたたた、つる、つる、足がつりそう」
「そう、ここはねえ、足がつるツボなんだよ」
ギュッ、そして力を抜く。
「はあああああ~」
それにしてもオノさんは楽しそうに施術をする。
ボクが痛がるのを喜んでやってる。
絶対にSだ。
それに対してこっちは痛いのを求めてくるのだからMなんだろう。
オノさんは施術の間、喋りっぱなしである。その話がなかなか面白い。
「うん、こうやって笑いをとるでしょ。人間は笑うと力が抜けるのよ。その時にこう」
ギュウ
「あはは、いたたたた」
アメとムチ、天国から地獄である。
「一度ね、ずーっと黙ってやったことがあるんだけど、怖かったみたいねえ。」
そりゃこれだけ痛いことを黙々とやれば怖いでしょうに、そんな減らず口も今は出ない。
今日はよっぽど疲れが溜まっていたのか、それともオノさん流のサービスなのか、いつもより痛いような気がする。
サービスだとしたら、喜んで良いのかどうか複雑な心境だ。
もうこのころになると顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃ。体は力が入らなくてぐにゃぐにゃ。
そんな状態で場所を移し整体。
ボキボキ、グキグキ、と訳分からないうちにやられ、その後電気をかける。
これもなかなか気持ち良い。
その後はマッサージ椅子で終了。

服を着替えてトイレへ直行。このおしっこがまた気持ちがよい。
溜まっていた悪い物が全部流れるような感じで、腹の方から肩まで軽くなる。これだからやめられない。
今日はその後でビールだ。
オノさんもその後の予定はないので二人でカンパイ。
個人的な話も聞いてもらい、ボクは心身ともに癒された。
人間誰しも痛いことは好きではない。何故なら痛みとは人間が持つネガティブな感情だからだ。
だが体の調子を良くするために、痛いのを承知で人はオノさんの所へやってくる。
マイナス無しのプラスはありえない。一時の痛みは大きな喜びを生む。
そんなボクは、甘くない、とても硬派なマジックハンドが病みつきになりつつある。
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いただきます

2010-08-24 | 
親友というか、兄弟というか、分身というか。
山小屋という男がいる。
この男のガイド日誌、実に良いことを書く。
以下、勝手に引用。

まだまだ暑い日のつづく美瑛ですが、それでも確実に秋に近づきつつあります。
気温は30℃を目前に頭打ち。朝晩はすっかり涼しくなりました。
夏の収穫が終盤をむかえて、暑さが残るものの畑の風景もどこか秋らしくなっています。秋空の雲が浮かび、夕焼けはあかね色に染まります。 
まちがいなく秋がすぐそこまで来ていますね。
これから北海道はおいしいものが次々と登場してきます。
十勝岳山麓では天然のマツタケが採れ始めたようですし、まもなく秋鮭も店頭に並ぶでしょう。品薄が心配されているサンマだって、あとひと月もすれば店頭に溢れだすに決まってます。
オーイエ!

食べるといえば、みなさんは「食べ物」に感謝をしていますか?
ちゃんと「いただきます」って言ってますか?
最近、こんな記事を目にしました。
食堂でいただきますと言うのはおかしい。なぜかというと、店のひとが客に感謝をするべきで、客が感謝するのはおかしい。
うちの子には給食のとき「いただきます」と言わせないでほしいという母親。理由は、「給食費を払っているのだから」

ふぅ・・・。

いただきますという言葉。作ってくれたひとをねぎらうという意味も多少はあるんですけど、それ以前に、食べ物への感謝だと思います。
たとえば魚。私のために死んでくれてありがとう。残さず食べて死を無駄にしません。
たとえば米。収穫されてくれてありがとう。おかげで1日の命をつなぐことができます。
食べるということは植物なり動物なりの誰かが死に、その代償に私たちの命をつなぐということじゃないでしょうか。そこに感謝があると思います。 

さいきんは登山も、1日でも予定日を過ぎたら遭難事件として大騒ぎになりますから誰もが何がなんでも下山しようとするので「食糧が尽きた!」という経験をする方はあまりいらっしゃらないかもしれません。
でも、食糧が尽きたら、それこそ恐怖。
かなり心細い。

僕の経験を書きます。
一昨年の秋、僕はひとりでオーストラリア大陸を自転車で横断しました。
僕が漕ぐ自転車が、オーストラリア南岸のナラボー平原に突入してからは、食糧の補充がとても困難になりました。ナラボー平原、何しろ1000km以上にわたって町がない、ほとんど人が住んでいないのですから。
そのかわり、野生のカンガルーがやたら飛び跳ねています。ウサギもすごい。野生のラクダまでいます。それから何億匹のハエ。
ハエは何匹か食べた(口に飛び込んでくる)けど、栄養にはならないです。(苦)
1日1日と手持ちの食糧がどんどんなくなっていきます。往来する旅行者に水を供給する公共の水タンクが1日おきにあったので水の補給はできましたが、食糧の補充には困りました。
ひたすらまっすぐの道と、土漠が続きます。
自転車に積めるのは1週間分だけ。それを20回分に分けて少しずつ食べることになります。新鮮な肉や野菜はなく、サプリメントや粉末ジュースで代用しました。
それから、とっておきの場合にサーモン缶。それから日本のラーメン「出前一丁」。
米は、一握りしか残っておらず、最後までとっておくことにしました。(後日役立ちました)
ガソリンスタンドを見つけたら、嬉しくて嬉しくて。
ガソリンスタンドには必ずテイクアウトがあるんです。せいぜい5~6品ですが、それで十分!
必ず「ハンバーガー」または「ステーキサンドイッチ」を頼みました。
涙がでるくらい嬉しかった。胃袋も喜ぶし、手持ちの食糧も1日分、ストックが残されますから。
1回1回の食事がとても貴重でした。
自然と、「いただきます」の言葉が口から出ました。

さて、秋の北海道。
おいしいものが巷に溢れますね。楽しみー!
心をこめて言いたいと思います。いや、叫びたい。
「いただきます!」






いただきますとは、『命を頂きます』なんだよな。
南半球の我が家でも、庭の野菜、手作り納豆のご飯を『いただきます』
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我武者羅應援團

2010-08-12 | 
こうなればいいな、と思うことを実現する力を人は持っている。
それは時として予期せぬ形で現れる。
この世に偶然はなく全て必然なのだ。
人が偶然と一言で片づけてしまうような出来事を、ボクは自分が良い状態でいるバロメーターとして見ている。

彼らの存在を知ったのはフジイさんの書き込みからだった。
『我武者羅應援團、NZに上陸します』
はあ?何のこっちゃ?
どうやら、誰でも何でも応援をしてしまう人達らしい。
今回はオールブラックスを応援するためにNZに来るとのこと。
最初の感想は良いものではなかった。
人を応援をすると言っても、自分達で何かを生み出している訳ではないでしょ。
パフォーマンスとしてやっている、新しいお笑い芸人のようなもの。
そんなイメージがわいた。
数分後、彼らのウェブサイトを見てそのイメージは偏見だった事に気が付いた。
http://www.gamushara-oendan.net/

「ずいぶんと面白そうなことをやってるなあ」
ボクは思わずつぶやいた。
ボクの信念でもある、『バカな事ほど一生懸命やらなくてはいけない』という事を彼らはやっている。
30にもなって学ラン着てオールバックで応援団なんて、普通の人から見たらバカな事だろう。
「あんた、そんな事やってないでマジメに就職しなさい」
そんな事を言う人もいるはずだ。
ボクだって若い時に、何回もその言葉を言われた。
だがボクは彼らの自分の信念を貫き通すその姿勢に感動した。
もしもボクが若くて、何もやっていなかったら団員募集に参加しているだろう。そんな勢いである。
『ガムシャラに』、『一生懸命』などは、現代人が失ってしまっている大切な言葉だろう。
「あ~あ、この人達に会ってみたいなあ、生の応援を聞いてみたいなあ」
女房もボクもその時居候していたサダオもすっかり我武者羅應援團の虜となってしまったのだ。
「この人達、結構有名なんじゃない?」
「そうでしょ、これだけのことやっているんだからね」
「うちに来て応援してもらう?」
「応援のプロなんでしょ。お金かかるんじゃないの?」
「う~ん、うちはお金ないからなあ。自家製納豆食い放題はどうかな?」
「だけど会ってみたいよねえ。生で見たいな」
そんな話をしながら酒を飲んでいると、タイムリーな話が。
深雪が通っている日本語の補習校へ彼らがやってくるというメール通信が来た。
ボクは仕事が入っているので行けない。サダオも仕事の都合で前々日にワナカへ行かなくてはならない。女房は大喜びである。



何日か忙しい日が続き、我武者羅應援團の事も忘れてしまったある日。
当初、泊まりの予定だったのが、仕事が早く終わったので家に帰ることになった。
その日は、友達とベトナム料理を食べに行く事になったので、深雪と一緒にバスに乗って町へ出た。
バスから降りて町を歩いていると、学ランを着た男が二人歩いてきた。
ボクはピンときた。
この人達か。
迷わず声をかけた。
「あのう、応援団の人達ですよね。ウェブサイト見ました。」
最初は軽く声をかけるだけのつもりが、それならあなたを応援しましょう、ということになって深雪ともども応援されることに。
こういう時はどういう態度をとればいいんだろう。
相手は真剣にやるのだから、こちらも真剣に受けとめよう。
ボクは気を付けの姿勢で心をこめて彼らのエールを聞いた。
応援は二人だけで始まったのだが、エールを聞きつけて他の団員も「フレッフレッ」と言いながらバラバラ集まってきて、あっという間にボクと深雪は学ラン集団に囲まれてしまった。
その後、世間話へ。
「ボクはここで山歩きとかスキーのガイドをやっている者です」
「それならネルソンのフジイさんはご存じでしょうか」
「よく知ってますよ。いやいや、ここで繋がるか。世間は狭いですねえ」
ボクがこの地に住むガイドとして言ってあげられることは何だろう?
「あのう、ニュージーランドは良いところですから、皆さんもたっぷり楽しんでいらしてください」
「それはもう。すっかり堪能していますよ」
「それは良かった」
ボクが一番聞きたい答はこれだ。
名刺をもらい、写真も撮ってもらった。
終始、丁寧な態度でなかなかの好青年の集まりである。
こういう彼らをボクが応援したい。

最近、ボクはよく人の『気』を感じるようになった。
良い気を持った人は生き生きしている。何と言っても良い目をしている。
彼らからはとても良い『気』を感じた。
自分を落とすことなく、一生懸命ガムシャラに相手を持ち上げる。
応援という形で彼らのエネルギーが人に伝わる。
それが彼らの愛ではなかろうか。
だからオールブラックスも勝った。
もし仕事が早く終わらなかったら、友達と晩ご飯をを食べに行かなかったら、町にバスで出なかったら、別の道を通っていたら、彼らとの出会いはなかったかもしれない。
イヤ、それより、彼らを追い求めていたら出会いはなかっただろう。
彼らに会いたいという気持ちを持ちつつも、それを忘れ自分がやるべきことをやっている時に、出会いは向こうからやってくる。
本気と書いてマジと読む。
道化師と書いてピエロと読む。
我武者羅應援團と書いてがむしゃらおうえんだんと読む。
自分は我武者羅應援團が好きであります、押忍。
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スコットランドの風

2010-08-01 | 
娘の小学校で全校集会があった。
一つのクラスがホストとなり何人かで司会進行を勤める。
深雪がその中で最初に喋る、というのでノコノコとそれを見に行った。
平日の昼下がりということもあって、見に来ている父兄は6人ぐらい。
その中で目をひいたのは杖をついた爺さんを囲む一家族。
6歳ぐらいの女の子が緑色のスコットランドの民族衣装を着ている。
孫の晴れ舞台なのだろう。見ていて微笑ましい。
深雪のスピーチから集会は始まった。
緊張しているのが手に取るように分かる。
あっというまに深雪の出番は終わりホッとした顔をしている。
声は小さかったがまずまずの出来だろう。

集会は進み、さきほどの女の子の出番となった。
ホールにバグパイプの音楽が流れる。ボクはこの楽器の音が好きだ。
音楽に合わせ女の子が踊る。
緑をベースにした民族衣装は所々に赤が混ざる。おそろいの帽子がこれまた可愛い。
緑色のスカートが、女の子が廻るたびにヒラリと開く。チラリと見える白いパンツはご愛敬だ。
女の子が1人で背筋をピンと伸ばし堂々と踊る。立派なものだ。とても深雪にはできないだろう。
ボクのすぐ前にいる爺さんの肩が震えだした。
やばい、爺さん、泣くなよ。つられて泣いちゃうじゃないか。
ボクの思いも空しく爺さんは涙を拭き始めた。
同時にボクの目からも涙があふれる。
爺さんの横にいる30ぐらいの女の人は、爺さんの娘で女の子の母親なのだろう。彼女も涙をぬぐいながら爺さんの肩に手をのせた。
反対側にいる娘婿は動画で子供のダンスを撮るのに夢中だ。
ボクは流れる涙をふきながら、女の子のダンスを、それを見守る爺さんの背中を見ていた。
爺さんは孫のダンスに遠い故郷を思い出したのだろう。
ニュージーランドにはスコットランドからの移民も多い。
爺さんがスコットランドで生まれたのか、ニュージーランドで生まれたのか知らないが、孫のダンスに祖先からの血を感じたのだろう。
その想いはすぐ後ろに居たボクにも伝わった。挨拶を交わしただけの見ず知らずの爺さんと心が繋がった。
爺さんよ、アンタは幸せ者だよ。
時空を超えてスコットランドの風が、地球の裏側にある小さな小学校のホールを吹き抜けた。
グローバルというのはこういう事をいうのではないか。
ダンスが終わり、ボクは女の子に大きな拍手を贈った。
いい物を見させてもらった。
その日は一日、バグパイプの音色が頭にこだました。
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最後の年賀状 後書き

2010-06-11 | 


初めて重い話を書いた。全て実話である。
泣いた人も多いのではなかろうか。
涙を流すという事は悪いことではない。
いや、むしろ良いことである。
涙は浄化のプロセスなのでじゃんじゃん流した方が良い。
映画やドラマなどを見てたくさん泣いてすっきりする、というのはそういう作用があるからなのだ。
ボクはルートバーンを初めて歩いた時、あまりの美しさに感動して涙をボロボロ流しながら歩いた。
さすがにお客さんと歩くときは泣かないが、ウルっとくる時は多々ある。
悲しい涙だって流した方が良い。
吉田拓郎だって歌っている。
♪悲しい涙を流している人は、きれいな物でしょう。

コメント不要と書いていても、書き込みたいヤツは書き込む。
個人的にメッセージを送ってくれる人もいる。
そっと放っといてくれる人もいる。
皆、ボクのかけがえのない友だ。
「ひっぢ、あれは反則だよ。あれは誰でも泣くぜ」
友の声が聞こえてくるようだ。
それに対してボクは言うだろう。
「オレはその数十倍泣いたんだから良いだろ?」
実際にボクはよく泣いた。
現場で泣いた。思い出して泣いた。書きながら泣いた。読み返しながら泣いた。じっと考えながら泣いた。
だが涙を流す度にボクの心は軽くなっていった。
ついでに体も軽くなってくれたらいくらでも泣くのに・・・。

さあさあ、泣く時間は終わりだ。
前へ向かって進め。前進あるのみ。
まだまだ続くぜ、オレの快進撃。
読み手によっては毒にも薬にもなるこの話。
次々出てくる言葉の弾丸、受けてみろ。

気力充実、天下無敵、自由闊達、有言実行、絶好調。

自然農法、有機栽培、地産地消、食物豊富、感謝感激。

公明正大、無償労働、廃物利用、地域医療、安全社会。

海洋自由、国境廃止、民族自決、世界平和、地球政府。

自己責任、危機管理、粉雪中毒、快楽滑走、存在価値。

精神社会、意識改革、輪廻転生、極楽浄土、大往生。

快食快便、早寝早起、健康一番、家内円満、親馬鹿。

未確認飛行物体、宇宙人到来、銀河鉄道、出発進行。


ネタはまだまだつきない。
さらにボクを取り巻く友はネタの宝庫だ。
友を見て、自分が良い状況に居るのを知る。
嗚呼、ありがたや、ありがたや。



最後に一句。

時過ぎて 娘に映る 母の影




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最後の年賀状

2010-06-06 | 
手元に一枚の年賀状がある。
二枚の白黒写真を葉書サイズにプリントした物だ。
大きないのししの像の両脇に父と母が立ち、精悍な顔つきの父の前には当時6歳の兄がジャイアンツの帽子をかぶって立っている。
保育所の帽子をかぶり、いかにも腕白ボウズといった3歳のボクが母の横に立つ。
母は少し前かがみでボクの手を両手で包んでいる。当時の母は30代半ばぐらいだろう。なかなかの美人である。
もう一枚は全く同じ場所の24年後。めっきり老けた父と母、兄、義姉、二人の孫。
母は初孫でもあった長女を抱いている。こちらの写真にはぼくは写っていない。
写真の周りに父の手書きの言葉が並んでいる。
 
『おめでとうございます 1995年元旦
 24年前と同じ場所に立ちました 伊豆いのしし村です
 次男聖は南米のどこかに・・・・・・
 老木の 朽ちるのを待たず 若木伸び
 いまのところ まあまあの毎日です』

ボクはこの時、当時付き合っていたニュージーランド人の彼女と、南米一周半年間の旅に出ていたのだ。
実家では毎年、父が年賀状作っていた。
今でこそ年賀状に写真を入れるのは珍しくなくなったが、以前は年賀状は郵便局で買ってきて一枚一枚手で書くものだった。
そんな中でも家の年賀状は、家族と干支の動物をなんらかの形で入れ写真に撮り、家の暗室で現像した手作り年賀状だった。
この年賀状は当時としてはとても珍しく、なかなか好評だった。
羊年には大きな紙の上にボクがヘタクソな羊の絵を書き、その前で家族で写真を撮った。
猪年には伊豆いのしし村へ家族で出かけた。
そして1995年の年賀状が、父親が作った最後の年賀状となった。

1995年11月、ボクは1年半ぶりに日本へ帰ってきた。
半年間ニュージーランドのスキー場で働き、半年間南米を旅し、さらにまた半年ニュージーランドで働いたあとの帰国だった。
久しぶりの帰国とあって、父と母が成田まで出迎えに来てくれた。
長旅の疲れからボクは口数も少なく、久しぶりの再会に喜ぶ母の質問に、「うん」とか「ああ」とか短い言葉で答えていた。
家に着き、母は僕が好きな物を作ってくれて一緒に夕食を取った。
何を食べたのかは覚えていない。
近くに住む兄はその日に都合が悪く、僕の帰国祝いは明日にしようということだった。
夕食後、荷物を広げた。
ザックの中には南米で買ってきた家族へのお土産が入っていたが、明日兄が来たときに渡せばいいと思い、その日の夜は近所の友達の家に遊びに行った。

次の日は快晴だった。
自分の部屋の窓を開けると、白い雪をのせた富士山が青空をバックによく見えた。
美しい山だ。
ボクは無性に山に行きたくなった。
1人で山に行こうと思いついたボクに母が言った。
「天気もいいし私も行こうかしら。お父さんもどう?」
父は最初は迷っていたが、母に押され3人で山に行くことになった。
行き先は真富士という山で、ボクは高校の遠足で登ったことがある。
母がいそいそと弁当を作り、父の運転する車で家を出た。

途中、両親がやっている食堂へ寄った。
父母はその前年、ボクが留守にしている間に食堂を始めたのだ。
その店は大きな交差点の角にあり車で通ればすぐに見えるのだが、交通量の多い交差点なので車を停められない。
ちょっとだけ停まって駐車場の場所を聞くこともできない。
私鉄の駅のすぐ側だが、歩行者は地下通路を通るのでふらっと入ってくる人もいない。
店は高台で富士山もくっきり見え、土地は最高なのだが商売には最悪、という場所で二人で細々とやっていた。
来るのは知り合いだけで、とてもこれで食ってはいけないようだ。
それでも母は何かしらやっているのが嬉しい、といったようで店のことをあれやこれやと話してくれた。
11月の空は見事に澄み渡り、店の前から富士山がきれいに見えた。絶好のハイキング日和だ。

車を一時間ほど走らせ、登山道入り口へ着いた。
僕は若さに任せ山道をガシガシと登る。父は膝が痛いようで遅れ気味だ。
母が感心したように言った。
「あんたは健脚だねえ」
数時間かけて山頂に登り、母が作ってくれたおにぎりを食べた。梅干しも自家製である。
空はどこまでも青く澄み渡り、富士山が遠くに見える。
平日とあって人は全くいない。山頂での景色を独占だ。
帰り道、あと麓まで1時間弱ぐらいの所だろうか、母が言った。
「今日はお兄ちゃん達が来るから、すき焼きでもしましょうか」
兄は数年前に結婚して、自宅から車で20分位の所に家族で住んでいた。
昨日はあいにく都合が悪く、今日僕の南米でのおみやげ話を聞きながら一緒にご飯を食べようということになっていた。
そしてその言葉が、母が残した最後の言葉となった。

先頭に父、次いで母、そのすぐ後ろを僕が歩いていた。
突然、母がバランスを崩した。
僕は母が足をのせた場所がザックリと崩れるのを見た。
直後、母の体は右手の斜面を落ち、数m下の杉の木に激突した。
まるでスローモーションのように、だが僕は何もできずに母が落ちるのを見た。
そのまま母の体は斜面を滑り落ちていき、数十m下で止まった。
父があわてて言った。
「おい!頭をぶつけたようだぞ」
「うん!オレは下へ行って見てくるから、父さんは助けを呼んできて」
「分かった、頼むぞ」
父はそう言い残すと足早に山を下っていった。
母が落ちた斜面は40度ぐらいあっただろうか。僕は無我夢中で斜面を駆け下りた。
どうか助かってくれ、それだけを考えながら母の元に着いた。
母は血まみれになりながら止まっていた。体を揺するとかすかにうめき声のようなものを発した。
良かった、助かった、生きてる。僕は体中の力が抜けてヘナヘナとその場にしゃがみこんだ。
登山道まで上げようにも母の体はぐったりと重く、とてもかついで斜面を上がれる状態ではない。
なぜこんなことになってしまったのだろうか。
母が足をのせた登山道の肩が崩れる様子や、ゴムまりのように落ちて木にぶつかる姿が、フラッシュバックのように頭に浮かぶ。
何かがおかしい。
ふと気が付いた。
静かすぎる。
母を見ると息をしていない。
なぜだ?ついさっき、うめき声を出したじゃないか。
体を揺すってみたが反応はない。
ぼくはあわてて覚えたばかりの心肺蘇生法(人工呼吸と心臓マッサージ)を始めようとした。
日本に帰る1ヶ月前に僕はニュージーランドで講習を受けていたのだった。
人工呼吸をしようとしたが、斜面は不安定で母もろとも落ちそうになる。
呼吸が止まってどれくらいになるのだろう。早くしなくては。
なんとか母のぐったりした体を木の根本にひっかけ安定させた。母の鼻をつまみ息を吹き込む。だが息は入っていかない。
何が悪いのだ。落ち着いて思い出せ、僕は自分に言い聞かせた。
そうだ気道確保だ。一番最初にやることを忘れていた。
講習では平な床の上で練習をしたが、40度の斜面ではわけが違う。少し体を動かすのだって一苦労だ。
それでも教わった通りに気道を開き息を吹き込む。
母の胸がふくらみ空気が入ったことが確認できた。2回くりかえす。その後心臓マッサージを15回。
だが心臓を押すと、母の耳から血が流れだしてきた。僕は怖くなって手を止めてしまった。
こんな時はどうすればいいんだ?講習ではおしえてくれなかったぞ。
何分、いや何秒そうやっていただろうか。
あまりの静けさに耐えきれず僕は再び人工呼吸と心臓マッサージを始めた。
その度に母の耳と鼻から血が流れ出す。
本当にこれをやって良いのか?だが何もしなければ確実に母は死ぬ。
その現実から目を背けるように僕は作業を続けた。
どの位の時間が経ったのだろう。
僕は疲れて動けなくなり、放心状態で母の横に座った。
無理だと知りながら神に祈った。
「神様、もしいるのならば母を助けて下さい」
そして大声で泣いた。
僕の鳴き声は人気のない山にこだました。
山の夕暮れは早い。
子供の頃から秋の夕暮れ時がきらいだった。
とてもきれいなのだが、秋の夕日を見ていると泣きたいほどに悲しくなった。なぜかは分からない。
その後にやってくる秋の夜長がきらいなわけではない。
夜になってしまえば夕暮れ時の悲しさは忘れてしまうのだが、理由もなく夕暮れ時がきらいだった。
そんな美しい秋の夕暮れ時に、僕の腕の中で母は息を引き取った。

ふっと気が付くと、登山道の方から父が呼ぶ声が聞こえた。
「おい!大丈夫か?」
僕は泣きながらさけんだ。
「母さんが息をしないんだよ!」
しばらくの沈黙のあと、父が大声で言った。
「そこにはお前しかいないんだから、お前がしっかりしろ」
ぼくは泣きながら父の言葉を聞いた。
やがて山が闇に包まれる頃、救助隊が着いた。彼らの声が僕の所に届いた。
「お~い、大丈夫ですか」
ぼくは駄目だと知りながら聞いた。
「心臓マッサージをすると耳と鼻から血がでるんです。どうすればいいんですか?」
誰もその問いに答えてくれなかった。
救助隊は僕のいる場所に降りてきて、てきぱきと母を担架に乗せ、登山道へ戻った。
僕も後を追い、父と合流した。
「父さん、母さんが、母さんが・・・」
僕の言葉は涙でかき消された。
「分かったから、お前がしっかりしろ」
父もどうしていいのか分からなかったに違いない。
その後、僕らは救助隊の後ろをトボトボと歩いて下山した。
麓には知らせを聞いて駆けつけた兄一家、親戚のおばさん、従姉妹達、ヤジウマなどがいた。
救急車の赤いランプが夜の山で明るく光っていた。
兄が僕の所に来て泣きそうな声で言った。
「なんでこんなことになったんだよ!」
なんでこんなことになったんだろう。僕にも分からない。
本当なら今頃はすき焼きを囲んで、僕の南米の土産話で盛り上がっているころだ。
久しぶりの家族の対面がこんな形になってしまうなんて。
僕は黙って首を横に振ることぐらいしかできなかった。

母の遺体は一度病院に運ばれ、その後、家に着いたのは深夜になっていた。
僕は何年ぶりかに兄と一緒の部屋で寝た。
次の日、起きて居間に行った。母は泥と血にまみれた昨日の服ではなく、きれいな服を着て布団に横たわっていた。
昨晩、僕らが寝た後で父が着替えさせたと言う。父はどんな気持ちで母を着替えさせたのだろう。
父がうめくように言った。
「オレが死ねばよかったのに・・・」
僕はいたたまれなくなり、自分の部屋に戻った。
涙を拭き、荷物から南米で買ってきた膝掛けを出した。
派手な色使いの多い南米の織物の中でも、黒を基調としたシックな感じの膝掛けである。
ペルーのマーケットで時間をかけながら、母に似合う色を選んだことを思い出した。
僕はその膝掛けを母の体にかけた。
僕の土産を目にすることなく母は死んだ。

午後、自分の寝床でうつらうつらしていると、玄関で人の話し声が聞こえた。
隣りのおばさんと母が話している。そうか、昨日の事は夢だったんだな。そうだ悪い夢を見たんだ。
起きあがり頭がはっきりしてくると、昨日の事が次々に思い出された。
つい今しがた聞こえた母の話し声はもう聞こえない。
あれは夢ではない。現実だったんだ。僕はそれに気づき再び泣いた。
翌日の新聞の地方版に小さく記事が出た。
『ハイキング中の女性、足を滑らせ転落死』
これだけを読めばまるで母の過失で事故が起こったようにとれる。
だが断言しても母は足を滑らせたわけではない。母が足を乗せた場所がザックリと崩れたのだ。
それを見ていたのは僕だけだ。母に過失はなく、前日の雨で地面が緩んでいたのが原因だと思うが、それを追求したところで母は戻ってこない。
僕は悔しい思いでその記事を読んだ。
知らせを聞いて小学校時代からの友達が何人もたずねてくれた。
口々にお悔やみの言葉を言うが、その言葉は何の助けにもならなかった。
僕はうつろな心で友達の言葉を聞いた。
母の死後、共済の積み立てや保険など、色々なところからわが家にお金が入ってきた。
遺産の整理をしていた父があきれるように言った。
「人が死ぬとお金が入ってくるんだなあ」
だがお金がいくら入ってこようが、死んだ人は戻ってこない。
葬式、救助隊への挨拶、お墓の購入、事故現場へ花を持っていくなど、色々な事がありあわただしく時が流れた。
そして僕は実家から逃げるように、冬の仕事である福島のスキー場へ向かった。

その年は新しい職場ということもあり知った顔も少なく、寮でも1人でパズルをやって時間をつぶしていた。
何かに没頭していれば、悲しい過去を忘れることが出来る、僕はそうやって母の死から逃げていた。
人とのつきあいがわずらわしく、ひきこもりのような状態だった。自分でカラを作りそこから出るのを恐れていた。
人に対してよそよそしい態度をとる傍観者であり、『自分は可哀想な人なんだ』という被害者でもあった。
それでも数ヶ月も経つと仕事にも人にも慣れ、楽しいことが増えていき、母を思い出す時も減っていった。
時間というのは悲しみの痛手を薄めてくれる魔法の薬のようなものだ。
数年経つと母の死は遠い過去となっていき、僕は新しい生活に埋もれていった。だが僕の心の傷は完全に癒されたわけではなかった。
女房と結婚する前の事だったと思う。クライストチャーチ郊外の所を散歩したことがあった。
急な坂道だが、特に危険という所ではない、子供でも歩ける場所だ。
その時に彼女のすぐ後ろを歩いていて、僕は怖くなってしまった。
自分が落ちる事の怖さではない。目の前の彼女が落ちるのではないかという怖さである。
この幸せな時が次の瞬間に崩れてしまうのではないか。愛する人を目の前で失うのではないか。
母の落ちる様子が思い出され、それが目の前の彼女に重なり、どうしようもなく怖くなった。
その時は彼女に訳を話し、僕の後ろを歩いてもらったが、母の死はトラウマ、精神的外傷となって僕の心に残った。
その彼女とも結婚、そして娘の誕生。自分自身も夫から父親へと変わっていった。
さらに数年が経ち娘も成長して、母の死を思い出すことは少なくなっていった。
家族でハイキングに何度も行ったが、結婚前に感じた恐怖を感じることはなかった。
僕が先頭を歩くのがほとんどだったという理由があるが、それさえもトラウマが無意識のうちにそうさせていたのかもしれない。
いずれにせよ、それ以来その手の恐怖は無かった。
代わりに自分が落ちて死ぬかもしれないという恐怖は何度かあったが・・・。

スキーパトロールという仕事を何年か続け、その間に色々な血なまぐさい現場にも遭遇した。
頸動脈の数㎝横をザックリ切り、すんでの所で命を拾った人もいれば、コース外で立木にぶつかってお説教をした人が数日後に病院で亡くなったということもあった。
崖から落ちて血まみれでフラフラしている人を助けたこともあれば、同じ場所で死体を運んだこともあった。
人は死なないときは死なないし、死ぬ時は本当にあっけなく死んでしまう。
そういった経験を経て、山歩きのガイドとなり数年が経った。
ある晩、クィーンズタウンの友達の家のテラスで、美しい夕日に染まる山を見ながら宵の一時を楽しんでいた。
1人でビールを飲みながら、ふと母のことを思い出した。
なぜあの時、母は急に山に行くと言いだしたのだろう。最初は僕1人で行くつもりだったのに。
事故の日のことがくっきり心に浮かんだ。
雨上がりでぬかるんでいる山道。路肩についた足元がザックリえぐれて転げ落ちる瞬間。
僕は自分をその場に置き換えてみた。
自分の体は全く同じように落ちて、すぐ下の木に激突しただろう。
全てがつながった。
母が身代わりになってくれたのだ。
母はぼくのために死んでくれた。
涙があふれて止まらない。
自分自身が人の親になって初めて分かったことがある。
親にとって子供が先に死ぬ事ほどつらいことはないだろう。
そんなことが当たり前に起こる戦争は人類が止めるべきことの最たるものだ。
あの時の母親にとって一番見たくない物。
それはニュージーランドから帰ってきたばかりの息子の死体だ。
今となっては知る由もないが、だから急に山に行くと言い出した。
そして自分の人生をかけて、僕に色々なことを教えるために死んでくれたのだと思う。
涙が止まらない。
母の愛を感じた。
母は死んではいない。肉体はなくなったが、ここに存在している。
そしてその時に思った。
もしもこの先、自分の娘に同じような事があったら自分が死のう。
映画『クリフハンガー』の冒頭で、1本のロープにぶら下がった父が娘と息子を救うため、ナイフでザイルを切って自ら死んだように。
ああやって死んでやろう。そしてその時にはこう言いたい。
「オレはやりたいことは全部やってきたから思い残すことはなにもない。先に死ぬぜ。あばよ」
そして笑いながら死んでいこう。
だが死ぬまでには、やっておかなければならない事もある。

その年のある日、僕は父親に電話をした。
「父さん、元気でやってるか?」
「ああ、ぼちぼちだな。そっちはどうだ?」
「こっちも皆元気だ。深雪は5歳になるよ」
「そうか。早いものだな」
「なあ、もう一度ニュージーランドに来ないか?見せたいものがあるんだよ」
「そうだな、オレももう一度ぐらいは行こうか考えていたんだ」
「じゃあ、是非とも来てくれ。今父さんに死なれたらオレが後悔するから」
「ハハハ、分かった分かった。じゃあ10月ぐらいかな。」
「うん、待ってる・・・。あのさ・・・父さん」
「なんだ?」
「今まで・・・育ててくれて・・・ありがとう」
最後の言葉は涙でかすれた。
この言葉を言うのに生まれて40年近くもかかった。
こんなこと面と向かって言えやしない。
「何を今さら言ってんだ。」
父の声も涙でかすんでいた。
電話を切って思いっきり泣いた。

数ヶ月後、父は1人でニュージーランドにやってきて、娘と父と僕の3人で南島を廻った。
行く先々で僕の友達に会った。
スプリングフィールドでブラウニー、フランツジョセフではタイ、テアナウではトキちゃん、クィーンズタウンではタンケンツアーズのクレイグ、マナポウリでトーマス、ケトリンズではトモコ。
皆、娘も良く知っている顔ぶれだ。
父は僕の友達がそれぞれの場所で、明るく生き生きと生活しているのを見て安心したようだ。
これが目の死んだようなヤツや、まともに挨拶もできないようなヤツ、グチばかりこぼしているヤツを友達だと紹介したら、さぞかし心配するだろうに。
だいたい、その人をとりまく友達を見れば、その人となりが見えてくる。
行く先々でデイウォークやハイキングをしながら旅をした。
アーサーズパスではテンプルベイスンへの道をちょっと登りランチを取った。
西海岸ではフォックス氷河、そしてお気に入りのシップクリーク。
クィーンズタウンではルートバーンのデイハイク。ミルフォードへ行く途中でキーサミット。ケトリンズでも名もないコースを歩いた。
ルートバーンを歩いた時、僕は父に言った。
「これがオレの仕事場さ。この国は車から降りて自分の足で踏み入れてみなければ何も分からない国なんだ。」
「そうだな」
父も母もこの国には何度も来たが、こういう山歩きはしていない。僕は続けた。
「オレが唯一心残りだったのは、母さんにこれを見せられなかった。それだけが後悔だな。『親孝行 したい時には 親は無し』ってホントだな」
「そうだな」
「父さんに今死なれたら、オレが後悔するってのは、こういうことだったんだよ」
「・・・・・・」
「それで、こうやって見せたから、あとはいつ死んでもいいよ。できればポックリ逝ってくれ」
「このバカヤロー。俺だってできればポックリ逝きたいわ。それよりな、お前、俺が死んでも日本に帰ってこなくていいからな。葬式にだって出なくていいぞ」
「おお、それはありがたい、助かるな」
「死んであわてて帰ってくるぐらいなら、生きているうちに会いに来い。」
父の本音であろう。何年も帰っていないのでそれを言われるとツライ。
「うーん、しばらく日本に行く予定は無いしなあ。じゃあもう少し生きてくれ」
「勝手なことを言ってやがらあ」
ニュージーランドに父が来るのは今回で最後かもしれない。
だが娘と一緒にこうやってこの国の隅々まで歩いたことを僕は一生忘れない。この瞬間は永遠のものだ。
5歳の娘がたくましく山道を歩くのを満足げに見守る父がいた。
良い親孝行ができたと思う。
親孝行とは、先ず親より先に死なないことであり、世界のどこにいようと明るく正しく楽しく毎日を生きること。
これが本当の意味での親孝行だ。
森を歩きながら父に言った。
「オレはこういう森が好きでなあ。できることなら、こういう森で住みたいぐらいなんだ」
「お前は自然児なんだな。母さんが死んでお前が山から離れるかと思ったけど、そうはならなかったな」
目の奥から熱いものがこみあげた。

人は死を恐れる。
何故なら死とは、終わりであり、真っ黒で何もない所だからだ。
目に見える物だけを見ていたらそうだろう。
違う。
死とは、始まりであり、まばゆい光の世界であり、全てがある所なのだ。
人間の世界で言う死んだ人にも、そこに行けば会える。
歴史上、有名だった人にも会える。自分の母だって祖先にだって会える。
死とはそんな場所だ。
それには、いかに今を生きるかにかかっているのだと思う。
人間は目に見えるものしか信じない。目に見えないものの方が大切なのに。
なので目に見えるこの命が終わるのを恐れる。
自分が怖いので、もう充分生きた人でも、家族は医者に頼んで延命治療をしてもらう。
医師も人の死を敗北と考える人もいる。
僕の考えではムダな延命治療はやめるべきだ。
もう充分生きたでしょう、という人には死んでもらって、延命治療に費やしているエネルギーを子供の病気の方へ向けるべきだ。
僕は死を恐れない。いや、むしろ待ち遠しいぐらいだ。
だからといって自殺はしない。自殺は逃げであり、スピリチュアルの世界では自殺は殺人よりも罪深い。
自分は生かされている存在であり、この命を粗末に扱うことは許されない。
死の向こうには明るい世界が待っている。
さればこそ先に死んだ人の分まで、生きている今という瞬間を大切にして、明るく正しく楽しく精一杯やっていくのだ。
それが『何故自分はこの世に生まれてきたのだろう』という問いの答えだからである。
 
父がニュージーランドを去り、数年が経った。
娘は八歳になり、初めて日本に行った。
ボクはその時仕事で行けなかったのだが、妻が仕事で日本に行くついでに娘を連れて行った。
初めての日本は楽しかったようだ。
そりゃそうだろう、日替わりでディズニーランド、ディズニーシー、富士サファリパーク、伊豆三津シーパラダイス、果ては東京バレー公団のイベント尽くし。
家族とはいえ、ガイドとドライバー付きで贅沢三昧、何と言っても自分で金の心配をしなくていい。
ウマイ物もたらふく食っただろうに。
これで楽しくないなんて言おうものならぶっとばす、くらいの勢いだ。
ボクの実家にも行き、初めて従姉妹たちとも会った。ここでもウマイものを食べたはずだ。
ボクが行かなくても、娘を見ればボクがどういう生活をしているか父は想像できるだろう。
何と言っても子は親の鏡なんだから。
母の墓参りにも行ったというので、死んだ母も喜んでくれていよう。
ボク自身、石けんを作るのは生前母がやっていたことであり、EMの自然農法生活だって母が生きていれば絶対やっていたことだ。
供養とは死んでしまった人の事を想いながらいつまでもメソメソ泣き暮らすことではない。
自分なりに精一杯、明るく正しく楽しく暮らすことが、先に死んだ人への供養でもあるのだ。

ボクは再び年賀状を手にとってみた。
古ぼけた白黒の少し反り返った年賀状はボクの宝物だ。

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最後の年賀状 前書き

2010-06-06 | 
新しい話を載せる。
1回でのせようとしたが長すぎて載せきれなかったので2回に分けた。
できることなら時間に余裕のある時に一気に読んでほしい。

コメントは不要。
今回の話はとても重いので、心して読んでくれ。
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チャリンコ野郎達 8

2010-05-31 | 
楽しい時はあっという間に過ぎる。
出発の日が来た。
数日間、家の前で休養をしたリオの自転車も荷物を満載、準備万端である。
ちょっと持たしてもらったがとても重い。原付スクーターぐらいの重さはあるだろう。
これをこいで旅をしているのか。すごいな。
車で峠の上まで送ってあげることを考えたがやめた。
これくらいの峠でヒーコラ言うぐらいなら自転車で旅をしないだろうし、車で楽してそこへ行く代わりに大切な何かを見落としてしまうかもしれない。
「じゃあな、ガンバレよ。タイによろしく」
「ハイ!聖さん、本当にありがとうございました。」
リオはそう言うと、ボクを抱きしめた。男同士のハグなぞ普段はあまりやらないが、ヤツの熱い心が伝わってきた。
リオは家の前の上り坂をゆっくりと、しかし確実に登って行った。
ペダルを漕がなければ進まない。
自分で行動を始めなければ、何も始まらない。
ボクはやんちゃな弟を見守るような心境でリオを見送った。



後日、タイのブログにリオの話が出た。
想像通りフォークスのタイの家に転がり込み、カヤックや氷河ハイクを楽しんだようだ。
http://blog.livedoor.jp/coasterlife/archives/51487143.html
http://blog.livedoor.jp/coasterlife/archives/51487197.html
タイも又アウトドアガイド流のもてなしをしたことだろう。
人と人との輪がつながり、そしてその輪は大きく強くなっていく。


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チャリンコ野郎達 7

2010-05-30 | 
クィーンズタウンの夏は午後が長い。
夕方になっても日はさんさんと輝き、湖は抜けるように青い。白い雲がぽっかりと浮かぶ。
僕は次のビールを開けてリオに聞いた。
「そんで、ここから次はどこへ行くの?」
「ハイ、ワナカに抜けて、そのまま西海岸へ行こうと思っています」
「そうか、じゃあ、あのポトカーフの森だなあ。西海岸もいいぞお」
「ハイ『あおしろみどりくろ』をじっくり読みましたから。」
「そうだったな。フランツジョセフではタイに会うかな?」
「タイさんですね。どんな人なんですか?」
「ヤツもオマエさんと話が合うよ。ヤツはねえ若いんだけど、物事の本質を見極めている。人間として対等に話ができる男だな。電話でもしといてあげようか?」
「ええ、お願いします。」
「イヤ、待てよ・・・」
僕はリオの顔を覗き込んで聞いた。
「オマエ、タイに会いたいか?」
ヤツは僕の視線を外さずに答えた。
「会いたいです」
「じゃあ、きっと会えるよ。それなら連絡もしない方がもっと面白いな。直接行ってタイを探してみろよ。小さな街だからきっと見つかるよ」
「それも面白そうですね」
「それでケトリンズでトモコに会って、テアナウでトーマスに会って、クィーンズタウンでオレに会ったと言えばすぐに通じるから」
「分かりました!西海岸も楽しみだなあ」
「きっとまた、この国の自然にやっつけられちゃうぞ」
「やっつけられたいです」
人間との出会いはタイミングである。
会いたくても会うべきタイミングでないと人は会えない。
逆にその時が来れば何もしなくても人は出会う。
タイはかなり明るい光を持っているスーパーポジティブな人間だ。
見る限り、リオにも明るい光が見える。
こういった強い光を持つ人達は引き寄せ合う。これを引き寄せの法則という。
逆にネガティブな人の周りには、そういう人が集まってくる。
よく言うじゃないか、類は友を呼ぶ。
ボク自身、明るい光を持っていると思う。だからボクをとりまく人達は皆、面白く生き生きと輝いている。
他人は自分を写す鏡だ。
ボクとリオがこうやって会うのも、それは起こるべくして起こっているのだ。
人との出会いには人知を超える何かが存在する。僕らはそれを受け入れるのみ。
今回もし彼らが出会わないのならば、それはそういう巡り合わせなのだろう。
それよりもリオがタイに会いたい、と強く望めば連絡なぞしなくてもそれは実現する。
人は夢を実現化する力を持っている。
自分がある物事を『できない』と思ってしまったらそれはできなくなる。
それは自分で可能性を断ち切ってしまっている。
『いつかこうなったらいいな~』と思い続けていれば、それは実現する。
その為には、自分がやることをやり、明るく楽しく正しく生きるのだ。



「それから?ニュージーランドが終わったら次はどこ?」
「インドネシアです」
「インドネシアかあ。アジアだな」
「そうです」
「先は長いのお」
「そうですね」
「オマエね、この先、旅の途中でこうやってもてなしてくれる家があるかもしれない。その時は遠慮なく腹一杯ごちそうになれ。オレも南米チリで知り合いの知り合いという日本人の家に2週間以上も泊めてもらったことがある。そういう家に行ったらオマエがやってきた旅の話をしてあげるんだ。一カ所に住む人にとっては、旅人の体験談は最高の娯楽になるからな。」
「ハイ!」
「それでいつの日か、オマエがどこかの地に落ち着いた時に旅人が来たら、もてなしてあげればいい。人から人へ。エネルギーはそうやって回っているからな」
「ハイ!分かりました。いやあ、やっぱりここへ来て良かったです」
「よかよか。まあビールでも飲みんしゃい。オレの分も持って来てくれ」
「ハイ!」
ヤツはうれしそうに、ビールを取りにキッチンへ走った。
弟とはこういうようなものだろうか。
いつのまにか日は傾いてきた。時計を見ると8時をまわっている。
「もうこんな時間か。腹も減るわけだ。太陽につきあって遊んでいるとどんどん遅くなっちゃうな」
「うわあ、太陽につきあって遊ぶって、良い言い回しですね。ボクも使いたいな」
ヤツは自分でも文を書き、それを雑誌に載せたりもしている。
「おう、どんどん使え。何でも盗んでいいからな」
僕らは夕日を見ながら飯を食った。

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チャリンコ野郎達 6

2010-05-29 | 
家へ戻り湖を見ながらビールで乾杯。
「いやあ、今日は良かったです。ありがとうございました」
「いやいや、楽しかっただろう。密度の濃い時間というのかな、あんなのをな」
「そうですね。濃かったです」
「例えばだな、ダラダラテレビを見ていても半日、あーやって遊ぶのも半日。同じ半日でも明らかに違うよね」
「そうですね。今日は何か、子供の頃に帰ってお兄ちゃんと遊んでいる。『あっちの方にもっと面白い所があるから行ってみようぜ』って冒険しているような、そんな感じでした」
「よかよか」
「ああー、なんかこの国に住むのが分かるなあ」
「そうだろう。どうだ?住みたくなっただろう?」
「なりました」
「だけど今はその時じゃあないよな。オマエには世界一周という大きな目標があるんだから。オマエがやることは、あちこち旅をして自分の目で世界を見ることだ。それで一段落したらここに戻ってくればいい。ここの自然は待ってくれるよ」
「そうですね。いやあ、それにしても今日は良かったあ」
「よかよか」



僕は自転車で旅する人が好きだ。
自分が車を運転している時でも、荷物をたくさん持ったチャリンコ野郎とすれ違う時には手を振ってあげる。ただ単に自転車に乗る人には手を振らない。
以前、自分がされてうれしかった事を今、人にしている。
たとえむこうは手を振り返す余裕がなくてもうれしいものだという。
ぼくはこういう人達を見ると、すぐに家に呼んで「おつかれおつかれ、まあビールでもどうぞ」と言いたくなってしまう。
そしてそのままウマイ物も食わせたくなってしまう。
彼らで受け身の人はいない。
全て自分で調べ、自分で計画を立て、自分で一歩進んでやっている。
ペダルを漕がなくては、自転車は進まない。
時速100キロで車がビュンビュン通る所を行くのだから事故の危険だって当然ある。
数年前には自転車で旅行中の人が車に巻き込まれて死んだ。
走っている車からビールびんを投げられて、それが膝に当たり大ケガをした人もいた。
当然どろぼうだっている。
安全は人が与えてくれるものではなく、自分の責任で守るものだ。
これが本当の意味の自己責任である。
そこには言い訳がない。こういう人達と話をしていると楽だ。
これは自転車に限らず、全てのアウトドアスポーツにも共通するし、見方を広くすれば人生にも繋がることである。
そんな旅人をもてなしたくなる自分が好きでもある。

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