あおしろみどりくろ

楽園ニュージーランドで見た空の青、雪の白、森の緑、闇の黒の話である。

生の男と書いてナーマメーンと読む。

2022-12-11 | 日記


ずいぶん前の事だが、日本語を少し喋るキウィと日本人の奥さんの友達と一緒に飲んだ時の話。
「お前はなんでもライブが好きなんだな。生の男でお前は生マンだ」と命名された。
カタカナで発音を表すのは難しいが、ナーマメーンというような具合である。
たぶん言った本人はもう覚えていないだろうが、なんとなくその言葉のイントネーションが頭の片隅に残っていた。
確かに僕は生が好きである。
ビールも生。
ちなみに日本で言う生ビールというのは、本来の意味から少しずれている。
日本ではサーバーからジョッキに注ぐやつのことを生と呼ぶ人が多い。
本来は熱処理をしていないビールのことである。
なので僕が作るビールは全て生ビールだ。
日本酒も生が旨い。
日本酒の製造過程で火入れという作業をする。
これは酵母菌を殺してそれ以上発酵が進まないようにするのと、火落ち菌という菌を殺す殺菌効果。
この二つの理由で63度まで酒を温めるのだが、同時に旨味の何かをも殺しているような気がする。
実際にこの段階で酵母菌は死ぬのであり、酵母菌自体が旨いのかどうは知らんが、火入れをする以前と以後では味が違う。
味で言えば絶対的に生の方が旨い。
これは自分がやっていたから自信を持って言える。
ただし貯蔵、流通、販売などを考えると生のままというのは技術的にも難しい。
発酵が進んだりして味そのものが変わってしまうからだ。
菊水など缶詰にして特殊なやり方で売っているものもあるが、一般的ではない。

酒と言えば肴であり、肴とは魚である。
魚の生は刺身だが、刺身の旨さは僕があれこれ書く以前の誰もが知っている。
では刺身の一歩手前の段階の魚の旨さを味わったことがあるか?
これは若い頃の思い出だが、90年代前半、まだフラフラとアルバイト生活をしていた時の話だ。
その時は伊豆諸島の三宅島で大規模な火山噴火があり、近隣の島々も被害が出てお隣の神津島に復旧作業の仕事で行った。
真夏のハイシーズンで普段なら賑わう時期だが、火山の影響で観光客は一人もいなく外から来るのは工事関係者だけという状態だった。
ある寿司屋の親父と仲良くなり、毎晩そこの寿司屋で飲んだ。
その寿司屋も火山と地震の影響で商売上がったり、毎晩僕たちだけの貸切で、滞在の期間に他のお客さんと顔を合わせたことは一度もなかった。
昼間に目一杯働いて、その後に素潜りで貝など取り、それを持って寿司屋へ行く。
島に唯一あった信号の前の寿司屋の店先の桟敷で、「今日のラッシュアワーの渋滞は最長で3台」などと車を数え、海に沈む夕日を見ながら自分が取ってきた貝をつまみに生ビールを飲む。
日が暮れてからはカウンターで親父相手に島の魚をつまみに島焼酎を飲む。
今から考えれば、夢のような生活をした時もあった。
ある晩のこと、親父が「子供頃に腹が減って魚をそのままかじった」というような話になり、「じゃあ俺がそれをやる」などという話になった。
酔っ払いのノリってこういうものだな。
さすがにウロコとか頭とかハラワタは食べにくいだろうからと、その場で親父が頭とエラを落としウロコを取りハラワタを抜いて洗ってくれた。
なんの魚か忘れてしまったが、15cmぐらいの青魚だった。
みんなが見守る中で何もつけずにガブリとかじりついた。
まずは新鮮な魚の肉のコリコリ感がすさまじい。
だがやっぱり醤油は欲しいと、醤油をつけてかじった。
味自体は刺身で食べるのと同じなのだが、ワイルド感というのか野性味というのか。
焼き魚や煮魚の骨を外して食べるのはよくあるが、生魚をかじる、食べるのではなく文字通りかじるのは初めてだ。
蛮族というのはこういうものなんだろうと思った。
それはそれで良い経験だったが、二回やろうとは思わない。
そういうものなんだろう。

もうひとつ生魚の思い出だが20年以上前に、当時の相方JCと西海岸でホワイトベイトを取ったことがあった。
ホワイトベイトは白魚のような魚なので、それなら踊り食いなるものをやってみようという話になった。
うろ覚えの話ではピチピチ跳ねる喉越しを楽しむとかなんとか。
やってみたところ、ただ飲み込むだけなので味もへったくれもない。
なので今度は口の中でピチピチ跳ねる白魚を歯で挟み噛んで味わった。
これは確かにコリコリした食感で、新鮮な魚感はあったが味はよく分からないというのが感想だった。
生しらすを食べるように酢醤油で食べればよかったかもしれないな。



生麦生米生卵、の生麦と生米は食べても美味くなさそうだが、生卵は旨い。
うちでニワトリを飼っているのは、卵かけ御飯を食べたいがためである。
新鮮な卵は黄身も白身もしっかりしているので簡単には混ざりにくい。
炊きたてご飯にかければそれだけでご馳走だ。
友人が遊びに来た時に、すき焼きをやったのだが彼は生卵が大好きだと言って、器に3つ卵を溶いてザブザブと食っていた。
すき焼きの時に最初の卵がなくなり、二つ目をお代わりする事はよくある。
だが最初から3つ卵を割って食うという人は初めてであり、こういう食い方もありだなぁ、と妙に感心をした。

生というのは音楽の世界でも使われる。
生演奏、生歌、生ギター、その他もろもろ。
愛用のギターは生の音が気に入って買ったものだ。
ギターをある程度やっていると、ギターによって音色の違いが分かるようになる。
楽器屋で何回も何回も何回も試し弾きをして、音色に惚れて買った。
アンプにも繋げるタイプだが、僕はやはり生の音が好きだ。
それから生のライブ。
ライブというのは独特なもので、演ずる者と聴く者で場の雰囲気を作り上げる。
ライブはライフであり、生とは是即ち生きることである。
行き着くところ、生きている今この瞬間が大切なんだという、いつもの結論にたどり着いた。
最近は作務衣なんぞ着ているものだから、見た目は坊さんに見えなくもない。
自分で生臭坊主と名乗っており、それもやっぱり生なのかと思う今日この頃である。




コメント
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