『べらぼう』7話の紀行では山谷堀についての案内がありました
昔は細長い堀で、それに沿って堤防が築かれていてこれを「日本堤」と言いました。
現在では山谷堀は埋め立てられて公園になっていますが、浅草から吉原に行く時にここを歩くと当時の気分に浸れるかも?
吉原に行くにはこの日本堤を歩くか、山谷堀を猪牙舟に乗って行くことになります、猪牙舟はスピードが早かったみたいですが、お金がある人の移動手段だったみたいですね。
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さて、山谷堀が水路であったということは、所々に橋が架かっていることになります。
今も橋柱を見ることができますが、その中でも注目したいのが「紙洗橋」です。
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当時、浅草紙という物がありました。
これは古紙を回収して熱して溶かして冷やして砕いて漉き直す、いわゆる安価なリサイクルの紙でした。
この浅草紙を作っていた職人がたくさん働いているのが紙洗橋の辺りでしたが、吉原にも近い場所だったのです。
このため、職人たちは紙を溶かしてから冷めるまでの空いた時間に吉原見物に行っていたのです。
見物だけで、客になる訳ではないので、買う気持ちがないのに見に行くだけの行為を「冷やかす」と言うようになりました。
紙洗橋は、「冷やかす」語源の地なのです。