彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

6月9日、井伊直滋亡くなる

2016年06月09日 | 井伊家関連
寛文元年(1661)6月9日、井伊直孝の嫡男の直滋が亡くなりました。
母は側室・五味氏

井伊直孝の後継ぎとして若い頃から二代将軍・秀忠や三代将軍・家光に仕えていました。
早くから将軍家と親しい関係を保っていたためか、実直な強い意見を口にする事が多く、その言葉は家臣だけではなく父・直孝すらも論破するほどだったと言われています。
特に家光には気に入られていたようで、旧加藤忠広江戸屋敷を貰い受けたり(後の井伊家中屋敷)、直滋が藩主になった時には石高の大幅な加増が約束されていたとも伝わっています(家光はお気に入りに対するこう言った約束をよくしていて、柳生家ではこの事による混乱を恐れた柳生宗矩が家光のお気に入りだった息子・友矩を殺害したという伝説も残っています)。

ちなみに、直滋の正室は、いとこに当たる井伊直継の娘です。

直孝が元老として江戸詰めになると、家光から離される様に国許・彦根を任され藩政を行う事となりました。
この藩政時代に、彦根城鐘ノ丸にあった鐘楼の鐘の音が岩肌に響いて割れる事に気が付き、現在、時報鐘が置かれている場所に移転させると鐘の音が城下に綺麗に響くようになったと言う逸話が残っています。
この時報鐘の音色は『日本の音風景百選』に選ばれていますので、直滋はとても繊細な耳を持っていたのかも知れませんね。

そんな繊細な一面を持ちながらも、父を言い負かすような実直な性格が災いしたのかも知れません、いつまでも家督を譲られる事も無く世子のまま中年の域に達してしまいます。
直孝にすれば、将軍となった家光が直滋に対して優遇を行う事によって井伊家に災いが起こるのを避けようとしていたとも考えられます。

やがて直滋の家督相続を切望した家光も亡くなってしまいます。

ある年、正室が亡くなった事が理由で江戸で出家しようとした直滋は家臣に呼び戻されます。
その頃から、直滋に出家の想いが強くなったのかも知れません。
四代将軍・家綱の名代で家光三回忌法会のために日光へ代参したりしますが、万治元年(1658)の年末も押し迫った閏12月20日、近江国領内の百済寺で出家します47歳の時でした。

翌年6月28日、父・直孝死去。
三代藩主となる直澄に託された遺言には、
「もし彦根で事が起こって、直滋が援助に来ても兵を貸し与えるな」
「直滋が援助している扶持について何か言ってきても今の形を変えるな」
と言った直滋に対する厳しいやり方も記されていました。

そんな直孝の死から2年後の寛文元年(1661)6月9日、直滋は50歳の生涯を閉じたのです。

辞世の句は
“いるならく 奈落の底に沈むとも 又もこの世に我がへらめや”

直孝・直滋親子は実はとても似た性格でした。
だからこそ合わないものがあったのかもしれません、そして世は直孝のような武断派大名から文治派大名を求める時代になっていました、家光に愛された人物は武断派の人物が多かった事を考えると、直滋は最初から直孝の求める世継ぎでは無かったとも考えられますね。

私見ですが、直滋の死は直孝の三回忌の直前だったことかんがえると、直滋は自害したのではないかと思っています。
ちなみに、直滋の血統はこの先、彦根藩主に就く事は一度もなかったのです。


そんな直滋の墓は、百済寺の山門からわき道を進むとあります。
途中で害獣除けのネットがあり、これを越えなければなりません。
しばらく進むと、イノシシ用の罠があります

この辺りが晩年に直滋が過ごした屋敷跡だそうです。
もうしばらく進むと石橋を超え

土塁に囲まれた場所が直滋の墓所です

手水鉢もあります

空気が静かな、訪れる人よりも獣のほうが多そうな空間の中で直滋は眠っています。







・所在地 滋賀県東近江市百済町
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井伊直幸

2009年01月02日 | 井伊家関連
2009年の正月に彦根城で飾られた甲冑は井伊直幸の物でした。
直幸のこの甲冑の大きな特徴は、やはり兜にある御幣の前立てです、ぜひご覧ください。
と言うわけでで、今回は直幸のお話をご紹介します。


井伊直幸(なおひで)は、七代藩主・井伊直惟の三男です。

彦根藩では、父の直惟が藩主の座を弟・直定に譲った為にその後の井伊家の当主は直定の子孫に引き継がれる筈でした。
実際、直定の子・直賢が藩主の有力候補になっていたのです。


このため直幸は早くから出家していたのですが、後に書く様々な家督相続の問題から還俗し控屋敷の尾末町御屋敷に住むようになったのです。
この時に直幸は“直英”という字を使っていました。

直定が病弱を理由に直英の兄である直に家督を譲った事で、直英は兄の補佐としての人生を考えたのかも知れません。
しかし、たった60余日で直が亡くなってしまい、藩主の座は再び直定へと戻ったのでした。

このままなら、今度は直英に藩主の話が来るかも知れない・・・

そう考えていた直英の予想に反して、早期隠居を望んでいた直定が後継ぎに指名したのは宇和島藩主・伊達村候の弟・伊織だったのです。
この報せを聞いた直英は怒ったのですが側近に宥められました。

結局、直定の望みは幕府に却下され直英が世継ぎとなったのです。
25歳の時でした。


世継ぎ決定後、すぐに藩主の座を譲られて十代藩主に就任した直英の目標は直定を超える事だったのかも知れません。

宝暦10年(1760)、将軍の名代で天皇に拝謁した事を無上の喜びと考えて名前を“直幸”に変えますが、その読み方は“なおひで”のままにしました。
藩主就任後は新田開発と領民への慈悲を心がけ、その文書でよく使われた言葉は「仁燐(思いやりの気持ち)」だったそうです。


この頃、幕府は田沼意次が台頭する田沼時代でした。
田沼意次は、十代将軍・徳川家治に重用された人物で、その権力は大きかったのですが有力大名を門閥に組み込んでいたのです。
井伊家でも、直継系の与板井伊家当主・直朗の正室は意次の次女でしたし、直朗の娘を直幸の養女に迎え、直幸の息子・直廣は直朗の養子になっていたのです。
また、直幸の正室・伊予も与板から迎えられていました。
つまり、直幸は間接的に田沼意次の門閥に入っていたのです。
そして、直朗は意次の力で西ノ丸若年寄に就任していました。


安永8年(1779)そんな意次が次の将軍として期待していた家治の嫡男・家基が18歳で急死します。

天明4年(1784)3月24日、田沼意次の嫡男・意知(若年寄)が江戸城内で佐野善左衛門に刃傷され2日後に没
意次と意知の二人三脚で進められていた幕政が多忙となり11月に直幸を大老としたのです。

意次は、開国を目指した人物でしたのでその政治のためにも大老の権力を欲したのかも知れませんね。
この為、後世の史家・小説家の殆どは直幸を「江戸期で唯一大老に相応しくない人物」と評価されてます。


田沼時代と言えばその終焉は天明の大飢饉と浅間山の噴火ですね、東北地方では10万人以上が亡くなったとも言われ、フランス革命の遠因にもなったこの災害は国内でも多くの餓死者を出しましたが、彦根藩では一人の餓死者を出す事も無かったのです。
これには直幸の後継ぎだった直富の活躍が大きかったと言われています。

天明6年8月20日、徳川家治が亡くなりますがその死は隠されて田沼意次は失脚します。
2年後には田沼意次死去、同じ月には井伊直富が25歳で急死してしまうのでした。


松平定信が幕政の中心になった寛政元年
2月8日、田沼時代に老中首座であり続けた松平康福が死去
同月20日、直幸が亡くなったのです59歳でした。


定信の後ろには、十一代将軍・家斉の父・一橋治済の姿が見え隠れします。
この時の遺恨が、直幸の孫・直弼が将軍継嗣問題に関わった時に多少の影響を与えたとも考えられますね。
また開国の精神も意次―直幸のラインから直亮や直弼に引き継がれていったとも考えられますね。

ちなみに直幸は、自分が育った尾末町御屋敷を始めとする控屋敷に住む藩主一門の教育制度を強化します。
直弼の教育もこの直幸の制度の賜物でした。
そして、直幸が育った尾末町御屋敷こそが、後の埋木舎なのです。
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彦根藩の支藩:彦根新田藩

2008年09月05日 | 井伊家関連
先日、彦根藩の支藩があったのか?
というご質問をいただく事がありました。

ちょうど別件で調べていて他にも載せた原稿がありましたので、そのままご紹介します。


『彦根新田藩』
彦根新田藩は、彦根藩の歴史の中でで唯一立藩された支藩ですが、その期間は正徳4年(1714)~享保19年(1734)のたった20年間のみで藩主も後に彦根藩八代藩主となる井伊直定の一代限りだったのです。


彦根新田藩ができた理由は、
彦根藩四代藩主の井伊直興には33人の子どもが居たのですが、直興が政治の舞台から身を引く時に生存していた男子は三人しか居なかったことに起因します。
この三人のうち、
・四男の井伊直矩は与板藩主
・十三男の井伊直惟は彦根藩主
になっていたので、十四男の直定のみ藩主になれないのは哀れだとの理由で支藩ができたのでした。

本来なら一万石くらいならば「彦根藩領内のいずれか」という形で限定した知行地を決めない者なのですが、直興は「井伊家の将軍家に対するご恩に報いる為には禄が必要なので、新田が増えた訳ではないが分地をしてほしい」と述べているのです。


しかし、その知行地が定まる事が無く、直定が幕府内で奏者番に就くなどで知行地の事が問題となり幕府が彦根藩に対し質問をして交渉に当ったのですが、結局は知行地は渡さないままに知行分の支給という形がとられたのです。

そこまで様々に揉めた彦根新田藩の知行地問題だったのですが、井伊直惟の発病による直定の世子相続が決定した為に、与板藩主・井伊直員立ち合いの元で彦根新田藩の廃藩と知行地一万石の彦根藩接収が確定し、彦根新田藩は短い歴史に幕を閉じたのです。


たった20年で一代限りの支藩だったのですが、井伊直定が奏者番になっていた事は注目すべき点とも言えます。
この役職は、幕府内での出世コースのスタートとも言えるモノで、ここから順調に出世を重ねると若年寄や老中にもなる事ができるのです。
支藩の藩主で1万石ならば老中の条件は満たしませんが、若年寄まで出世した後に知行地が増えて老中というコースも井伊家なら考えられたのです。

この彦根新田藩がそのまま残っていたら、この後にどんな運命を辿っていたのか?
歴史に「もし・・・」はありませんが、だからこそ妄想してみたい夢が広がる藩だったのです。
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大老就任150年

2008年04月23日 | 井伊家関連
安政5年(1858)4月23日、井伊直弼が大老に就任しました。
そう、ちょうど150年となる日です。


井伊家と大老の話は過去にも書いていますので、今回は『どんつき瓦版』2008年4月号の資料とした大老年表をご紹介します。


安政5年(1858)
4/23 大老就任
6/19 日米修好通商条約締結
6/25 将軍継嗣が紀州慶福に決定し公表される
7/6 十三代将軍・徳川家定死去
8月中 日蘭・日露・日英各修好通商条約調印
8/8 水戸藩に戊午の密勅が下る
9/3 日仏修好通商条約調印
9/7 梅田雲浜逮捕(安政の大獄始まる)
10/23 橋本左内、鯖江・彦根両城焼き討ち計画によって逮捕
10/25 徳川家茂(紀州慶福)、将軍宣下
11/16 西郷吉之助・僧月照入水自殺を図るが西郷のみ蘇生
12/26 吉田松陰、投獄。

安政6年(1859)
6/2 神奈川・長崎・箱館開港
8/27 徳川斉昭・徳川慶篤・一橋慶喜を罰す(安政の大獄)
8/27 戊午の密勅の関係者を死罪(大獄・第一次断罪)
9/14 梅田雲浜病死
10/7 橋本左内・頼三樹三郎ら死罪(大獄・第二次断罪)
10/27 吉田松陰死罪(大獄。第三次断罪)
12/15 直弼、正四位に叙任

安政7年(1860)
正月 狩野永岳に正四位左近衛権中将の画像を描かせる
   『あうみの海』の歌を書いて画像を清凉寺へ奉納
1/19 遣米使節団が咸臨丸に乗って浦賀を出港
2/26 咸臨丸サンフランシスコに入港
3/3 桜田門外の変
3/18 安政から万延に改元。
3/30 直弼、大老罷免。
閏3/21 将軍家茂から直弼に病の見舞いが届く
閏3/28 遣米使節、米大統領ブキャナンに謁見
閏3/29 長野主膳が和宮降嫁を斡旋
閏3/30 彦根藩、直弼の喪を発する
4/10 直弼、豪徳寺に埋葬される。
4/28 井伊直憲、彦根藩主になる


これらの事を念頭に置いて『井伊直弼と開国150年祭』が行われますが、井伊直弼の事業は、幕権強化(将軍継嗣・安政の大獄・公武合体)と開国の二本柱で行われていました。
反直弼派のスローガンが“尊王攘夷”だったのはこの事からだったのです。

ちなみに、この年表でもわかる通り、日本がこの時に開国をして交流を行った国はアメリカ・ロシア・イギリス・オランダ・フランスの五ヶ国で、しかもアメリカはこの後すぐに南北戦争で内戦状態となった為に本当の意味で幕末史に関わったのはフランスとイギリスでした、そして明治維新以降はロシアとの関わりにも重要性があるのです。


余談ですが、各通商条約で開港された港のうちで神戸のみは幕府が大政奉還を行った後の慶応3年(1867)12月7日まで待たなければならないのです。
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高松藩との交流150年

2008年04月21日 | 井伊家関連
昨年もこの日に書きましたが、安政5年(1858)4月21日、井伊直弼の次女・弥千代が高松藩世子の松平聰に嫁ぎました。

そう、今年の4月21日は150年の記念日なのです。

この1年で、弥千代をモデルにした“やちにゃん”が登場し、ますます盛り上がる彦根のネコキャラですね。
弥千代の物語がこう言った形でも多くの方に広がることを嬉しく思います。


さて、この1年間で管理人が新たに知った弥千代夫婦の話ですが・・・

実は桜田門外の変で井伊直弼が殺害された後に、聰の駕籠も水戸浪士によって襲われていたという話が、高松市に残っていました。
これは桜田門近くで商売をしていた讃岐出身の町人の話として伝わっているのですが、彦根藩の行列を襲った後に、そのすぐ後ろを進んでいた高松藩の行列に血刀を剥き出しにした浪人が襲い掛かったのです。
浪人たちは、葵の紋が入った駕籠の戸を気にせずに破り、中に居た男を見て「何だ、萬之助か・・・」と言って去ったそうです。
萬之助は聰の幼名で、水戸藩で育った聰の幼名を口にしたことから「予の幼名を知っているとは、あれは水戸の者たちに違いない」と聰は口にしたそうです。

父・直弼の横死と夫・聰の事件を聞いた弥千代の気持ちを思うと胸が痛くなるエピソードですね。
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井伊直弼の像について

2008年01月27日 | 井伊家関連
井伊直弼が亡くなる年の1月に自ら正四位左近衛中将の正装をして狩野永岳に描かせたという肖像画が彦根に残って居ます。

この肖像画は、描かれた本人の生前に書かれた物としても珍しく、また直弼自身による『あうみの海』の和歌が書かれているのも歴史的価値をあげています。


さて、この肖像画が公家風の正装だった事から、直弼の銅像などが束帯の姿をしていても何も疑問に感じない方が多いですが、実は直弼の像は束帯である事が偶然ではなくて必然として考えて作られているのです。


井伊直弼といえば、無勅許で日米修好通商条約の調印を行い反対派の尊皇攘夷派を安政の大獄で処罰した“朝敵”という歴史的評価がなされてきました。
しかし、彦根藩はどこよりも厚い勤皇の藩であり藩主はその先導に立っていましたので、朝敵の汚名は冤罪とも言えたのです。

明治になって横浜や彦根に直弼の像が作られる時、旧彦根藩士たちはそんな直弼の評価を変えるために敢えて裃ではなく束帯の直弼像が作られたのでした。
束帯の直弼像は旧彦根藩士たちの直弼に対する想いが詰っているんですよ。
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井伊家の食事

2006年06月18日 | 井伊家関連
2005年11月5日に再現して振舞われた『大名の日常食』。

文久3(1863)年10月7日の朝に、彦根藩14代藩主・井伊直憲(直弼の子ども)が食べた物だそうです。
文久3年といえば、新撰組がやっと京で活動をし始めた頃で、彦根藩では前の年に政変が起って、直弼の懐刀だった長野主膳と宇津木六之丞が斬首され、家老で勤皇派の岡本半介の指揮の元で生まれ変わろうとしている時期でした。
桜田門外の変の影響で石高も減らされて、藩としても窮乏していたと考えられます。

そんな時期の藩主の朝食は

今出川豆腐・漉し薩摩芋かけ
汁は白玉と牛蒡の味噌汁
そして、醒ヶ井餅

だったようです(写真参照)

これにご飯とお漬物が付くのが普通の食事でした。
大名といえども、一汁一菜を基本とした質素な物だったんですね。

手元の資料(彦根城博物館発行)によれば、魚や豆腐は毎日食膳に上がり、季節ごとの風習は大切にしていたそうです。
また、各地からの贈答品も食卓を飾ったそうですよ。

ちなみに、白玉と牛蒡の味噌汁は彦根の伝統なんだそうですが、管理人はこの時初めて知りました。
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天守閣の人柱

2006年05月21日 | 井伊家関連
メチャクチャ個人的な話なのですが、管理人はこのたび第42回彦根市民文芸作品 小説部門で特選を受賞しました。
そこで、今回はこの小説のネタにした彦根城の人柱伝説について書いてみます。

彦根城は、西日本から東へ向かう抑えの城としてその築城を急がれていました。
このため、近江国内の城から多くの資材が運び込まれました、それは天守閣も例外ではなかったのです。
天守閣に使われた資材は大津城から運んだ物でした。

大津城は5層の天守でしたが彦根城は3層です、突貫工事を急いだ事もあってか、せっかく作った天守台に天守が据付られず、工事が大幅に遅れる事となりました。

ある日、視察に着た城主・井伊直継に普請奉行が人柱を立てる事を要求します。しかし直継は非人道的な人柱を認めませんでした。
大勢の工事関係者が見守る中、直継と奉行のやり取りは続きますが結局直継がそれを認める事はなかったのです。

その様子を見ていた工事に携わっていた者が帰宅してからその様子を妻に話していると、それを聞いていた娘・菊が「わたくしが人柱になります」と口にしたのです。
両親は説得しますが菊は思いを変えず、仕方がなく直継に申し出たのでした。
直継もその意志を無下にする訳にはいかず、菊を人柱として天守台に埋めることになったのです。
この時、直継は菊の父親に深々と頭を下げました。

当日、白無垢を着た菊は父と共に登城し、白木の箱に入って天守台に向かいました。
天守前の太鼓門櫓では直継が待っていて、ここで父親は立会人を直継に譲り門の外でなく崩れたのです。
父と言う立場からは娘が埋められる場面に立ち会う勇気がなかったのでしょう。

人の想いは不思議なモノでこれ以降の工事は順調に進み、しばらくして天守が無事に据え付けられました。
しかし、菊の両親はそんな天守を見る気にもなれません。

またしばらくして、直継から書状が届きますそこには「妻女と共に控屋敷の客をもてなして欲しい」という物でした。
城に行くよりかは…と思って妻と一緒に控屋敷に向かう途中、そういえば最近、江戸から殿の義姉がやってきたという噂を耳にしたから、その女性の世話なのか?
と思い、控屋敷の座敷に上がると失礼がないようにと平伏して客を待ったのです。
やがて現れた客は女性でした。
その女性は「面を上げて下さい」と言ったので顔をあげると、そこには埋められた筈の菊が居たのです。

菊は人柱に志願しましたが、やはりそんな非人道的な事は出来ないと考えた直継によって白木の箱は空箱にすり替えられていたのでした。

こうして菊は江戸から着た客として控屋敷で穏やかに過ごす事になったのです。

心優しい直継の一面を示したエピソードですね。 
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