彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

『べらぼう』の話(2)三貨制度

2025年01月12日 | 史跡
田沼意次が考案した「南鐐二朱銀」が登場したので今回は当時の貨幣制度の話

江戸時代が始まる少し前の慶長5年(1600)から明治4年(1871)まで270年に渡り日本の貨幣制度は
・江戸…金本位制
・上方…銀本位制
・共通…銭
という3つの貨幣を用いた「三貨制度」が使われていました

金本位制は
1両=4分=16朱 の四進法
銀本位制は
1貫=1000匁=10000分 の変則的な十進法
銭は
1貫文=1000文

でした
金の分と銀の分が同じ単位に見えますが、実は金は「ぶ」銀は「ふん」と呼び全く違う単位だったのです
しかも金貨(小判)から銀貨への交換には間に丁銀や豆板銀と呼ばれる銀の塊が介入し、この銀の重さが金貨や銀貨の価値がどれくらいか?という価値が毎日変動したのです
現代でいえば、円とドルの為替が金の価値で決まるのと同じ仕組みです

つまり、同じ日本でありながら為替相場が存在したのでした
そして、金と銀を混合して使うことができないため貨幣を両替する「両替商」が発展
場合によっては3割近い交換手数料を取ったために両替商が潤って行き近代の財閥へと発展したのでした

田沼意次は、この捻れた貨幣制度の不備に気付き、銀貨でありながら金貨の単位である朱を使った「南鐐二朱銀」を鋳造しました
最初は商人から無視されましたが、南鐐二朱銀を無利息で貸出すなどの政策により世に広がりました
田沼意次失脚後に松平定信は鋳造を中止
しかし、その利便性が認められていたために後に新しく鋳造されて再び鋳造されたのです

ちなみに銭は今で言う小銭の様な扱いですし、6世紀には日本に伝わり、鎌倉時代などでは宋銭を輸入するなどして少ないながら使用例もあることから全国で統一されていたようです
コメント
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