彦根という土地は、とても重要な戦略拠点だったというお話は今までも何度かしてきました、また彦根城が堅固な城だった事も色々なところからお聞きになった事があるとは思いますが、実は彦根城はただ堅固な城というだけではなく、絶対に落城する事が許されないお城だったのです。
もともとお城そのものは落城する事を目的には作られていませんが、設計者の腕によっては攻め落とし易い城が出来上がる事もあったのです、そんな難しい築城にも名人と言われる人が居ました。
まずは熊本城を築いた加藤清正、そして彦根市のお隣り甲良町出身で日光東照宮の築造にも関わった藤堂高虎などが挙げられますが、そう言った人達よりも評価されているのが大河ドラマ『風林火山』の主人公・山本勘助でした。
彦根城は、この山本勘助が伝えた甲州流築城術の第一人者で彦根藩の重臣・早川幸豊が設計したモノだったのです。
では、なぜ彦根城が落城する事が許されない城だったのか?といえば、江戸幕府から帝を匿う城としての命を受けていたからでした。
そのために彦根藩には30万石の石高以外に5万石の御用米が幕府から与えられていて、現在は梅林になっている場所に保管されていたのです。また彦根藩主は代々京都守護の仕事も請け負っていたのです。
江戸時代は、長州藩以外の藩主が天皇と接触する事を根本的に禁止されていました。
つまり、彦根藩主は他のどの大名よりも天皇に近い立場に居て、幕末史に詳しい方ならご存知の水戸藩や長州藩よりも勤皇の精神が強い藩だったのです。それは井伊直弼も同じでした。
そんな直弼が朝敵のように責められて桜田門外で暗殺された後、この京都守護の仕事が剥奪されたので、その後見として会津藩主・松平容保が京都守護職に任命され、その事が戊辰戦争での会津藩の悲劇へと繋がっていくのです。
ちなみに、彦根城が天皇を匿う城だという事は公然の事だったようで、幕末に佐久間象山が危険な京都から彦根に孝明天皇を行幸させるという計画を発案した為に、象山は勤皇の志士の怒りに触れて暗殺されたと言われています(大河ドラマ『新選組!』にも石坂浩二さんが演じる象山がそう献策するシーンがありましたね)。
話は大幅にずれてしまいましたが、天皇を匿う為には絶対に落城する事が許されないのは解かっていただけたと思います、何度も取り上げている『彦根かるた』には「西に湖 東に鈴鹿の 金亀城」と詠われています。
彦根城が軍事拠点という役目以外にも天皇を守るという役目があったのならば、琵琶湖と鈴鹿に挟まれた地の利を生かした築城も絶対必要だったことが窺えますね。
もともとお城そのものは落城する事を目的には作られていませんが、設計者の腕によっては攻め落とし易い城が出来上がる事もあったのです、そんな難しい築城にも名人と言われる人が居ました。
まずは熊本城を築いた加藤清正、そして彦根市のお隣り甲良町出身で日光東照宮の築造にも関わった藤堂高虎などが挙げられますが、そう言った人達よりも評価されているのが大河ドラマ『風林火山』の主人公・山本勘助でした。
彦根城は、この山本勘助が伝えた甲州流築城術の第一人者で彦根藩の重臣・早川幸豊が設計したモノだったのです。
では、なぜ彦根城が落城する事が許されない城だったのか?といえば、江戸幕府から帝を匿う城としての命を受けていたからでした。
そのために彦根藩には30万石の石高以外に5万石の御用米が幕府から与えられていて、現在は梅林になっている場所に保管されていたのです。また彦根藩主は代々京都守護の仕事も請け負っていたのです。
江戸時代は、長州藩以外の藩主が天皇と接触する事を根本的に禁止されていました。
つまり、彦根藩主は他のどの大名よりも天皇に近い立場に居て、幕末史に詳しい方ならご存知の水戸藩や長州藩よりも勤皇の精神が強い藩だったのです。それは井伊直弼も同じでした。
そんな直弼が朝敵のように責められて桜田門外で暗殺された後、この京都守護の仕事が剥奪されたので、その後見として会津藩主・松平容保が京都守護職に任命され、その事が戊辰戦争での会津藩の悲劇へと繋がっていくのです。
ちなみに、彦根城が天皇を匿う城だという事は公然の事だったようで、幕末に佐久間象山が危険な京都から彦根に孝明天皇を行幸させるという計画を発案した為に、象山は勤皇の志士の怒りに触れて暗殺されたと言われています(大河ドラマ『新選組!』にも石坂浩二さんが演じる象山がそう献策するシーンがありましたね)。
話は大幅にずれてしまいましたが、天皇を匿う為には絶対に落城する事が許されないのは解かっていただけたと思います、何度も取り上げている『彦根かるた』には「西に湖 東に鈴鹿の 金亀城」と詠われています。
彦根城が軍事拠点という役目以外にも天皇を守るという役目があったのならば、琵琶湖と鈴鹿に挟まれた地の利を生かした築城も絶対必要だったことが窺えますね。