彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

彦根城周辺史跡スポット:「平田山城」

2007年06月16日 | 史跡
近江平野の一部に含まれる彦根市では市内中心部にそれほど多くの山がありません。しかし、昔の兵法では高い所を拠点として低い所に攻め降る方が有利とされていたので、彦根市内の山のほとんどは城が築城されていたと考えられるのです。

現在、雨壷山として知られている平田山にも当然お城が築城されていました。それが平田山城です。
・いつ頃築城されたのか?
・誰が城主だったのか?
などの詳しい情報はわかりませんが、先月『肥田城と水攻め』の話で登場しました六角義賢の父親・六角定頼が上坂景宗と対陣した時に平田山を中心に矢を射ち合う“矢戦”が行われて、「江北軍(上坂軍)・磯野源三郎為員の軍勢、が江南軍(六角軍)・吉田安芸守定雄の軍勢と戦った結果、磯野為員が耐え切れずに退却した」という記録が残っています。
この矢戦がいつ頃行われたのかもハッキリしていませんが、六角定頼が当主になった永正15年(1518)から磯野為員が山本山で戦死する天文元年(1532)の間である事は間違いありませんので戦国時代前半には城として戦略拠点になっていたことが窺えますね。

しかし、ある資料では応仁の乱の騒乱の中でも平田山が軍事拠点として使われていたとも伝えられていますので、実は彦根市内でも古いタイプの山城形式をもった平山城だったのかもしれません。

元亀元年(1570)に織田信長が磯野為員の甥・磯野員昌が守る佐和山城を攻めた時には、水野信元(徳川家康の伯父)が平田山城に軍を置いて佐和山城を囲む一端を担っています。
そして慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの直後に行われた徳川家康による佐和山城攻めでも平田山に家康の本陣が置かれ、家康はここから佐和山城が落城する様子を眺め、戦いが終わった後に麓の長久寺で休息しました。
家康の佐和山城攻めの時には城としての機能がどれほど残っていたのかははっきりしませんが、彦根市内の戦いでは絶対に必要となる場所だったと言えますね。


江戸時代になると平田山城跡は井伊家の狩場となっていました。
七代藩主・井伊直惟は特に好んで鷹狩を楽しんでいたそうですよ。


現在、城跡は千鳥ヶ丘公園として整備されている所もありますが、山の中に入って行くと、土塁や曲輪の跡、そして石垣も残っています。この石垣がいつの時代の物かは判断できませんが興味が引かれる遺構の一つですよ。


ちなみに、彦根の城を調べると平田館という平城(館)があったと書かれています。
この平田館は、平田山城とは別の場所(現在は福祉センターから少し北に行った宅地)にあり、館主は平田氏だったようで、この平田氏は荘園の下司職出身の豪族だったそうです。
当主の名前に“平田宗左衛門高慶”と記された資料も残っています。

この平田氏がどうなっていったのかわかりませんが、彦根市内で刊行された書籍の中に薩摩藩の島津家に仕えて3000石の家老になったと書かれていました。
島津の家老・平田氏といえば、木曽三川の工事(宝暦治水)を指揮し最後に切腹した平田靱負が頭に浮かびますが、この人物が子孫であったのかどうかの判断は付けられませんでした・・・
コメント
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