彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

絵島生島事件

2007年12月22日 | 何の日?
映画『大奥』が撮影された玄宮園


映画『大奥』のTV放送を受けて、絵島生島事件の概要を書いてみましょう。
大奥最大のスキャンダルと言われている絵島生島事件が起きたのは正徳4(1714)年1月12日の事でした。

では、そもそも絵島生島事件とはどのような事件だったのでしょうか?

時は7代将軍・徳川家継の時。
この家継という将軍は2年前に父である6代将軍・家宣の死去によりわずか4歳で将軍となったのです。
5歳の子どもが政治を行なえる筈も無く、政務は家宣の時代からの側近が引き継いで行なう形がとられていました。

その主なメンバーは
側用人・間部詮房
朱子学者・新井白石
老中・土屋政直、阿部正喬らでした(映画に登場した秋元喬知はこの時は老中を退任しています)
など・・・

この中でも、家宣の側近として仕え、常にその信頼を集めていた間部詮房の権力は相当に大きなものだったのです。
なぜ詮房がそれ程に大きな権力を持つ事ができたのかといえば、簡単にいうなら能役者出身のハンサムだったからでした。
当時、幕府の実権は老中や臨時職の大老をはじめとする幕閣が握っていたようなイメージがありますが、老中達も逆らう事ができなかったのが大奥だったのです。
詮房がハンサムだっただけで実権を握れるのはおかしいような気がしますが、大奥で推されたらそれも可能だったのです。

後の時代になりますが、田沼意次はハンサムな顔と細かい配慮も行なった大奥への気配りで老中にまで出世したとも言われています。


さて、家継の時代に大奥で権力を持っていたのは、家宣の正室だった天英院と家継の生母・月光院でした。
両者が激しく対立した事は想像できます、でもココから大奥というシステムの面白い所なんですが、こう言った将軍の正室や生母が直接大奥を仕切る事はできなかったのです。

そこで、大奥を取り仕切っていたのが御年寄でした。
御年寄はTVや映画では大奥取締役と呼ばれる事がありますが、実際にはそのような名称は無く、あくまで御年寄が正式名称となります。そしてその仕事は大奥の老中とも言えるモノで、将軍すら恐れる存在だったのです。
そして、7代将軍・家継の時に御年寄だったのが、月光院の右腕・絵島だったのです。

そして大奥では将軍が幼いために将軍の後継ぎをもうける機関という本来の目的が果たせずに風紀が乱れ始めていました。
そのもっとも顕著な例が、月光院と間部詮房の密通だったとも言われていますが、本当の話かどうかは当人達のみが知ることでしょう。
しかし、月光院の信頼をバックに将軍の代理という形で自由気ままに政務を行なう詮房を煙たく思った老中達は詮房の失脚を画策しました。

その為には月光院の追い落としが必要だったのです。


月光院の権力を落とす為に、その右腕だった絵島が狙われたのでした。
1714年1月12日、月光院の名代として前将軍・家宣の墓参りの為に寛永寺と増上寺に詣でた絵島とその供は、当たり前の習慣として芝居見物に出かけたのです。
この時寄ったのが山村座で、山村座の看板俳優が生島新五郎でした。

そして、芝居に興じた絵島一行はその後に役者を招いて茶席となり、江戸城への帰城が遅れて門限に間に合わなかったのです。

大奥の制度を作り上げたのは3代将軍・家光の乳母・春日局ですが、そんな春日局ですら門限に遅れて門番に入城を拒否され一晩締め出しを食った経験がありました。
当然、絵島も中には入れず、入り口での問答を行なった為に江戸城内にこの件が知れ渡ってしまったのです。


こうして評定所が絵島の遅帰城事件を調べる事となり、生島新五郎と密通を行なっていたと決定付けられたのです。
つまり、実際に密通の事実があったかどうかは分からないにしても(生島は三度の関係があったと自白しています)、絵島の不注意が老中達にチャンスを与えたのでした。

同年3月5日判決が下されました。
絵島は高遠藩にお預け
生島新五郎は三宅島に遠島
山村座座元・山村長太夫は伊豆大島に遠島
絵島の兄で旗本・白井平右衛門は切腹
など、関わった1300余名が罰を受けたのでした。


しかし、この事件では間部詮房の追い落としまでは叶わず、結局絵島関係者が割を食った形になったのです。
ちなみにこの年の

2年度の正徳6(1716)年4月30日、徳川家継風邪をこじらせ8歳で死去。
後を継いで将軍となる人物に、紀州藩主だった吉宗を推したのは天英院でした。
こうして吉宗が8代将軍に就任した事により間部詮房罷免。

しかし、その後は吉宗と月光院が深い仲になっていったのです。
一説には絵島生島事件の黒幕は吉宗とも言われていますので、何ともややこしい関係ですよね。



さて、ではこの事件に井伊家はどの様に関わっていたのでしょうか?

実はこの時の大老は、彦根藩四代藩主・井伊直興が「直該」と名を改めて2度目の藩主と大老に就任していた時でした。
直該は間部詮房を好んでは居なかった様ですが、老中たちのように詮房を追い落とす事までは考えていなかったようで、絵島生島事件には関与する事がありませんでした。

しかし、絵島生島事件が起こり判決が起きる少し前の2月23日に大老の座から辞任しています。
この辞任の理由は病の為となっていますが、絵島生島事件から波及した大奥弾圧を受けて最高責任者としてこう言った風紀の乱れを傍観した責任を負ったのではないかと言われています。
コメント
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