今から約300年前の宝永6年(1709)1月20日、10日前に五代将軍徳川綱吉が亡くなった事を受けて新将軍徳川家宣が22年間続いた『生類憐みの令』廃止を発表しました。
そこで、今回は『生類憐みの令』の話。
『生類憐れみの令』は歴史上でも名高い悪法として知られていますが、実際の内容は殆ど理解されていないのが実情であり、その法令が幕府終焉まで効力があったという事実は歴史上から忘れ去られています(あっ、出だしと内容が違う・・・)。
まずは『生類憐れみの令』の本筋は何であったかと言う事ですが、これは犬を始めとする動物の保護などではなく本当の憐れみは捨て子にかけれれたモノでした。
つまり本筋は「捨て子保護政策」であり、動物保護はその“おまけ”でしかなかったのです。
六代将軍家宣が将軍職を引き継いだ時に廃止をしたのはこの“おまけ”の方であり本筋の「捨て子保護」は継続され続けたんですよ。
では「お犬様」はどこから来たのでしょうか?
その答えは当時の庶民の食文化にありました。
実は、江戸時代初期の一番の鍋料理というのは実は“犬鍋”でした。
江戸では冬になると犬鍋として食われてしまうので野良犬が減少したのです。
よく「江戸期には獣は食べなかった」と思われていますが、そんな事はありません。彦根藩は牛肉の味噌漬けを将軍家に献上していましたし15代将軍慶喜は豚が大好物で将軍になる前は「豚一公」と言うあだ名だったくらいです。
また「ウサギは美味いがそのまま食べると周りが五月蝿いから」と言う理由で「ウ(鵜)」と「サギ(鷺)」だから鳥であり獣では無いと理由をつけてお坊さん(鳥は食べれたが獣はタブーだった)はウサギを食べたのです(だから今でもウサギは何羽と数える)。
しかし公家の世界では犬食は野蛮だと言われてきて犬を食べる習慣がなくなっていたのです。
五代将軍綱吉の周りの女性はそんな公家出身が多かったので犬を食べるのを嫌悪していたのでした、こうして犬を保護する項目を『生類憐れみの令』に加える事にしたのです。
でも犬鍋は庶民のささやかな楽しみでした。
しかし綱吉の禁令のために食べれなくなってしまい、庶民は綱吉を世紀の悪者へと仕立て上げたのです。
逆にそこまでされて黙っている将軍でも無かった綱吉…
今度は庶民に仕返しをする形で法令が段々厳しくなっていったです。
こうして22年に渡る動物愛護という世にも奇妙な現象が加速していくのでした。
しかし、動物愛護としての『生類憐れみの令』が全然無駄であった訳ではありませんでした。
この時より人々から戦国期のような猛々しさがなくなり、「江戸期全体で起こった事件の数より今の東京で一年間に起こる事件の方が断然多い」と史家に言わせる超安全国家が出来上がったのです。
『生類憐みの令』の残酷さを伝えるこの頃の逸話の中に、“子どもが動物を殺したり怪我を負わせたりしたために親子共々死罪になった”と言う話が犬・燕・鯉等色々な動物のパターンで残っているのですが、これは事実無根だったといわれています。
同じように綱吉が将軍だった天和3年(1683)に“八百屋お七火事”が起こっているのですが、この時の南町奉行甲斐庄喜右衛門正親はお七を15歳以下という事にして死刑を回避しようとしたと言う話が残っています。これは今で言う『少年法』の適用があったという事なのです。
つまりこの時期には既に少年法の原型が成立しており子供の過ちで死罪になる事はなかったのです。
こうして、多くの誤解を生んだ『生類憐みの令』と共に綱吉は“犬将軍”として悪名を残しました。
そして『生類憐みの令』の動物に関する法令が廃止された時、多くの犬が惨殺されたのですが、庶民がこれを食べたという記録は残っていないのです。
ちなみにこの時の彦根藩主は、
『生類憐みの令』発布時は四代藩主井伊直興
『生類憐みの令』廃止時は五代藩主井伊直通
この二人は直接『生類憐みの令』に関わったという記録はありません。
しかし、直興が大老の時(1697年から1700年)に『生類憐みの令』の追加項目が発布されていますし、『生類憐みの令』廃止後にまた直興が大老に就任している事例から見て、この法令がもし今に伝えられている悪法なら、それを止められなかった井伊直興を再び大老に据える事は考えにくいですから、幕閣としては『生類憐みの令』を悪法とは考えていなかった。との説が出てくるのです。
彦根藩主の動向が、歴史の常識を覆す事もあるのかも知れませんね。
そこで、今回は『生類憐みの令』の話。
『生類憐れみの令』は歴史上でも名高い悪法として知られていますが、実際の内容は殆ど理解されていないのが実情であり、その法令が幕府終焉まで効力があったという事実は歴史上から忘れ去られています(あっ、出だしと内容が違う・・・)。
まずは『生類憐れみの令』の本筋は何であったかと言う事ですが、これは犬を始めとする動物の保護などではなく本当の憐れみは捨て子にかけれれたモノでした。
つまり本筋は「捨て子保護政策」であり、動物保護はその“おまけ”でしかなかったのです。
六代将軍家宣が将軍職を引き継いだ時に廃止をしたのはこの“おまけ”の方であり本筋の「捨て子保護」は継続され続けたんですよ。
では「お犬様」はどこから来たのでしょうか?
その答えは当時の庶民の食文化にありました。
実は、江戸時代初期の一番の鍋料理というのは実は“犬鍋”でした。
江戸では冬になると犬鍋として食われてしまうので野良犬が減少したのです。
よく「江戸期には獣は食べなかった」と思われていますが、そんな事はありません。彦根藩は牛肉の味噌漬けを将軍家に献上していましたし15代将軍慶喜は豚が大好物で将軍になる前は「豚一公」と言うあだ名だったくらいです。
また「ウサギは美味いがそのまま食べると周りが五月蝿いから」と言う理由で「ウ(鵜)」と「サギ(鷺)」だから鳥であり獣では無いと理由をつけてお坊さん(鳥は食べれたが獣はタブーだった)はウサギを食べたのです(だから今でもウサギは何羽と数える)。
しかし公家の世界では犬食は野蛮だと言われてきて犬を食べる習慣がなくなっていたのです。
五代将軍綱吉の周りの女性はそんな公家出身が多かったので犬を食べるのを嫌悪していたのでした、こうして犬を保護する項目を『生類憐れみの令』に加える事にしたのです。
でも犬鍋は庶民のささやかな楽しみでした。
しかし綱吉の禁令のために食べれなくなってしまい、庶民は綱吉を世紀の悪者へと仕立て上げたのです。
逆にそこまでされて黙っている将軍でも無かった綱吉…
今度は庶民に仕返しをする形で法令が段々厳しくなっていったです。
こうして22年に渡る動物愛護という世にも奇妙な現象が加速していくのでした。
しかし、動物愛護としての『生類憐れみの令』が全然無駄であった訳ではありませんでした。
この時より人々から戦国期のような猛々しさがなくなり、「江戸期全体で起こった事件の数より今の東京で一年間に起こる事件の方が断然多い」と史家に言わせる超安全国家が出来上がったのです。
『生類憐みの令』の残酷さを伝えるこの頃の逸話の中に、“子どもが動物を殺したり怪我を負わせたりしたために親子共々死罪になった”と言う話が犬・燕・鯉等色々な動物のパターンで残っているのですが、これは事実無根だったといわれています。
同じように綱吉が将軍だった天和3年(1683)に“八百屋お七火事”が起こっているのですが、この時の南町奉行甲斐庄喜右衛門正親はお七を15歳以下という事にして死刑を回避しようとしたと言う話が残っています。これは今で言う『少年法』の適用があったという事なのです。
つまりこの時期には既に少年法の原型が成立しており子供の過ちで死罪になる事はなかったのです。
こうして、多くの誤解を生んだ『生類憐みの令』と共に綱吉は“犬将軍”として悪名を残しました。
そして『生類憐みの令』の動物に関する法令が廃止された時、多くの犬が惨殺されたのですが、庶民がこれを食べたという記録は残っていないのです。
ちなみにこの時の彦根藩主は、
『生類憐みの令』発布時は四代藩主井伊直興
『生類憐みの令』廃止時は五代藩主井伊直通
この二人は直接『生類憐みの令』に関わったという記録はありません。
しかし、直興が大老の時(1697年から1700年)に『生類憐みの令』の追加項目が発布されていますし、『生類憐みの令』廃止後にまた直興が大老に就任している事例から見て、この法令がもし今に伝えられている悪法なら、それを止められなかった井伊直興を再び大老に据える事は考えにくいですから、幕閣としては『生類憐みの令』を悪法とは考えていなかった。との説が出てくるのです。
彦根藩主の動向が、歴史の常識を覆す事もあるのかも知れませんね。