彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

2月12日、江戸幕府開幕

2008年02月12日 | 何の日?
慶長8年(1603)2月12日は徳川家康が征夷大将軍に就任しました(江戸幕府開幕)。

征夷大将軍といえば世襲制だと思われがちだですがそんな事はありません。この時はまだ豊臣秀頼が幼かった事もあり豊臣家大老の家康が一時的に政治を代行するための手段だと思われていたのです。
しかし慶長10年(1605)4月16日に家康が三男秀忠に将軍職を譲った事により、江戸幕府の存在を大きく主張する事となるのでした。

さて、幕府というのは元々将軍が戦争の為の派遣先で作る参謀本部の様な物で、臨時特権として現地での徴兵・税収等が認められているだけのモノでした。
“幕府”という言葉を政治機関として解釈し始めた事自体が江戸時代も落ち着いてからの事だったといわれています。

そんな軍事機関でしかない幕府ですから、各役職も支配地を治めるための臨時の統治機関として設置されたモノだったんです。
普段学校で習う様な組織図(将軍-大老-老中-若年寄とか並んでる図)は理想でしかなく現実に全てが揃うのは難しかったと言われています。
そして、実はそんな軍事政権が264年8ヶ月も平和に続いた事は世界史上でも稀な(日本史は世界史の稀が多いですが…)事だったのでした。

だからこそ幕末に大した騒動も無く崩壊する事も出来たそうで、勝海舟が晩年に幕府が簡単に崩壊した理由を尋ねられた時に「あれは家康様が釘を一本抜いたら壊れる仕組みにしてたのさ」と答えたという逸話も残っているくらいなんですよ。


そんな江戸幕府の支配体制は欧米人の日本史研究家の理解を悩ます事があるそうです。

まず一番大きな事は朝廷の存在。
これは幕末の外国人使節も悩んだ事の一つなのですが、武力も無く経済的にも恵まれていない朝廷に外交の決定を幕府が許可を求めに行く姿勢をみて、日本の代表政府がどちらだか分からなくなるのだとか・・・

次に大名の存在。
最高権力者が徳川将軍家であるはずなのに、諸大名から徳川家に税金の納付は無く、徳川家は自分の領地からの年貢のみを税収とし、下手な大名よりも貧しい生活を送っていたのです。
それなのに、大名の領国に問題が起きると簡単に取り潰す権限があり、それを諸大名が受け入れて反抗が無かった事。
他にも税金の徴収が農民からの年貢が殆どで、商人からの徴収が無かった事も不思議だそうです。
理由を聞かれるとそれぞれにちゃんとあるのですが、結局は日本人の感覚でしかなく、やっぱり理解に苦しむそうなんですよ。

そんな面から歴史を覗くのも面白いかも知れませんね。


ちなみに、幕府を開く事を江戸時代には“開国”と呼んだそうで、この事から徳川家の重臣として活躍した井伊直政に“開国の元勲”という認識がされて、それが井伊直弼の評価にも繋がった事は以前にも書いた通りです。
コメント
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