先日、彦根藩の支藩があったのか?
というご質問をいただく事がありました。
ちょうど別件で調べていて他にも載せた原稿がありましたので、そのままご紹介します。
『彦根新田藩』
彦根新田藩は、彦根藩の歴史の中でで唯一立藩された支藩ですが、その期間は正徳4年(1714)~享保19年(1734)のたった20年間のみで藩主も後に彦根藩八代藩主となる井伊直定の一代限りだったのです。
彦根新田藩ができた理由は、
彦根藩四代藩主の井伊直興には33人の子どもが居たのですが、直興が政治の舞台から身を引く時に生存していた男子は三人しか居なかったことに起因します。
この三人のうち、
・四男の井伊直矩は与板藩主
・十三男の井伊直惟は彦根藩主
になっていたので、十四男の直定のみ藩主になれないのは哀れだとの理由で支藩ができたのでした。
本来なら一万石くらいならば「彦根藩領内のいずれか」という形で限定した知行地を決めない者なのですが、直興は「井伊家の将軍家に対するご恩に報いる為には禄が必要なので、新田が増えた訳ではないが分地をしてほしい」と述べているのです。
しかし、その知行地が定まる事が無く、直定が幕府内で奏者番に就くなどで知行地の事が問題となり幕府が彦根藩に対し質問をして交渉に当ったのですが、結局は知行地は渡さないままに知行分の支給という形がとられたのです。
そこまで様々に揉めた彦根新田藩の知行地問題だったのですが、井伊直惟の発病による直定の世子相続が決定した為に、与板藩主・井伊直員立ち合いの元で彦根新田藩の廃藩と知行地一万石の彦根藩接収が確定し、彦根新田藩は短い歴史に幕を閉じたのです。
たった20年で一代限りの支藩だったのですが、井伊直定が奏者番になっていた事は注目すべき点とも言えます。
この役職は、幕府内での出世コースのスタートとも言えるモノで、ここから順調に出世を重ねると若年寄や老中にもなる事ができるのです。
支藩の藩主で1万石ならば老中の条件は満たしませんが、若年寄まで出世した後に知行地が増えて老中というコースも井伊家なら考えられたのです。
この彦根新田藩がそのまま残っていたら、この後にどんな運命を辿っていたのか?
歴史に「もし・・・」はありませんが、だからこそ妄想してみたい夢が広がる藩だったのです。
というご質問をいただく事がありました。
ちょうど別件で調べていて他にも載せた原稿がありましたので、そのままご紹介します。
『彦根新田藩』
彦根新田藩は、彦根藩の歴史の中でで唯一立藩された支藩ですが、その期間は正徳4年(1714)~享保19年(1734)のたった20年間のみで藩主も後に彦根藩八代藩主となる井伊直定の一代限りだったのです。
彦根新田藩ができた理由は、
彦根藩四代藩主の井伊直興には33人の子どもが居たのですが、直興が政治の舞台から身を引く時に生存していた男子は三人しか居なかったことに起因します。
この三人のうち、
・四男の井伊直矩は与板藩主
・十三男の井伊直惟は彦根藩主
になっていたので、十四男の直定のみ藩主になれないのは哀れだとの理由で支藩ができたのでした。
本来なら一万石くらいならば「彦根藩領内のいずれか」という形で限定した知行地を決めない者なのですが、直興は「井伊家の将軍家に対するご恩に報いる為には禄が必要なので、新田が増えた訳ではないが分地をしてほしい」と述べているのです。
しかし、その知行地が定まる事が無く、直定が幕府内で奏者番に就くなどで知行地の事が問題となり幕府が彦根藩に対し質問をして交渉に当ったのですが、結局は知行地は渡さないままに知行分の支給という形がとられたのです。
そこまで様々に揉めた彦根新田藩の知行地問題だったのですが、井伊直惟の発病による直定の世子相続が決定した為に、与板藩主・井伊直員立ち合いの元で彦根新田藩の廃藩と知行地一万石の彦根藩接収が確定し、彦根新田藩は短い歴史に幕を閉じたのです。
たった20年で一代限りの支藩だったのですが、井伊直定が奏者番になっていた事は注目すべき点とも言えます。
この役職は、幕府内での出世コースのスタートとも言えるモノで、ここから順調に出世を重ねると若年寄や老中にもなる事ができるのです。
支藩の藩主で1万石ならば老中の条件は満たしませんが、若年寄まで出世した後に知行地が増えて老中というコースも井伊家なら考えられたのです。
この彦根新田藩がそのまま残っていたら、この後にどんな運命を辿っていたのか?
歴史に「もし・・・」はありませんが、だからこそ妄想してみたい夢が広がる藩だったのです。