彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

西尾城訪問記

2008年10月06日 | 史跡
三河西尾藩の政治の中心だった西尾城を訪問してきました。


西尾城は元々“西条城”といって戦国時代中期には三河守護の末裔である吉良氏の居城だったのです。
吉良氏はこの西条城を居城とする宗家である吉良西条家と、すぐ近くの東条城を居城とする分家の吉良東条家が同族で争うようになった家だったのです。
吉良氏の争いは室町時代初期に足利尊氏・直義兄弟が戦った“観応の擾乱”まで遡るそうですからよほど根が深かったのでしょう。
しかし、両家とも足利一門の中でも名門である意識が強く、また同じ足利一門である駿河の今川氏との交流を深めたのでした。

徳川家康の祖父である松平清康が活躍した頃、吉良東条家はいち早く清康の妹を妻に迎えて姻戚関係を結び、清康が暗殺された後はその子の広忠に今川氏を頼るように助言もしたのです。
そして三河が駿河の今川氏と尾張の織田氏との戦いの戦場になる事が頻繁になった時、吉良西条家は織田方になり今川軍に攻められて西条城は吉良家から離れ、吉良宗家は吉良東条家が継ぐ事になったのでした。
この時の吉良東条家の当主の名を吉良義昭といいます。
そして西条城は牧野貞成に任されたのです。

こんな三河の情勢を変えたのが桶狭間の戦いでした。
首を斬られた今川義元になお忠誠を尽くしたのが吉良義昭と牧野貞成で、義元亡き後に岡崎城を拠点として独立した松平元康(後の徳川家康)に反発したのです。

その結果、西条城は元康によって攻め落とされ牧野貞成は城から逃れるしかありませんでした。
余談ですが、この牧野氏は後に徳川家に仕えて、譜代大名として江戸期を生き抜き幕末に北越戦争で戦った長岡藩の牧野家もこの子孫になります。

牧野貞成から西条城を奪った元康は、家臣の酒井正親にこの城を与えて“西尾城”と改名させました。
この酒井家は徳川四天王の酒井忠次とは一門であっても別の流れで、本来なら雅楽助流という分家になるのですが、元康から大きな信頼を受けていて今川家から独立した元康が最初に家臣に与える城を拝領するという栄誉を得たのです。
この子孫はのちに雅楽頭を称するようになり江戸時代の大老四家の一家になるのはこの頃からの家柄があっての事なのです。


さてここから西尾城の本題。
桶狭間の戦いから30年後の小田原征伐の後に関東に移った徳川家家臣に代わって東海地方の要所には豊臣秀吉の信頼する武将たちが配置されました。
それまで酒井家が城主を務めていた西尾城には田中吉政が岡崎城主を兼任して10万石で入城したのです。

やがて関ヶ原の戦い。
吉政は、石田三成捕縛の功で32万5千石の所領を受ける代わりに九州の柳川に転封となり譜代大名の本多家・太田家などが西尾藩主を務めたのでした。

正保2年(1645)6月23日、安中藩3万石の藩主・井伊直之(後の直好)が5000石が加増されて三河国西尾藩へ転封。ここで西尾城の外郭工事を行って明和元年(1655)の完成まで指揮を執ったのです。
そして万治2年(1659)1月28日、今度は同じ石高で掛川藩に転封となったのでした。
井伊直之は井伊直政の孫に当る人物で、ここで井伊家と西尾藩の縁があったのです。

この後に増山家・土井家・三浦家を経て大給松平家が6万石で西尾藩主となり安定します。
13代藩主・松平乗全は大老・井伊直弼の政権下で老中を務め老中首座にまでなっています、安政の大獄では飯泉喜内の取調べを行い幕府より1万石の加増を受けます(しかし、桜田門外の変後に召し上げ)。


直弼の片腕だった乗全は、井伊政権が最終的に消滅した文久2年(1862)に隠居し、弟の乗秩の代に明治維新を迎えたのです。
その後、西尾城の建物は壊され、現在は再建が進められています(写真は再建された丑寅櫓)
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