2008年10月1日より、彦根城の正面口にあたる佐和口多聞櫓の内部が一般公開されています。
彦根城博物館が建築される前は公開されていたので、約20年ぶりの一般公開となりました。
佐和口多聞櫓についてこのブログでも何度か書いていますが、天守が建築された天下普請である第一期工事(1603年?~1607年?)の時に建築された建物ではなく、大坂の陣の後に井伊家が計画して広げた第二期工事(1615年~1622年)の時に建てられました。
しかし、現存する建物はこの時期に建てられた物では在りません。
明和4年(1767)火災により燃えてしまったのです。
佐和口多聞櫓は先ほども書いた通り彦根城の正面玄関にあたる場所ですので本来ならすぐに再建される筈ですが、2年後の明和6年から明和8年にかけて再建されたのです。
この時の彦根藩主は十代の井伊直幸。
当時は奢侈な風潮があった時代でしたが、直幸は領内に倹約を推し進めていました。佐和口多聞櫓再建の期間が長いのももしかしたらこのような領内の風潮にあったのかもしれません。
こうして再建された佐和口多聞櫓は築城時の雰囲気を残したのでしょう。城外に向けて作られた狭間は当然の事、城外側は厚い土壁、城内側は薄い壁といった戦略的な要素も含んでいるのです。
余談ですが、直幸が推し進めた倹約の成果もあり藩には多少の蓄えも残ったようで、天明の大飢饉では藩の米蔵を開いて領民に粥を配り、上杉鷹山らと共に藩内では一人の餓死者も出さない政策を実行したのです。
彦根城博物館が建築される前は公開されていたので、約20年ぶりの一般公開となりました。
佐和口多聞櫓についてこのブログでも何度か書いていますが、天守が建築された天下普請である第一期工事(1603年?~1607年?)の時に建築された建物ではなく、大坂の陣の後に井伊家が計画して広げた第二期工事(1615年~1622年)の時に建てられました。
しかし、現存する建物はこの時期に建てられた物では在りません。
明和4年(1767)火災により燃えてしまったのです。
佐和口多聞櫓は先ほども書いた通り彦根城の正面玄関にあたる場所ですので本来ならすぐに再建される筈ですが、2年後の明和6年から明和8年にかけて再建されたのです。
この時の彦根藩主は十代の井伊直幸。
当時は奢侈な風潮があった時代でしたが、直幸は領内に倹約を推し進めていました。佐和口多聞櫓再建の期間が長いのももしかしたらこのような領内の風潮にあったのかもしれません。
こうして再建された佐和口多聞櫓は築城時の雰囲気を残したのでしょう。城外に向けて作られた狭間は当然の事、城外側は厚い土壁、城内側は薄い壁といった戦略的な要素も含んでいるのです。
余談ですが、直幸が推し進めた倹約の成果もあり藩には多少の蓄えも残ったようで、天明の大飢饉では藩の米蔵を開いて領民に粥を配り、上杉鷹山らと共に藩内では一人の餓死者も出さない政策を実行したのです。