彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

1月11日、国友鉄砲の生産

2010年01月11日 | 何の日?
慶長20年(1615)1月11日、江戸幕府が国友村に鉄砲生産の命を下しました。

えっ?国友村と言えば、江戸幕府より前に鉄砲生産をしていて織田信長の長篠の戦では3000梃(最近の説では1000梃)の火縄銃を準備したんじゃないの?
と思われる方は多いと思います。


ご指摘通り、国友村では浅井氏が北近江を治めていた頃、一説には天文13年(1544)に鉄砲の生産が始まったとされています。天文13年説は国友の人々が江戸時代に書いた『国友鉄炮記』にある記述ですので信憑性には疑問視もあります。
しかし、年数はどうあれ浅井氏支配の間に生産が始まったことは間違いなく、その後は織田信長・羽柴秀吉・石田三成そして徳川幕府へと権力者を変えながらも鉄砲生産の村としての歴史は歩んでいたのです。

ですので、江戸幕府が命じる前に鉄砲生産は盛んに行われていたのですが、慶長20年は5月に大坂夏の陣を控えた年であり、この命は大坂攻めの準備であると同時に江戸幕府が鉄砲生産地を限定する意味も込められていたのです。

こうして江戸期を通して鉄砲生産地となった国友ですが、平和な時代に幕府に警戒されるような武器の需要はそれほど多くはなく、国友は高い技術を要しながらも宝の持ち腐れとなっていったのです。
そこで、軍事的利用から文化的貢献へと一大改革が行われました。


鉄砲技術が使える文化…
それは科学だったのです。
火縄銃伝来時に種子島であった有名なエピソードとして、種子島の鍛冶屋の娘をポルトガル人に差し出す代わりにネジの技術を手に入れたという話があります。
しかし国友まではネジの技術は伝わらず、同じように悩んだ国友の鍛冶たちは独自の力でこれを見つけ出しました。
『国友鉄炮記』には小刀で大根をくりぬいた時に内側に刃の跡が残ったことが発見のきっかけとありますが、それが嘘か誠かは別にしても独自の発見は快挙でした。他にも銃身の巻き方や銃底の柔軟性などの工夫を加えたのです。
そして機関部分に必要な細かいカラクリやバネの技術は「国友」というブランドにまで昇格させたのでした。

こうして出来上がる一級品の技術こそが科学であった為、文化的科学への移行も進んだのです。
代表的なところでは空気銃や反射望遠鏡(細かい話や彦根藩との絡みはここ参照)、顕微鏡、油を自動供給する火灯具(ランプの原型)、測量具、筆ペン、明治期に至っては自転車まで作ったのでした。

鉄砲の村・国友は時代に翻弄されながらも科学の最先端を歩む技術者の集まりでもあったのです。
コメント (2)
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