文正2年(1467)1月18日、応仁の乱のきっかけとなる御霊合戦が始まりました。
戦国時代の幕開けとも言われる応仁の乱ですが、その歴史背景はどんなものがあったのでしょうか?
足利将軍が支配する室町幕府は貧弱な権力の元に成り立っていました。
初代尊氏は武士の棟梁としてはあり得無いくらいの優しさ(=甘さ)を持っていたために、南北朝の動乱を生み、弟の直義や自らの子で直義の養子となった直冬、そして執政であった高師直らも争うこととなる観応の擾乱まで招く事となり国内を乱れさせたのです。
この争いは三代将軍・足利義満が南北朝合一を果たすまで続き、その余韻は幕府滅亡後まで続いたのです。
義満は大きな独裁政治を敷き、足利将軍家の黄金時代を築きましたが嫡男の義持よりも次男・義嗣を溺愛した為に、義満の死後に兄弟間で疑心暗鬼が起こり義嗣は義持に殺されてしまったのです。
尊氏は、関東にも足利幕府の権力を及ぼす為に三男・基氏を鎌倉に派遣して鎌倉公方と言う新しい関東支配機関を置きますが、この鎌倉公方(後の古河公方)は代を追うごとに都の幕府に反旗を翻すようにもなって行ったのでした。
そして義持の時にはそれが最高潮に達したのです。
結局この時は大きな争いもなく鎌倉公方の持氏(基氏のひ孫)が都に屈服する形になりますが関東に大きな火種を抱える結果となったのでした。
やがて義持は隠居して息子の義量に後を譲りますが2年足らずで死去。
仕方なく義持が空位の将軍の代理をするという異常事態が起こり、そのまま後継ぎを決めないままに亡くなってしまったのです。
義持の死後、困った幕閣は前代未聞の人事を行いました。
なんと、六代将軍を籤引きで選んだのです。
幕府の将軍はその程度で決められるモノだったとも、籤引きと言う神意で決めたとも言えるやり方ですが、とにもかくにも籤で決まったのは義持の弟である義教だったのです。
六代将軍に選ばれた義教は「籤引き将軍」と揶揄され、結果的に持氏が反乱を起こします(永享の乱)、義持は追い詰められて自害しますが、その遺児2人を匿った関東武士がまた大きな反乱を起こすのです(結城合戦)。
結城合戦を含め関東の反乱を鎮圧した義教。
あまりの反乱の多さから独裁政治とエコ贔屓が始まり、結果的に義教のやり方についていけなくなった赤松満祐に殺されてしまうのでした(嘉吉の乱)。
幕府は、細川持常・山名持豊(宗全)たちの軍を発して赤松家を滅ぼしますが、足利将軍家の威光は地に落ちたのです。
こうしてまた混乱の時代が始まったのでした。
義教の死後、嫡男・義勝が後を継ぎますがたった10歳でしかも8ヶ月で亡くなります(落馬説あり)、そして義勝の弟・義政が8歳で将軍となったのです(正式な就任は14歳に元服してから…)。
しかし、子どもの頃に将軍になった義政には理想が先行し、数々の政策を立てても全て失敗に終わりついには政治への関心すら失い、文化にしか興味を示さなくなったのでした。
そして後継ぎも生まれなかったために僧だった弟を還俗させ「義視」と名乗らせて養子としたのです。
ですが、その後に子ども(義尚)が生まれたのでした…
自分の子を将軍としたくなった義尚の生母で義政の正室の日野富子は嘉吉の乱で名を挙げた山名宗全に後見を依頼します。一方還俗までしたのに今更話を無しにされることに抵抗した義視は管領家の細川勝元に協力を依頼して幕府内は真っ二つに割れたのでした。
山名宗全と細川勝元も赤松家再興の協議で真っ向から対立していたのです。
同じ頃、細川氏と共に三管領と呼ばれる斯波氏と畠山氏でも家督争いによるお家騒動が起こっていたのです。
特に畠山氏では総領だった義就が、従兄弟の政長が細川勝元の後ろ盾を得て家を乗っ取られていたのです。
義就は山名宗全を便り、足利義政と対面させ将軍を取りこんでしまったのでした。
畠山氏の棟梁として管領職に就いていた畠山政長は怒って管領を辞任し、細川勝元の力で畠山義就の追討令を幕府に出させようとしますが、日野富子がこれを察知して山名宗全に知らせ計画は破断したのです。
文正元年(1466)12月、5000の兵を率いて京に入った畠山義就は千本地蔵院に布陣します。
翌年1月に入り万里小路の畠山政長邸を襲撃する構えを見せたのです。
追い詰められた政長は細川勝元に援軍を依頼します。
そして1月18日早朝、万里小路の自宅に火を放って上御霊神社境内の森の中に2000の兵と共に陣を張ったのです。
午後4時頃、みぞれ交じりの雪の降る寒い日だったそうです。
山名政豊(宗全の孫)が東、斯波義廉・朝倉孝景が北にと加勢を得て上御霊社を囲んだ畠山義就は南を担当し、まずは北から攻め込んだのです。
畠山政長は、細川勝元に援軍要請の使者を送りながらほぼ一晩持ちこたえましたが、東の山名勢に攻め込まれ遂に上御霊社に火を放って、政長自身は西の小さな小川沿いに境内を脱出し、畠山義就の兵の裏となる相国寺から細川勝元邸へと逃げ込んだのでした。
上御霊社は焼け落ち、焼死体の区別が付かず、義就は政長が死んだと思いこんで勝利宣言をしたのです。
このミスが、文明9年(1477)まで続く応仁の乱の大きな原因でもあり、結局は畠山義就は政長よりも先に亡くなってしまい、政長は細川勝元の息子の政元によって自害に追い込まれたんでした。
この事件が、将軍家をはじめとする多くの家を二つに分けて戦うきっかけとなり、その争いに乗じて下の身分の者が上の身分の者にとって代わる下剋上が横行し、戦国時代への入口とんるのです。
ちなみに、足利将軍家はこの後、
義尚が9代将軍となりますが、近江六角氏との戦の最中に鉤の陣中で亡くなります。
義政は、義視の息子・義材を後継ぎとし、義政の死後に義材が10代将軍となりますが、細川政元に都を追われ、政元は6代将軍義教の三男・政知(堀越公方)の子・義澄を迎えます(彼の兄が北条早雲に滅ぼされた足利茶々丸)。
義材は幽閉されていたのを抜けだし越前朝倉家を頼って上洛しようとしますが失敗、周防の大内義興を頼って上洛を果たします(この時、大内軍に毛利元就の兄の興元が居ました)。
ちょうど細川政元が暗殺された後だったので、政局は不安定であり都から逃れた義澄は軍を整える前に近江岡山城内で陣没しました。
義材は義稙と改名し再び将軍になります、長い歴史に中で2度将軍になったのは義材のみです。
このまま大内軍が京に留まれば良かったのですが、地元で尼子経久が軍を起こし撤退。
その隙をついて細川高国(政元の養子だが後継ぎではない人物)が、義澄の息子・義晴を擁立し義稙は追い出され阿波に逃れてそのまま客死します。
義晴は12代将軍に就任。
今度は細川高国と対立した細川晴元が、義晴の弟・義維を擁立。高国が敗れて義晴は朽木に逃れますが義維は堺を中心に活動したので将軍の代には数えず“堺公方”と呼ばれます。
細川高国は晴元に再び敗れ自害、義晴は六角定頼・義賢親子の仲介で細川晴元と和解して京に帰りますが、再び決裂、都落ち、そしてまた和解帰京を繰り返し、ついには近江国穴太で亡くなります。
義晴の後を継いだのは嫡男・義輝。
13代将軍義輝は塚原ト伝から免許皆伝を受けるほどの剣豪でしたが、松永久秀と三好三人衆の謀反で殺されます。
この松永久秀と三好三人衆が擁立したのが堺公方義維の長男・義栄。
しかし義栄は14代将軍になりながらも松永久秀と三好三人衆の仲互いから京に入れず、義輝の弟である義昭を擁立した織田信長に松永も三好も敗れたために将軍の座を追われてしまい亡くなった場所も定かではありません。
信長に擁立された義昭は、信長に反抗し京を追われ、備後鞆の浦で将軍として匿われましたが、豊臣政権下で槙島1万石を与えられ、将軍を辞したのです。
9代以降、足利将軍でまともな死に方ができた人物は誰も居らず、義昭の子孫の中には西南戦争で西郷軍として戦い戦死した人物もいるのです。
戦国時代の幕開けとも言われる応仁の乱ですが、その歴史背景はどんなものがあったのでしょうか?
足利将軍が支配する室町幕府は貧弱な権力の元に成り立っていました。
初代尊氏は武士の棟梁としてはあり得無いくらいの優しさ(=甘さ)を持っていたために、南北朝の動乱を生み、弟の直義や自らの子で直義の養子となった直冬、そして執政であった高師直らも争うこととなる観応の擾乱まで招く事となり国内を乱れさせたのです。
この争いは三代将軍・足利義満が南北朝合一を果たすまで続き、その余韻は幕府滅亡後まで続いたのです。
義満は大きな独裁政治を敷き、足利将軍家の黄金時代を築きましたが嫡男の義持よりも次男・義嗣を溺愛した為に、義満の死後に兄弟間で疑心暗鬼が起こり義嗣は義持に殺されてしまったのです。
尊氏は、関東にも足利幕府の権力を及ぼす為に三男・基氏を鎌倉に派遣して鎌倉公方と言う新しい関東支配機関を置きますが、この鎌倉公方(後の古河公方)は代を追うごとに都の幕府に反旗を翻すようにもなって行ったのでした。
そして義持の時にはそれが最高潮に達したのです。
結局この時は大きな争いもなく鎌倉公方の持氏(基氏のひ孫)が都に屈服する形になりますが関東に大きな火種を抱える結果となったのでした。
やがて義持は隠居して息子の義量に後を譲りますが2年足らずで死去。
仕方なく義持が空位の将軍の代理をするという異常事態が起こり、そのまま後継ぎを決めないままに亡くなってしまったのです。
義持の死後、困った幕閣は前代未聞の人事を行いました。
なんと、六代将軍を籤引きで選んだのです。
幕府の将軍はその程度で決められるモノだったとも、籤引きと言う神意で決めたとも言えるやり方ですが、とにもかくにも籤で決まったのは義持の弟である義教だったのです。
六代将軍に選ばれた義教は「籤引き将軍」と揶揄され、結果的に持氏が反乱を起こします(永享の乱)、義持は追い詰められて自害しますが、その遺児2人を匿った関東武士がまた大きな反乱を起こすのです(結城合戦)。
結城合戦を含め関東の反乱を鎮圧した義教。
あまりの反乱の多さから独裁政治とエコ贔屓が始まり、結果的に義教のやり方についていけなくなった赤松満祐に殺されてしまうのでした(嘉吉の乱)。
幕府は、細川持常・山名持豊(宗全)たちの軍を発して赤松家を滅ぼしますが、足利将軍家の威光は地に落ちたのです。
こうしてまた混乱の時代が始まったのでした。
義教の死後、嫡男・義勝が後を継ぎますがたった10歳でしかも8ヶ月で亡くなります(落馬説あり)、そして義勝の弟・義政が8歳で将軍となったのです(正式な就任は14歳に元服してから…)。
しかし、子どもの頃に将軍になった義政には理想が先行し、数々の政策を立てても全て失敗に終わりついには政治への関心すら失い、文化にしか興味を示さなくなったのでした。
そして後継ぎも生まれなかったために僧だった弟を還俗させ「義視」と名乗らせて養子としたのです。
ですが、その後に子ども(義尚)が生まれたのでした…
自分の子を将軍としたくなった義尚の生母で義政の正室の日野富子は嘉吉の乱で名を挙げた山名宗全に後見を依頼します。一方還俗までしたのに今更話を無しにされることに抵抗した義視は管領家の細川勝元に協力を依頼して幕府内は真っ二つに割れたのでした。
山名宗全と細川勝元も赤松家再興の協議で真っ向から対立していたのです。
同じ頃、細川氏と共に三管領と呼ばれる斯波氏と畠山氏でも家督争いによるお家騒動が起こっていたのです。
特に畠山氏では総領だった義就が、従兄弟の政長が細川勝元の後ろ盾を得て家を乗っ取られていたのです。
義就は山名宗全を便り、足利義政と対面させ将軍を取りこんでしまったのでした。
畠山氏の棟梁として管領職に就いていた畠山政長は怒って管領を辞任し、細川勝元の力で畠山義就の追討令を幕府に出させようとしますが、日野富子がこれを察知して山名宗全に知らせ計画は破断したのです。
文正元年(1466)12月、5000の兵を率いて京に入った畠山義就は千本地蔵院に布陣します。
翌年1月に入り万里小路の畠山政長邸を襲撃する構えを見せたのです。
追い詰められた政長は細川勝元に援軍を依頼します。
そして1月18日早朝、万里小路の自宅に火を放って上御霊神社境内の森の中に2000の兵と共に陣を張ったのです。
午後4時頃、みぞれ交じりの雪の降る寒い日だったそうです。
山名政豊(宗全の孫)が東、斯波義廉・朝倉孝景が北にと加勢を得て上御霊社を囲んだ畠山義就は南を担当し、まずは北から攻め込んだのです。
畠山政長は、細川勝元に援軍要請の使者を送りながらほぼ一晩持ちこたえましたが、東の山名勢に攻め込まれ遂に上御霊社に火を放って、政長自身は西の小さな小川沿いに境内を脱出し、畠山義就の兵の裏となる相国寺から細川勝元邸へと逃げ込んだのでした。
上御霊社は焼け落ち、焼死体の区別が付かず、義就は政長が死んだと思いこんで勝利宣言をしたのです。
このミスが、文明9年(1477)まで続く応仁の乱の大きな原因でもあり、結局は畠山義就は政長よりも先に亡くなってしまい、政長は細川勝元の息子の政元によって自害に追い込まれたんでした。
この事件が、将軍家をはじめとする多くの家を二つに分けて戦うきっかけとなり、その争いに乗じて下の身分の者が上の身分の者にとって代わる下剋上が横行し、戦国時代への入口とんるのです。
ちなみに、足利将軍家はこの後、
義尚が9代将軍となりますが、近江六角氏との戦の最中に鉤の陣中で亡くなります。
義政は、義視の息子・義材を後継ぎとし、義政の死後に義材が10代将軍となりますが、細川政元に都を追われ、政元は6代将軍義教の三男・政知(堀越公方)の子・義澄を迎えます(彼の兄が北条早雲に滅ぼされた足利茶々丸)。
義材は幽閉されていたのを抜けだし越前朝倉家を頼って上洛しようとしますが失敗、周防の大内義興を頼って上洛を果たします(この時、大内軍に毛利元就の兄の興元が居ました)。
ちょうど細川政元が暗殺された後だったので、政局は不安定であり都から逃れた義澄は軍を整える前に近江岡山城内で陣没しました。
義材は義稙と改名し再び将軍になります、長い歴史に中で2度将軍になったのは義材のみです。
このまま大内軍が京に留まれば良かったのですが、地元で尼子経久が軍を起こし撤退。
その隙をついて細川高国(政元の養子だが後継ぎではない人物)が、義澄の息子・義晴を擁立し義稙は追い出され阿波に逃れてそのまま客死します。
義晴は12代将軍に就任。
今度は細川高国と対立した細川晴元が、義晴の弟・義維を擁立。高国が敗れて義晴は朽木に逃れますが義維は堺を中心に活動したので将軍の代には数えず“堺公方”と呼ばれます。
細川高国は晴元に再び敗れ自害、義晴は六角定頼・義賢親子の仲介で細川晴元と和解して京に帰りますが、再び決裂、都落ち、そしてまた和解帰京を繰り返し、ついには近江国穴太で亡くなります。
義晴の後を継いだのは嫡男・義輝。
13代将軍義輝は塚原ト伝から免許皆伝を受けるほどの剣豪でしたが、松永久秀と三好三人衆の謀反で殺されます。
この松永久秀と三好三人衆が擁立したのが堺公方義維の長男・義栄。
しかし義栄は14代将軍になりながらも松永久秀と三好三人衆の仲互いから京に入れず、義輝の弟である義昭を擁立した織田信長に松永も三好も敗れたために将軍の座を追われてしまい亡くなった場所も定かではありません。
信長に擁立された義昭は、信長に反抗し京を追われ、備後鞆の浦で将軍として匿われましたが、豊臣政権下で槙島1万石を与えられ、将軍を辞したのです。
9代以降、足利将軍でまともな死に方ができた人物は誰も居らず、義昭の子孫の中には西南戦争で西郷軍として戦い戦死した人物もいるのです。