479年8月7日、第21代天皇の雄略天皇が崩御しました。享年62歳。
この時代、日本では独特の記録はほとんど残っておらず、その歴史の記録は中国の歴史書に残された物に頼るしかありません。
そんな中、『宋書』『梁書』という本に“倭の五王”として記録されている五人の天皇(讃・珍・済・興・武)の中の最後の一人である“武”がこの雄略天皇だといわれています。
武は周辺の地域をどんどんと侵略して行った様子が描かれていて、南斉からは“鎮東代将軍”、梁からは“征東大将軍”に進号されていることから、東の一大勢力と見られていた感があります。
その征服行為の中では人々の恨みをたくさん受けたのかもしれませんが、雄略天皇には残忍性を秘めたエピソードが伝えられていて、悪徳天皇とも称されます。
妊娠している女性の腹を裂いて、胎児を確認したという残忍さを表すためによく使われるエピソードを、日本で最初に語られたのは雄略天皇なのです。
その反面、有徳天皇と称される時もあります。
また、面白い話も残っています。
特に『古事記』の赤猪子のエピソードが人柄を表わしていると思います。
ある日、雄略天皇が出掛けると、三輪川のほとりで美しい乙女に出会います。天皇は「あなたのお名前は?」と訊ねると乙女は「私は引田部の赤猪子と申します」と本名を告げました。
こうして赤猪子は天皇の迎えを待ちましたが、数十年が過ぎても迎えが来ず、老いてしまった赤猪子は結納の品を持って雄略天皇に拝謁しました。
赤猪子の話を聞くまで、その事を忘れていた天皇は不憫に思い
「引田の 若来栖原 若くへに 率寝てましもの 老いけるにかも」(若いうちに一緒に寝たかったけど、今の老いた姿じゃあかんなぁ)と詠いました。
赤猪子は涙を流しながら
「日下江の 入江の蓮 花蓮 身の盛り人 羨しきかも」(日下江の入江の蓮のように若い若日下部王(雄略の妃)が羨ましです)と返したのです。
この後、雄略天皇はたくさんの褒美を与えて赤猪子を帰しました(おいおい)
どうも雄略天皇はこういった事が好きだったようで、『万葉集』の最初の歌にも
「籠もよ み籠もち ふくしもよ みぶくし持ち この岡に 菜摘ます児 家告らせ 名告らせね そらみつ 大和の国は おしなべて 我こそ居れ しきなべて 我こそいませ 我こそば 告らめ 家をも名をも」
という雄略天皇の歌が紹介されています。
この歌の意味は、「良い駕籠を持って、土を削るヘラを持ってこの岡で菜を摘んでいるお嬢さん。身分を教えて、名前も教えて。この国は全部ワシの物、ワシが治めてている国だ。だからワシは身分も名前も告げる」くらいの内容です。
まるで赤猪子にしたような、今風に言えばナンパをしていたんですね。
ちなみに当時は男性が女性に名前を聞いて、女性がそれを告げるのはそのまま結婚の了承を意味していました。
だから赤猪子も名前を告げただけで雄略天皇の迎えを待ったのです。
でも『万葉集』の最初に歌が掲載されるくらいですから、雄略天皇は歌の才能もあったのですね。
雄略天皇はエピソードに困らない人物ですので、死後にもエピソードを残しています。
天皇即位の時、先代で兄にあたる安康天皇が暗殺された為に即位するという事件がありました。この報復の為に兄を殺した事に関わったであろう人物を殺害したのです。
その中の一人に市辺押磐皇子という人物がいました。皇子には二人の子どもがいて、播磨まで逃亡したのです。
そこで二人は下働きをしながら生活しましたが、ある時、その主人の屋敷に来客があり、主人から舞を舞うように命令されました。
兄は無難に舞い、弟が「自分は市辺押磐皇子の子である」という歌を入れた舞を舞ったのです。この時すでに雄略天皇は亡くなっていて二人は宮中に戻り、後に先に名乗り出た弟が即位して顕宗天皇(23代)となりました。
この時に兄弟間で皇位の譲り合いがあったため、代理として10か月ほど女兄弟である飯豊青皇女が摂政としての業務を行いました。最近ではこの女性を推古天皇の前に即位した日本最初の女帝とする考えもあります。
顕宗天皇は父を殺した雄略天皇への復讐の為に、その御陵を破壊することにして兄に相談すると、兄は二つ返事でこれを受けて御陵に自ら赴いて、古墳の上の土を少し削ったのです。
それを聞いて兄を責めた顕宗天皇でしたが、兄は「仇といえども、雄略天皇はこの国を治めた帝でありその御陵を破壊することは、あなたの名に傷が付きます。雄略天皇の墓を削ることで辱める事は致しましたのでそれで良いではございませんか」と言ったのです。
これで顕宗天皇はその怒りを静めました。顕宗天皇はわずか3年で崩御した為に、この後に兄が即位して仁賢天皇となるのです。
仁賢天皇には雄略天皇の娘が皇后として嫁ぎました。
今回、この話を紹介したのは何度も書いている七夕伝悦に絡む人物が登場しているからです
七夕伝説
雄略天皇の皇子と、仁賢天皇の皇女との恋
二人にはこういった周りの事情があるのですね。
さて、即位の時から死後まで多くの話に飾られた雄略天皇ですが、日本史的にはとても大事な一面も持っています。
埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土した鉄剣の銘に「獲加多支鹵大王(ワカタケルオオキミ)」と書かれていたのです。雄略天皇は大長谷若建命(おおはつせわかたけるのみこと)という和名がある事から、考古学として実在が証明された最古の天皇でもあるのです。
この時代、日本では独特の記録はほとんど残っておらず、その歴史の記録は中国の歴史書に残された物に頼るしかありません。
そんな中、『宋書』『梁書』という本に“倭の五王”として記録されている五人の天皇(讃・珍・済・興・武)の中の最後の一人である“武”がこの雄略天皇だといわれています。
武は周辺の地域をどんどんと侵略して行った様子が描かれていて、南斉からは“鎮東代将軍”、梁からは“征東大将軍”に進号されていることから、東の一大勢力と見られていた感があります。
その征服行為の中では人々の恨みをたくさん受けたのかもしれませんが、雄略天皇には残忍性を秘めたエピソードが伝えられていて、悪徳天皇とも称されます。
妊娠している女性の腹を裂いて、胎児を確認したという残忍さを表すためによく使われるエピソードを、日本で最初に語られたのは雄略天皇なのです。
その反面、有徳天皇と称される時もあります。
また、面白い話も残っています。
特に『古事記』の赤猪子のエピソードが人柄を表わしていると思います。
ある日、雄略天皇が出掛けると、三輪川のほとりで美しい乙女に出会います。天皇は「あなたのお名前は?」と訊ねると乙女は「私は引田部の赤猪子と申します」と本名を告げました。
こうして赤猪子は天皇の迎えを待ちましたが、数十年が過ぎても迎えが来ず、老いてしまった赤猪子は結納の品を持って雄略天皇に拝謁しました。
赤猪子の話を聞くまで、その事を忘れていた天皇は不憫に思い
「引田の 若来栖原 若くへに 率寝てましもの 老いけるにかも」(若いうちに一緒に寝たかったけど、今の老いた姿じゃあかんなぁ)と詠いました。
赤猪子は涙を流しながら
「日下江の 入江の蓮 花蓮 身の盛り人 羨しきかも」(日下江の入江の蓮のように若い若日下部王(雄略の妃)が羨ましです)と返したのです。
この後、雄略天皇はたくさんの褒美を与えて赤猪子を帰しました(おいおい)
どうも雄略天皇はこういった事が好きだったようで、『万葉集』の最初の歌にも
「籠もよ み籠もち ふくしもよ みぶくし持ち この岡に 菜摘ます児 家告らせ 名告らせね そらみつ 大和の国は おしなべて 我こそ居れ しきなべて 我こそいませ 我こそば 告らめ 家をも名をも」
という雄略天皇の歌が紹介されています。
この歌の意味は、「良い駕籠を持って、土を削るヘラを持ってこの岡で菜を摘んでいるお嬢さん。身分を教えて、名前も教えて。この国は全部ワシの物、ワシが治めてている国だ。だからワシは身分も名前も告げる」くらいの内容です。
まるで赤猪子にしたような、今風に言えばナンパをしていたんですね。
ちなみに当時は男性が女性に名前を聞いて、女性がそれを告げるのはそのまま結婚の了承を意味していました。
だから赤猪子も名前を告げただけで雄略天皇の迎えを待ったのです。
でも『万葉集』の最初に歌が掲載されるくらいですから、雄略天皇は歌の才能もあったのですね。
雄略天皇はエピソードに困らない人物ですので、死後にもエピソードを残しています。
天皇即位の時、先代で兄にあたる安康天皇が暗殺された為に即位するという事件がありました。この報復の為に兄を殺した事に関わったであろう人物を殺害したのです。
その中の一人に市辺押磐皇子という人物がいました。皇子には二人の子どもがいて、播磨まで逃亡したのです。
そこで二人は下働きをしながら生活しましたが、ある時、その主人の屋敷に来客があり、主人から舞を舞うように命令されました。
兄は無難に舞い、弟が「自分は市辺押磐皇子の子である」という歌を入れた舞を舞ったのです。この時すでに雄略天皇は亡くなっていて二人は宮中に戻り、後に先に名乗り出た弟が即位して顕宗天皇(23代)となりました。
この時に兄弟間で皇位の譲り合いがあったため、代理として10か月ほど女兄弟である飯豊青皇女が摂政としての業務を行いました。最近ではこの女性を推古天皇の前に即位した日本最初の女帝とする考えもあります。
顕宗天皇は父を殺した雄略天皇への復讐の為に、その御陵を破壊することにして兄に相談すると、兄は二つ返事でこれを受けて御陵に自ら赴いて、古墳の上の土を少し削ったのです。
それを聞いて兄を責めた顕宗天皇でしたが、兄は「仇といえども、雄略天皇はこの国を治めた帝でありその御陵を破壊することは、あなたの名に傷が付きます。雄略天皇の墓を削ることで辱める事は致しましたのでそれで良いではございませんか」と言ったのです。
これで顕宗天皇はその怒りを静めました。顕宗天皇はわずか3年で崩御した為に、この後に兄が即位して仁賢天皇となるのです。
仁賢天皇には雄略天皇の娘が皇后として嫁ぎました。
今回、この話を紹介したのは何度も書いている七夕伝悦に絡む人物が登場しているからです
七夕伝説
雄略天皇の皇子と、仁賢天皇の皇女との恋
二人にはこういった周りの事情があるのですね。
さて、即位の時から死後まで多くの話に飾られた雄略天皇ですが、日本史的にはとても大事な一面も持っています。
埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土した鉄剣の銘に「獲加多支鹵大王(ワカタケルオオキミ)」と書かれていたのです。雄略天皇は大長谷若建命(おおはつせわかたけるのみこと)という和名がある事から、考古学として実在が証明された最古の天皇でもあるのです。