明治37年(1904)2月8日、連合国艦隊が旅順のロシア艦隊を攻撃したことから日露戦争が勃発しました。
宣戦布告はこの二日後になるのですが、実質上この日から日本とロシア帝国は約1年4ヶ月に及ぶ戦争に突入するのです。
以前に日本海海戦を紹介しましたから順番は逆になりますが、NHKのドラマ『坂の上の雲』でも、ちょうどこの辺りのシーンが弟2部と弟3部の境目になっていますので、今回は日露戦争開戦前から宣戦布告直前までをご紹介しましょう。
ちなみに先に余談ですが、日露戦争はその名前の割に決戦があった殆どの場所がお互いの国土とは違う場所で行なわれています。
この戦争で大きなポイントとなる2つの戦いがあるが、その1つは“旅順要塞の攻略”であり、もう1つは“日本海海戦”でした。
旅順は遼東半島の先端で、清国の領土でしたし、日本海も日本と朝鮮の間で対馬に近いとは言うものの、海戦の為に日本本土自体が被害を受けるという事は無かったのです。
そういう意味では不思議な戦争といえるかもしれません。
日露の戦力差は歩兵の大隊の数だけ比較しても、日本が156大隊に対しロシアが1740大隊と比べるのも馬鹿らしくなる兵力差があり、その他の騎馬・戦艦・生産力においても日本が勝てる要因は何も無かったともいえます。
そんな中でどんな戦争が行なわれていくのか?が大きなポイントとなるのです。
○日露関係
まずは、日露戦争までの経緯から…
江戸時代、鎖国化にあった日本と国交を結ぼうとして頑張っていたのがロシアだでした。
大黒屋光太夫など日本からの漂流民を保護し、日本に送り返す代わりに交流を結ぶ糸口を作ろうとしたのですが、その殆どは徳川幕府の徹底拒否の姿勢の中で達成されないで終わっています。
江戸時代後期、あまりの強硬姿勢に怒ったレザーノフというロシア船艦長が北海道東部や北方領土で海賊行為を行なったのですが、基本的にロシアは柔軟な姿勢で外交を行っていたのでした。
そして幕末。
シーボルト事件で日本を追われたシーボルトは世界中を駆け回って日本開国に向けて活動をします。
その話に乗ったのがアメリカとロシアで、アメリカはペリー、ロシアはプチャーチンを派遣して同時期に日本に迫りました。しかしプチャーチンが日本に来航した時には既にペリーが日本に開国を迫った後だったのです。
やがて、クリミア戦争の勃発で手が離せなくなったロシアは、アメリカから大きく遅れる事となり、日露関係は全てに置いてアメリカの一歩後を進むことになったのでした。
その後、日本に明治維新が起こり、政権が交代しても日露間の関係は同じ様な感じでしたが、小国である日本にとって近くの大国ロシアとの関係は悪くしてはならないモノであったため、日本政府はロシアに気を使って親善外交を行なったのです。この頃、ロシアは国内を横断するシベリア鉄道を建設中で、これが完成してロシア国内の移動が簡単なると、兵の移動も迅速になり、その時にロシアに侵略されない為にはどうしてもへりくだった外交にならざるを得なかったのです。
そんな、対等ではないながらも無事に行なわれていた対露外交に曇りが出たのは明治24年(1891)の事でした。
明治24年、東京に完成したニコライ堂を見学する為にロシア皇太子ニコライが来日したのですが、ニコライの警備に当っていた津田三蔵巡査に斬りかかられて重傷を負うのです(大津事件)。
日本司法界はこの時、三権分立を守る為に奮闘し、犯人である津田三蔵は死刑になりませんでした。
そして、大津事件をきっかけに日露間に妙な空気が流れ始めるのです。
明治27年(1894)、日清戦争勃発。
朝鮮の支配権を巡って行なわれた戦争は、全世界の予想を裏切って大国・清(中国)の敗北で終わる事となり、
日本は清政府に賠償として多くのモノを求め、特に遼東半島の租借を熱望するのですが、日本の勢力拡大を恐れた露・独・仏の三国がこれに口を挟み遼東半島の租借は6日間で終わってしまいます(三国干渉)。ここにロシアが入っていた事が日本国民の反感を買います。また三国干渉の後にロシアが遼東半島を租借した事から、日本はこの後ロシアを仮想敵国とする事になったのです。
日清戦争の後、諸外国は清国を食い物にし、中国大陸はは半植民地状態となったのでした。
中国大陸の半植民地化を憂いた中国の民衆が中心となって義和団の乱(北清事変)を起こします。
最初はただの民衆の反乱軍だった義和団だが、その勢力の大きさに期待した清王朝がひそかに支援をするようになるのです。そうしてますます拡大勢力はついに清朝正規軍に準ずる軍として北京にある諸外国の大使館を包囲するまでになったのでした。
これに対して、日本・ロシア・イギリス・フランス・ドイツ・イタリア・アメリカ・オーストリアの8国が居留民の保護を名目に軍を派遣。
清朝はこれに対して8国に対し宣戦布告、清対8国が緊張状態に陥ったのでした。
しかし、この時8国の軍の殆どはまだ中国大陸から遠い所に居た為に中国には少数の兵しか居なかったために、一番近い日本の軍に各国の期待が寄せられ、日本軍は迅速に行動し8国連合軍は清朝との戦いに勝って、義和団の乱は終結したのです。
この義和団の乱で日本は列強の仲間入りをする事となりました。
しかし、その一方でロシアはこの乱に便乗して満州を軍事占領してしまったのです。
この事がきっかけで日本とイギリスがロシアに警戒心を抱く事にもなりました。
○日英同盟
イギリスは当時、中国支配の筆頭とも言える地位に就いていました。
しかし、ロシアの急激な南下に危機感を感じて極東地域(アジア東部)に協力者を探していたのです。
そんな時、対露政策で意見が一致したのが日本でした。
こうして、日英同盟の動きが活発化します。
日本では同時に日露協商論という考えも展開されていました。
大国ロシアに対して小国である日本が逆らえる筈も無く、近所の国として協力し合おうという構想だったのですが、日露双方の意見が合わず、結局は日英間の同盟締結に至るのです。
日英同盟は軍事同盟として締結されましたが、対露を明確に示したものでもなく、その事がいきなり日露戦争に繋がるとは言い難い部分もありますが、当時“栄光ある独立”を公にしていたイギリスが日本と同盟した事によって、日本の国際的地位は格段に跳ね上がる事となったのです。
ロシアはこの状態に少なからず動揺したのか、満州から少しだけ兵を引いたのでした。
日英同盟がそのまま日露戦争に繋がるものではないにしても、戦争への道を大きく進めた出来事であった事には間違いが無く、逆に日英同盟が無かったら日露戦争は起こらなかった事は間違いありません。
そんな日英同盟に関わる面白い裏話があります。
ロシア皇帝の侍従に女好きの人物がいました。
その侍従の恋人・ヒルダは侍従が新しい恋人を作った為に侍従に復讐してやる事を思いついたそうです。
「この前聞いたロシア皇帝とドイツ皇帝の密談の内容を、イギリス外交官のメイドをしてる友達に話したら、彼もビックリするわ」
と思って、その友達に侍従から寝物語で聞いた話をそのまましゃべってしまいました。
当時ドイツはイギリスと敵対していて、ロシアと協力する事でイギリスを滅ぼす計画を立てて、独・露の国境に近い寒村で秘密会談を行ないました。侍従はそれに立ち会っていて、それをヒルダに夜の行為の途中で語っていたのです。
ヒルダの話はすぐにイギリス本土に伝わり、危険を感じたイギリスは日英同盟の締結を促進し、日本に日露戦争を煽ったと言われています。
男が油断して話す寝物語が、重大な歴史的事件に発展する例は結構存在するのですが、これは情けないお話しですよね。
さて、
・近代化の波に乗って勢力を蓄え列強の仲間入りを果たし、アジア進出を着々と進めていった日本。
・凍らない港を渇望し、南の領土を狙って近隣諸国に戦争を吹っかけていたロシア。
この2国が戦争をする事は、歴史的にも地勢学的にも避けられない状態となりました。
三国干渉の後、日本では“臥薪嘗胆”という言葉が流行し、その言葉通り耐え忍んで国内の軍事力を強化していったのでした。
この軍費を捻出する為に日本国内では増税が行なわれ、軍役もその期間が延長して国民には辛い時代に入るのですが、流行に過ぎなかった“臥薪嘗胆”がやがて国民を奮い立たせるスローガンにまでなってしまい、ロシアと戦う事のみが日本に残された道だと言う錯覚まで起こしそうな状態になるのです。
この半世紀後に起こる太平洋戦争では、国が国民に対する情報操作(大本営発表)を行なって世論を操作し、軍による恐怖統治で自由な発言が出来なかったように思われがちですが、実際はこの時のように世論が先に起こり、それによって国が戦争に向けて進んで行く事になるので、これが日本人の民族性なんでしょうね。
・強硬論は聞いていても頼もしく、耳に心地良い。
・現実を見据えた慎重論は強硬論の中では臆病者の言い訳にしか聞こえない。
太平洋戦争は、この事がいかに危ない事なのかを歴史が示してくれた一番の見本になるのですが、その事をちゃんと理解している教育者が少なすぎる事が、今の教育問題だったりします。
日英同盟締結と平行してどうにか戦争を起さないで済む様に日露協商に向けて交渉を行なった形跡もあるのですが、そのこと自体が日本国民の理解を得る事が出来なかったのです。
イギリスから日露戦争を煽られた後も、日露は協議を行い「日本は朝鮮を、ロシアは満州を管理し、お互いに領土を侵さない事」を日本側は提案するがロシアはこれを拒否しました。
ロシア国内もすでに国民の意識が開戦に向かっていたとも、戦争で儲けようとした人々が情報操作をしたともいわれていますが、ついに明治37年2月4日に日本政府がロシアとの国交を断念したのです。
○仁川沖の海戦
宣戦布告がされる前の2月9日深夜、旅順港から日本海のほうへ抜ける途中の仁川で日露の海戦が行われます。
もう日露の開戦が秒読みと思われていた時期に、日本の連合艦隊は旅順に艦隊を送ってロシア船を攻撃し、同時に仁川港へ日本艦隊別働隊が仁川にいるロシア船を攻撃する作戦だでした。
旅順港での攻撃は次に語るとして、仁川港では連合艦隊が14隻だったのに対し、ロシア艦隊はたった2隻しかなく、他の国の船も入っている港の中に潜んでいるしかないと思われたのです。
連合艦隊は執拗にロシア艦隊の退去を迫ります。
諸外国の代表は宣戦布告前に戦争を始めようとする日本に抗議するのですが、日本の意志の固さを知って、ロシア艦隊に降伏か退去を勧めました。
降伏はできないという結論になったロシア艦隊の隊長・ワリャーグ艦長は、運を天に任せ出航。
結局天は味方せず、2隻とも沈む事となりました。
この時、日本側の被害は人的・物的共に皆無。
この勝利がその後の戦争の行方を運命付ける結果となったのだです。
○旅順攻略作戦
仁川沖海戦と同時に行なわれた旅順港のロシア艦隊への攻撃は、そんなに難しい事とは思われていませんでした。
日本艦隊15隻に対してロシア艦隊26隻とロシアの方が数では勝っていたのですが、旅順は10年前の日清戦争でも戦場になっていて、ここを日本が何の問題も無く制圧できた経験があったからだでした。
日本側の意向としては、ロシアの主力艦隊であるバルチック艦隊が参戦する前に、前衛基地の旅順を落とす事が日本海上の制海権を握る事と考えていたのです。
こうして、2月8日深夜に旅順攻略作戦が開始されます。
この夜から日の変わってしばらくの頃にかけて、油断しきっているロシア艦隊に夜襲をかけた連合艦隊はロシア船3隻を大破させたのでした。
ロシア船3隻を大破させるという事は、まずまずの戦果だったといっても過言ではなく、勢いに乗った連合艦隊は9日の朝に総攻撃を行なって、一気に旅順要塞の攻略を企てたのです。
2月9日午前11時45分、有名な「勝敗の決、この一戦にあり。各員努力せよ」の信号旗の合図と共に総攻撃が開始されます。
旅順要塞は多くの火力を備えていて、その砲撃で海には多くの水柱が立った。
それでも怯まない連合艦隊は旅順目指してすすみ、3500mまで近付いた所で猛射を行ないながら敵前を横断、そして急に方向を変えて沖へと退去していったのでした。
その時間たった30分。
日露双方とも修理可能な損害しかなく、連合艦隊の攻略失敗としか思えない状況だったのです。
そのままロシア艦隊を追い出した仁川港外まで進んだ連合艦隊は10日に同所で投錨。
同日に宣戦布告が行なわれたのでした。
日露戦争の当面の戦場は、旅順を巡る地点に集中することとなります。
宣戦布告はこの二日後になるのですが、実質上この日から日本とロシア帝国は約1年4ヶ月に及ぶ戦争に突入するのです。
以前に日本海海戦を紹介しましたから順番は逆になりますが、NHKのドラマ『坂の上の雲』でも、ちょうどこの辺りのシーンが弟2部と弟3部の境目になっていますので、今回は日露戦争開戦前から宣戦布告直前までをご紹介しましょう。
ちなみに先に余談ですが、日露戦争はその名前の割に決戦があった殆どの場所がお互いの国土とは違う場所で行なわれています。
この戦争で大きなポイントとなる2つの戦いがあるが、その1つは“旅順要塞の攻略”であり、もう1つは“日本海海戦”でした。
旅順は遼東半島の先端で、清国の領土でしたし、日本海も日本と朝鮮の間で対馬に近いとは言うものの、海戦の為に日本本土自体が被害を受けるという事は無かったのです。
そういう意味では不思議な戦争といえるかもしれません。
日露の戦力差は歩兵の大隊の数だけ比較しても、日本が156大隊に対しロシアが1740大隊と比べるのも馬鹿らしくなる兵力差があり、その他の騎馬・戦艦・生産力においても日本が勝てる要因は何も無かったともいえます。
そんな中でどんな戦争が行なわれていくのか?が大きなポイントとなるのです。
○日露関係
まずは、日露戦争までの経緯から…
江戸時代、鎖国化にあった日本と国交を結ぼうとして頑張っていたのがロシアだでした。
大黒屋光太夫など日本からの漂流民を保護し、日本に送り返す代わりに交流を結ぶ糸口を作ろうとしたのですが、その殆どは徳川幕府の徹底拒否の姿勢の中で達成されないで終わっています。
江戸時代後期、あまりの強硬姿勢に怒ったレザーノフというロシア船艦長が北海道東部や北方領土で海賊行為を行なったのですが、基本的にロシアは柔軟な姿勢で外交を行っていたのでした。
そして幕末。
シーボルト事件で日本を追われたシーボルトは世界中を駆け回って日本開国に向けて活動をします。
その話に乗ったのがアメリカとロシアで、アメリカはペリー、ロシアはプチャーチンを派遣して同時期に日本に迫りました。しかしプチャーチンが日本に来航した時には既にペリーが日本に開国を迫った後だったのです。
やがて、クリミア戦争の勃発で手が離せなくなったロシアは、アメリカから大きく遅れる事となり、日露関係は全てに置いてアメリカの一歩後を進むことになったのでした。
その後、日本に明治維新が起こり、政権が交代しても日露間の関係は同じ様な感じでしたが、小国である日本にとって近くの大国ロシアとの関係は悪くしてはならないモノであったため、日本政府はロシアに気を使って親善外交を行なったのです。この頃、ロシアは国内を横断するシベリア鉄道を建設中で、これが完成してロシア国内の移動が簡単なると、兵の移動も迅速になり、その時にロシアに侵略されない為にはどうしてもへりくだった外交にならざるを得なかったのです。
そんな、対等ではないながらも無事に行なわれていた対露外交に曇りが出たのは明治24年(1891)の事でした。
明治24年、東京に完成したニコライ堂を見学する為にロシア皇太子ニコライが来日したのですが、ニコライの警備に当っていた津田三蔵巡査に斬りかかられて重傷を負うのです(大津事件)。
日本司法界はこの時、三権分立を守る為に奮闘し、犯人である津田三蔵は死刑になりませんでした。
そして、大津事件をきっかけに日露間に妙な空気が流れ始めるのです。
明治27年(1894)、日清戦争勃発。
朝鮮の支配権を巡って行なわれた戦争は、全世界の予想を裏切って大国・清(中国)の敗北で終わる事となり、
日本は清政府に賠償として多くのモノを求め、特に遼東半島の租借を熱望するのですが、日本の勢力拡大を恐れた露・独・仏の三国がこれに口を挟み遼東半島の租借は6日間で終わってしまいます(三国干渉)。ここにロシアが入っていた事が日本国民の反感を買います。また三国干渉の後にロシアが遼東半島を租借した事から、日本はこの後ロシアを仮想敵国とする事になったのです。
日清戦争の後、諸外国は清国を食い物にし、中国大陸はは半植民地状態となったのでした。
中国大陸の半植民地化を憂いた中国の民衆が中心となって義和団の乱(北清事変)を起こします。
最初はただの民衆の反乱軍だった義和団だが、その勢力の大きさに期待した清王朝がひそかに支援をするようになるのです。そうしてますます拡大勢力はついに清朝正規軍に準ずる軍として北京にある諸外国の大使館を包囲するまでになったのでした。
これに対して、日本・ロシア・イギリス・フランス・ドイツ・イタリア・アメリカ・オーストリアの8国が居留民の保護を名目に軍を派遣。
清朝はこれに対して8国に対し宣戦布告、清対8国が緊張状態に陥ったのでした。
しかし、この時8国の軍の殆どはまだ中国大陸から遠い所に居た為に中国には少数の兵しか居なかったために、一番近い日本の軍に各国の期待が寄せられ、日本軍は迅速に行動し8国連合軍は清朝との戦いに勝って、義和団の乱は終結したのです。
この義和団の乱で日本は列強の仲間入りをする事となりました。
しかし、その一方でロシアはこの乱に便乗して満州を軍事占領してしまったのです。
この事がきっかけで日本とイギリスがロシアに警戒心を抱く事にもなりました。
○日英同盟
イギリスは当時、中国支配の筆頭とも言える地位に就いていました。
しかし、ロシアの急激な南下に危機感を感じて極東地域(アジア東部)に協力者を探していたのです。
そんな時、対露政策で意見が一致したのが日本でした。
こうして、日英同盟の動きが活発化します。
日本では同時に日露協商論という考えも展開されていました。
大国ロシアに対して小国である日本が逆らえる筈も無く、近所の国として協力し合おうという構想だったのですが、日露双方の意見が合わず、結局は日英間の同盟締結に至るのです。
日英同盟は軍事同盟として締結されましたが、対露を明確に示したものでもなく、その事がいきなり日露戦争に繋がるとは言い難い部分もありますが、当時“栄光ある独立”を公にしていたイギリスが日本と同盟した事によって、日本の国際的地位は格段に跳ね上がる事となったのです。
ロシアはこの状態に少なからず動揺したのか、満州から少しだけ兵を引いたのでした。
日英同盟がそのまま日露戦争に繋がるものではないにしても、戦争への道を大きく進めた出来事であった事には間違いが無く、逆に日英同盟が無かったら日露戦争は起こらなかった事は間違いありません。
そんな日英同盟に関わる面白い裏話があります。
ロシア皇帝の侍従に女好きの人物がいました。
その侍従の恋人・ヒルダは侍従が新しい恋人を作った為に侍従に復讐してやる事を思いついたそうです。
「この前聞いたロシア皇帝とドイツ皇帝の密談の内容を、イギリス外交官のメイドをしてる友達に話したら、彼もビックリするわ」
と思って、その友達に侍従から寝物語で聞いた話をそのまましゃべってしまいました。
当時ドイツはイギリスと敵対していて、ロシアと協力する事でイギリスを滅ぼす計画を立てて、独・露の国境に近い寒村で秘密会談を行ないました。侍従はそれに立ち会っていて、それをヒルダに夜の行為の途中で語っていたのです。
ヒルダの話はすぐにイギリス本土に伝わり、危険を感じたイギリスは日英同盟の締結を促進し、日本に日露戦争を煽ったと言われています。
男が油断して話す寝物語が、重大な歴史的事件に発展する例は結構存在するのですが、これは情けないお話しですよね。
さて、
・近代化の波に乗って勢力を蓄え列強の仲間入りを果たし、アジア進出を着々と進めていった日本。
・凍らない港を渇望し、南の領土を狙って近隣諸国に戦争を吹っかけていたロシア。
この2国が戦争をする事は、歴史的にも地勢学的にも避けられない状態となりました。
三国干渉の後、日本では“臥薪嘗胆”という言葉が流行し、その言葉通り耐え忍んで国内の軍事力を強化していったのでした。
この軍費を捻出する為に日本国内では増税が行なわれ、軍役もその期間が延長して国民には辛い時代に入るのですが、流行に過ぎなかった“臥薪嘗胆”がやがて国民を奮い立たせるスローガンにまでなってしまい、ロシアと戦う事のみが日本に残された道だと言う錯覚まで起こしそうな状態になるのです。
この半世紀後に起こる太平洋戦争では、国が国民に対する情報操作(大本営発表)を行なって世論を操作し、軍による恐怖統治で自由な発言が出来なかったように思われがちですが、実際はこの時のように世論が先に起こり、それによって国が戦争に向けて進んで行く事になるので、これが日本人の民族性なんでしょうね。
・強硬論は聞いていても頼もしく、耳に心地良い。
・現実を見据えた慎重論は強硬論の中では臆病者の言い訳にしか聞こえない。
太平洋戦争は、この事がいかに危ない事なのかを歴史が示してくれた一番の見本になるのですが、その事をちゃんと理解している教育者が少なすぎる事が、今の教育問題だったりします。
日英同盟締結と平行してどうにか戦争を起さないで済む様に日露協商に向けて交渉を行なった形跡もあるのですが、そのこと自体が日本国民の理解を得る事が出来なかったのです。
イギリスから日露戦争を煽られた後も、日露は協議を行い「日本は朝鮮を、ロシアは満州を管理し、お互いに領土を侵さない事」を日本側は提案するがロシアはこれを拒否しました。
ロシア国内もすでに国民の意識が開戦に向かっていたとも、戦争で儲けようとした人々が情報操作をしたともいわれていますが、ついに明治37年2月4日に日本政府がロシアとの国交を断念したのです。
○仁川沖の海戦
宣戦布告がされる前の2月9日深夜、旅順港から日本海のほうへ抜ける途中の仁川で日露の海戦が行われます。
もう日露の開戦が秒読みと思われていた時期に、日本の連合艦隊は旅順に艦隊を送ってロシア船を攻撃し、同時に仁川港へ日本艦隊別働隊が仁川にいるロシア船を攻撃する作戦だでした。
旅順港での攻撃は次に語るとして、仁川港では連合艦隊が14隻だったのに対し、ロシア艦隊はたった2隻しかなく、他の国の船も入っている港の中に潜んでいるしかないと思われたのです。
連合艦隊は執拗にロシア艦隊の退去を迫ります。
諸外国の代表は宣戦布告前に戦争を始めようとする日本に抗議するのですが、日本の意志の固さを知って、ロシア艦隊に降伏か退去を勧めました。
降伏はできないという結論になったロシア艦隊の隊長・ワリャーグ艦長は、運を天に任せ出航。
結局天は味方せず、2隻とも沈む事となりました。
この時、日本側の被害は人的・物的共に皆無。
この勝利がその後の戦争の行方を運命付ける結果となったのだです。
○旅順攻略作戦
仁川沖海戦と同時に行なわれた旅順港のロシア艦隊への攻撃は、そんなに難しい事とは思われていませんでした。
日本艦隊15隻に対してロシア艦隊26隻とロシアの方が数では勝っていたのですが、旅順は10年前の日清戦争でも戦場になっていて、ここを日本が何の問題も無く制圧できた経験があったからだでした。
日本側の意向としては、ロシアの主力艦隊であるバルチック艦隊が参戦する前に、前衛基地の旅順を落とす事が日本海上の制海権を握る事と考えていたのです。
こうして、2月8日深夜に旅順攻略作戦が開始されます。
この夜から日の変わってしばらくの頃にかけて、油断しきっているロシア艦隊に夜襲をかけた連合艦隊はロシア船3隻を大破させたのでした。
ロシア船3隻を大破させるという事は、まずまずの戦果だったといっても過言ではなく、勢いに乗った連合艦隊は9日の朝に総攻撃を行なって、一気に旅順要塞の攻略を企てたのです。
2月9日午前11時45分、有名な「勝敗の決、この一戦にあり。各員努力せよ」の信号旗の合図と共に総攻撃が開始されます。
旅順要塞は多くの火力を備えていて、その砲撃で海には多くの水柱が立った。
それでも怯まない連合艦隊は旅順目指してすすみ、3500mまで近付いた所で猛射を行ないながら敵前を横断、そして急に方向を変えて沖へと退去していったのでした。
その時間たった30分。
日露双方とも修理可能な損害しかなく、連合艦隊の攻略失敗としか思えない状況だったのです。
そのままロシア艦隊を追い出した仁川港外まで進んだ連合艦隊は10日に同所で投錨。
同日に宣戦布告が行なわれたのでした。
日露戦争の当面の戦場は、旅順を巡る地点に集中することとなります。