彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

2月28日、千利休切腹

2011年02月28日 | 何の日?
天正19年(1591)2月28日、千利休が豊臣秀吉の命で切腹しました。享年70歳。

千利休の人生は、政治というよりも文化のみに生きるというものでした。美しい物や歴史のある物に文化的な価値を与え続けたのです。
それは、茶道具として使われたものだけではなく、日常食器として作られた信楽焼や漁師が使う魚を入れる駕籠にまで至りました。ルソンの壺と呼ばれる、今のフィリピンあたりで使われてtいた壺は、利休がその美しさを指摘したために日本では国一国の価値があるともいわれる物となりました。
ですが、現地での使われ方は便器とも痰入れとも言われている汚物入れだったのです。

この事実を知ったとき、秀吉は怒ったといわれていますが、利休はただ美しさを追求するだけでその始まりはどうでもいいことでした。
利休は、美しさを追求したためにその目は確かであり、だからこそ権力者に利用されました。織田信長は、部下の手柄に与える恩賞が土地ではいずれ頭打ちがあるために、土を捏ねて作った茶道具ならば無尽蔵に恩賞を与え続けられるという先読みから茶道具の価値を高めたといわれています。
信長は、茶を政治に使うことを常識とし、それを引き継いだ秀吉は信長の深い読みがなかったために利休の本当の使い方がわからないまま登用しました。だからこそルソンの壺くらいで怒ることになるんです。

それでも、秀吉の弟である秀長存命中は秀吉と利休の間を取り持ち、九州から大坂に挨拶にやってきた大友宗麟は「内々のことは宗易(利休)、公儀のことは宰相(秀長)存じ候」と秀長に言われたと記録に残しています。この段階では、豊臣政権の内部のことは利休・公のことは秀長によって運営されていたことにないます。利休はそれくらい大きな力を持つまでになったのです。



天正19年1月22日、豊臣秀長病没。
仲裁役がいなくなった利休と秀吉に今までのような関係は続きませんでした。
一般的には、南禅寺の山門の上に利休の木像を置いたことで秀吉の怒りを買ったといわれていますが、それは理由付けの一つでしかないと思います。とにかく、利休は政治座から追われました。
【南禅寺山門】


2月13日、京を出た利休は堺の屋敷に向かいます。



南禅寺の木像は2月25日に磔となります。
そして2月26日、京の聚楽第の屋敷に利休は呼び戻されます。

28日、秀吉から蒔田淡路守、尼子三郎左衛門、安威摂津守が利休切腹の命を伝える使者として訪れます。
利休は彼らを茶で招いたあと、切腹して果てたのです。このときの介錯人が蒔田であったという説と、蒔田はただの見届人であったとの説がありますが、どちらにしても利休は秀長の死からひと月程度で亡くなり、豊臣政権はいい意味では世代交代、悪い意味では柱石を失ったことになるのです。


さて、秀吉の使者として利休に切腹を伝えた人物のなかに尼子三郎左衛門という人物がいます。
尼子宗長との名があるこの人物は、福島正則の家臣で、のちに福島家が改易になると藤堂高虎に仕えた人物ですが、その姓の示す通り近江尼子氏の末裔との話が、ネット上の尼子氏の系図に書かれていました、しかも近江に住んでいた時期があるようで滋賀県内の城郭調査の中では尼子城の城主として記録が残る尼子三郎左衛門(同名)と何らかの関係があるか、当人と考えている節が見受けられます。実際にはどこまでが真実なのかわからない部分もありますが、近江尼子氏の名が出る少ない事例の一つではあるようですね。
コメント
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