彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

織田信長に愛された側室が住んだ館

2015年06月14日 | ふることふみ(DADAjournal)
 戦国史のみではなく、日本史の流れを大きく変えた事件の一つに本能寺の変が挙げられる。織田信長の死は同じ時代を生きた人々の運命にさまざまな影響を与えた。そんな信長が晩年に最も信頼し、本能寺の変の後は信長の妻妾たちの中心となって活動した人物が「お鍋の方」だ。
 近江が六角氏と京極氏によって支配されていた頃、永源寺辺りから愛知川右岸地域を中心に大きな勢力を持っていた小倉氏という一族がいた。小倉氏は京極氏に従って六角氏に対する楔のような役割があったのだが、一族で内紛が起こり幾つもの家に分かれ、六角氏に従う者も出るようになる。そんな六角氏に従った家の一つが、永源寺近くの高野城城主小倉東家だった。
 織田信長が桶狭間の戦いで全国に名を知られる前年、小倉東家の当主だった小倉実房はすでに信長との交流があったらしい、信長が上洛すると帰路の手助けをしたと伝わっている。そして金ヶ崎の戦いの後に信長が京から岐阜へと戻った千種峠を越える道も案内したのだ。このとき、信長は六角義賢の敵であり、敵を助けた罪で小倉実房は六角氏に攻め滅さてれしまう。
 実房の妻は男子二人を連れて岐阜城の信長を訪ね「夫はあなたを助けて討たれたので、この子達を助けて欲しい」と訴える。すると信長はその女性を自らの側室にして二人の男子を側近としたのだった。この女性こそがお鍋の方なのです。
 この後、お鍋の方は信長との間に二人の男子(信高・信吉)と一人の女子(於振)を産み、信長の信頼も厚く、安土城での奥向きをまとめるようになった。
 しかし本能寺の変が起こる。信長に仕えていた実房の子の一人は信長と共に亡くなり、お鍋の方は信長の家族を叱咤激励しながら日野城に移り、岐阜城下の崇福寺に書状と信長の位牌を送っている。しばらくして羽柴秀吉が信長死後の混乱を治めると、室房の居城だった高野館と周囲の地そして犬上郡宇尾村(彦根市宇尾町)を含めた二千石が、秀吉から息子の織田信吉に与えられ、お鍋の方も犬上郡の内で四百石を領し高野館に住んだと伝わっている。一説にはこの後に東殿(大谷吉継の母)と共に北政所(秀吉の正室おね)に仕えたとも言われていて、この縁から信吉は関ヶ原で大谷吉継の指揮下にあった平塚為広と共に西軍として戦い、戦後に所領が没収され、お鍋の方と信吉は京で静かに余生を過ごしたのだった。だが京に隠棲した頃は文化人として多くの公家との交流があったとも伝えられている。

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菩提山城址訪問

2015年06月14日 | 史跡
竹中半兵衛の居城として知られている菩提山城に登ってきました。

まずは江戸時代に竹中氏陣屋が置かれた麓の櫓門から訪問

石垣もよく残しています






そして目的の菩提寺山に…


竹中氏の菩提寺である禅幡寺から登ります。

半月ほど前に熊が出たとのこと、そういう山だということをしっかり認識して登城せねばなりません。

しばらく登ると面白い場所が…

「イノシシのお風呂」とのことでした、混浴と明記されているのがユーモアあります。

そんな物に癒やされながら、ゆっくり山を登ります。


休憩を入れながら出発から1時間半程度でついに菩提山城の入り口となる土橋と堀切に到着しました。

本丸に向かって進む道の横には、明らかに人の手で削平された跡も見受けられます。

そして大堀切と切岸、これだけでももう山城としていい物を観させてもらった気分です。

この堀切を越えると大きな曲輪に出逢います。たぶん普通の山城なら主郭となる規模の曲輪です。

その奥にもまた大堀切が出てきます。

そしてまた堀切の奥に広い曲輪があり横に腰曲輪を備えています。

はっきり言えば、これだけで中世山城としては最大級と言ってもいいくらいです、しかしこの城はそんな物でありません、奥の曲輪には端に土塁を積み、そこから下る場所にも複雑に掘り積みされた備えがあるのです。

この段階でまだ城の1/3程度しか見ていません。
本丸(主郭)に向かうまでにある台所郭

ここにある岩は夜な夜な泣く岩なんだそうです。そういう怪談話は大好物ですが、そういう伝承が無くても趣を残す岩でした。


そして主郭へ…

まず驚くのは主郭と同規模の副郭があり喰い違い虎口であり馬出でもある装備で間が区切られていることです。
 



そして主郭からの展望は素晴らしいです。

逆説的に考えて、この城を任されるということは余程の信頼が無ければだめなのではないかと思います。竹中半兵衛は斎藤家中でさまざまないじめを受けたとの話がありますが、信頼を受けられないならウツケに徹しないと言い掛かりをつけられて攻められる可能性は大いにあります。

続いて西の丸へ

ここにも堅堀とか大きな曲輪がありました。





相対的に考えて、この城は竹中半兵衛の時代にすべて完成していたとは考えられません、せいぜい主郭と副郭を中心にあればいい方だったと思います。
平野部を見渡せて、なおかつ堅固な山城を築いたとしたら、斎藤龍興は謀反の言い掛かりをつけてすぐにこの城を攻めたと思います。稲葉山城乗っ取りの後で城を龍興に返した半兵衛が近江で隠居したのは、少しでも謀反の様子を見せたら竹中家が滅んでしまうことを危惧したからだとも考えられます。
それならば、稲葉山城を少人数で乗っ取ったような人物は、こんな斎藤家にとって危険な山城から出て行くというパフォーマンスをして家を残し拠点も残す策の方が有利だと思います。
もし半兵衛の時期にこの規模の城だったなら、龍興は半兵衛が城から出たとしても禍根を断つ挙兵をしたと思うのです。

案内して下さった先生方の話では、関ヶ原の戦いの時に、もし家康が負けたとしても逃げ込めるために城の構えを強固にしたらしい。との話もあるそうです。
佐和山と大垣に挟まれたこの地でそれがどこまで可能だったのかも再検証が必要だとは思いますが、竹中半兵衛ではなく重門の時代に堅固な城にしたというのは納得できました。
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