天正17年(1589)9月28日、南渓瑞聞が亡くなりました。
井伊直虎の大叔父(祖父の弟)で、直虎の人生において常に支えとなった人物が南渓和尚です。
以前は井伊直平の実子の次男(もしくは三男)と言われていましたが、井伊谷龍潭寺の過去帳を見ると、父は「実田秀公居士」母は「善室賢修大姉」とあり両親の名前(戒名)は直平以外の人物が記されていて、現在では井伊家に養子として迎えられたのではないかと考えられるようになりました。
武士の家では殺生が日常であるために、一族の者から僧籍に入れることで一族が救われるとも信じられていました。南渓和尚の両親と井伊直平がどのような関係にあったのかも資料はありませんが、もしかしら僧籍に入れるために井伊家の養子に入った可能性もあるのです。
南渓は、直平が井伊谷に招いた黙宗瑞淵(龍潭寺一世)に学び、龍潭寺二世となるのです。また桶狭間の戦いの後には今川義元の葬儀の総括(安骨大導師)を任されたほどでした。
9月18日の直平の命日の時にも書きましたが、井伊家は南渓の兄弟である直宗・直満・直義が不幸な死に方をし、甥の直盛は桶狭間で討死、直親は今川氏真の意で暗殺されました。
また、井伊家を支えた一門の奥山朝利は井伊家家老の小野但馬に雑害され、その後の井伊家を支えた義父直平も毒殺されてしまったのです。
井伊家は、残った男子である虎松(のちの直政)を育てるために直盛の義兄・新野左馬助と一門の中野直由を後見としますが、新野と中野も引馬城攻めの最中に安間橋において討死。
南渓は、龍潭寺で出家していた直盛の娘・次郎法師を直虎と名乗らせ女地頭として井伊家当主とし自らが後見として井伊家を守ったのです。
今川氏真の介入を直虎が支えきれず、井伊家はいったん地頭としての地位を失い直虎も龍潭寺の尼に戻ります。そして武田信玄の侵攻によって井伊谷や龍潭寺は火の海となったのです。
そんな苦労を乗り終えて虎松が15歳のとき、南渓は直虎や虎松の母とはかって虎松と徳川家康の面会を浜松城下で演出します。
そして井伊家の発展の基礎を虎松(家康に仕えて万千代と改名)に託したのです。
直虎と万千代の活躍を聞いていたであろう南渓でしたが、今度は直虎の死に立ち会うことになります。
その後、万千代は元服し直政と名乗り、赤備えを託されて小牧長久手の戦いなどで活躍、豊臣秀吉にも愛されて侍従任官と、昔の井伊家を取り戻すような活躍を見せますが、南渓はそのすべての報せを聞く立場にありました。
しかし、豊臣秀吉が天下を統一する直前にその生涯を閉じたのです。
よく井伊直平や直虎が井伊家の不幸を体感した人物として挙げられますが、本当の意味で井伊家の殆どの男たちの死と女地頭にまでなった直虎の死まで経験した井伊家の不幸を知り尽くした人物は南渓瑞聞だったのです。
〇龍潭寺の南渓肖像画(直虎命日法要で本堂に出ていましたが普段は撮影できません)

〇2016年に発見された妙雲院の南渓和尚の位牌

関連地 浜松市北区引佐町 龍潭寺・妙雲院
井伊直虎の大叔父(祖父の弟)で、直虎の人生において常に支えとなった人物が南渓和尚です。
以前は井伊直平の実子の次男(もしくは三男)と言われていましたが、井伊谷龍潭寺の過去帳を見ると、父は「実田秀公居士」母は「善室賢修大姉」とあり両親の名前(戒名)は直平以外の人物が記されていて、現在では井伊家に養子として迎えられたのではないかと考えられるようになりました。
武士の家では殺生が日常であるために、一族の者から僧籍に入れることで一族が救われるとも信じられていました。南渓和尚の両親と井伊直平がどのような関係にあったのかも資料はありませんが、もしかしら僧籍に入れるために井伊家の養子に入った可能性もあるのです。
南渓は、直平が井伊谷に招いた黙宗瑞淵(龍潭寺一世)に学び、龍潭寺二世となるのです。また桶狭間の戦いの後には今川義元の葬儀の総括(安骨大導師)を任されたほどでした。
9月18日の直平の命日の時にも書きましたが、井伊家は南渓の兄弟である直宗・直満・直義が不幸な死に方をし、甥の直盛は桶狭間で討死、直親は今川氏真の意で暗殺されました。
また、井伊家を支えた一門の奥山朝利は井伊家家老の小野但馬に雑害され、その後の井伊家を支えた義父直平も毒殺されてしまったのです。
井伊家は、残った男子である虎松(のちの直政)を育てるために直盛の義兄・新野左馬助と一門の中野直由を後見としますが、新野と中野も引馬城攻めの最中に安間橋において討死。
南渓は、龍潭寺で出家していた直盛の娘・次郎法師を直虎と名乗らせ女地頭として井伊家当主とし自らが後見として井伊家を守ったのです。
今川氏真の介入を直虎が支えきれず、井伊家はいったん地頭としての地位を失い直虎も龍潭寺の尼に戻ります。そして武田信玄の侵攻によって井伊谷や龍潭寺は火の海となったのです。
そんな苦労を乗り終えて虎松が15歳のとき、南渓は直虎や虎松の母とはかって虎松と徳川家康の面会を浜松城下で演出します。
そして井伊家の発展の基礎を虎松(家康に仕えて万千代と改名)に託したのです。
直虎と万千代の活躍を聞いていたであろう南渓でしたが、今度は直虎の死に立ち会うことになります。
その後、万千代は元服し直政と名乗り、赤備えを託されて小牧長久手の戦いなどで活躍、豊臣秀吉にも愛されて侍従任官と、昔の井伊家を取り戻すような活躍を見せますが、南渓はそのすべての報せを聞く立場にありました。
しかし、豊臣秀吉が天下を統一する直前にその生涯を閉じたのです。
よく井伊直平や直虎が井伊家の不幸を体感した人物として挙げられますが、本当の意味で井伊家の殆どの男たちの死と女地頭にまでなった直虎の死まで経験した井伊家の不幸を知り尽くした人物は南渓瑞聞だったのです。
〇龍潭寺の南渓肖像画(直虎命日法要で本堂に出ていましたが普段は撮影できません)

〇2016年に発見された妙雲院の南渓和尚の位牌

関連地 浜松市北区引佐町 龍潭寺・妙雲院