彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

鎮守屋敷

2020年05月23日 | 史跡
前回、大阪市阿倍野区の北畠顕家の墓を紹介しまたが、近くにはもう一か所お墓があります。



堺市西区にある鎮守屋敷は、石津の戦いの古戦場であり、この地で顕家が討死したとの説もあり江戸時代には「行家」と刻まれた墓石がありこの名が平安時代末期に暗躍した源行家の墓とも、「ゆきいえ」ではな「あきいえ」の墓で、北畠顕家の墓ではないか?(行家も顕家も共に源氏)とも言われています。




阿倍野も石津も北畠顕家に関わる建武5年5月22日の戦場であることは間違いないのですが、戦場が「阿倍野→石津」か「石津→阿倍野」に移動したかによって顕家終焉の地が二か所になったのです。

昭和12年(1937)、顕家の600回忌を記念した「没後六百年祭」で、重臣南部師行ら家臣も含んだ新たに供養塔も建立されました。






余談ですが、石津の戦いより前の青野ケ原の戦いでは、宗良親王に従った井伊家も参戦していたはずですが、石津の戦いの前に宗良親王や井伊家の人々は遠州井伊谷に戻ったと考えられます。
新田義貞の次男義興も関東に移動していて、関東で戦う義興の家臣には井伊弾正直秀の名前が登場します。
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