文久3年(1863)3月13日、壬生浪士隊が会津藩お預かりとなりました。
将軍の上洛警護という名目で京に上ったことが、のちに新選組となる集団の最初となりますが、これは上洛直後に京での仕事が将軍警護ではないことがわかり、近藤勇・芹沢鴨らが脱退して新しい集団を作り京の壬生に腰を落ち着けました。
そして京都守護職の松平容保に売り込みをかけて、認められて13人の隊士からなる会津藩預かりの浪人組織が確立したのです。
ちなみに「新選組」と名乗るのは禁門の変辺りからだそうです。
会津藩預かりとなった壬生浪士隊は、それでも金に困っていまました。この為に芹沢鴨は山南敬助や永倉新八を連れて大坂の鴻池から二百両を脅し取りました。会津藩がこれに驚いて鴻池に金を返済しています。
その金でユニホームと“誠”の大旗を作ったのです。
旗が完成し、頓所に届いたとき、隊士は大いに喜んで代わる代わる旗を振ったり回したりしたそうです。
その旗の下で、ほとんどの隊士が数年以内に命を落とすとは思いもよらなかったことでしょうね。
将軍の上洛警護という名目で京に上ったことが、のちに新選組となる集団の最初となりますが、これは上洛直後に京での仕事が将軍警護ではないことがわかり、近藤勇・芹沢鴨らが脱退して新しい集団を作り京の壬生に腰を落ち着けました。
そして京都守護職の松平容保に売り込みをかけて、認められて13人の隊士からなる会津藩預かりの浪人組織が確立したのです。
ちなみに「新選組」と名乗るのは禁門の変辺りからだそうです。
会津藩預かりとなった壬生浪士隊は、それでも金に困っていまました。この為に芹沢鴨は山南敬助や永倉新八を連れて大坂の鴻池から二百両を脅し取りました。会津藩がこれに驚いて鴻池に金を返済しています。
その金でユニホームと“誠”の大旗を作ったのです。
旗が完成し、頓所に届いたとき、隊士は大いに喜んで代わる代わる旗を振ったり回したりしたそうです。
その旗の下で、ほとんどの隊士が数年以内に命を落とすとは思いもよらなかったことでしょうね。