大坂夏の陣の井伊直孝は、大坂城落城時に豊臣秀頼と淀の方が籠った山里曲輪を囲い、投降を呼びかけましたが返事がなかったため、鉄砲を撃ちかけ、秀頼と淀の方らの自害を認めたところまで続きます。
どんな形にせよ、大坂夏の陣により豊臣氏は滅びました。
後に井伊神社の鳥居の麓に分けられたので、彦根市内には二か所に血染めのススキがあります。
ひとつの説として、各地で敗北した秀頼はすでに降伏していて安心して気が抜けた大坂城の兵が火を使ったまま眠ってしまった失火で天守が燃えてしまい勘違いした直孝が秀頼らを追い詰めたとも言われています。
どんな形にせよ、大坂夏の陣により豊臣氏は滅びました。
そして、彦根に凱旋する井伊軍の中に、若江堤に生息するススキで丁寧に木村重成の首を包んで運ぶ安藤長三郎がいたのです。
長三郎は、彦根城下に建立された宗安寺に安藤家の墓を建立し、ここに重成の首塚を作りましたが、そのことは明治まで伏せられました。
首を包んだススキは、佐和山神社に植えられ「血染めのススキ」と呼ばれましたが、佐和山神社が井伊神社に合祀されたときに宗安寺に移されます。
後に井伊神社の鳥居の麓に分けられたので、彦根市内には二か所に血染めのススキがあります。