鎌倉市大船の常楽寺は、北条義時の後を継いで鎌倉幕府三代執権を務めた北条泰時を開基とする名刹です。
泰時の妻の母の追善供養のために建立された粟船御堂が、五代執権北条時頼(泰時の孫、時宗の父)の招きで南宋から来日した蘭渓道隆が七年間住持を務め臨済宗の元になる禅宗を伝来させたことから臨済宗の大切な寺の一つになります。
まずは、開基である北条泰時
そして圓通大應國師
圓通大應國師こと南浦紹明は、鎌倉時代前期の臨済宗の僧です。
建長寺の蘭渓道隆に学んだ後、宋に渡り帰国後は後宇多上皇の招きで万寿寺(京都五山の一山)の住持を務めたのちに建長寺の住持も務めました。
没後に後宇多上皇に「圓通大應」の國師号が贈られるのですが、これは日本初の國師号となり、圓通大應國師が臨済宗の法系の祖となります。
圓通大應國師と常楽寺に直接の関わりが見えないのですが、上記の通り蘭渓道隆が来日してから建長寺が建立され入るまでの七年間は常楽寺に滞在していたことから「常楽は建長の根本」との考え方もあったため、臨済宗の根本である常楽寺に墓が作られたとも考えることができるかもしれません。
もう一基は中央に建立されているのが、中興の龍淵胤和尚の墓です。
この人は、龍渕存胤という名で建長寺住持も務めたそうですが案内の石碑から安政4年3月20日に亡くなったことはわかるくらいで、あとのことがよくわかりませんでした。
そして、常楽寺の裏の小高い丘の上には木曽塚があります。
墓の主は源義高です。木曽義仲と巴御前の子とも言われている人物で、義仲と源頼朝が同盟を結んだときに鎌倉に来たと言われています。
そのときに、頼朝の娘・大姫の婿となったのですが、義高11歳、大姫6歳だったので頼朝は名目だけのものと考えていたようです。
しかし、大姫は真剣だったようで、義仲が討たれたのちに義高に刺客が放たれたとき、大姫が義高脱出を手助けしています。
それでも、義高は藤内光澄に殺害されたのです。
北条政子は義高の死を知った娘が嘆く姿を見て頼朝に詰め寄り、光澄は頼朝に処刑されたのです。
そんな義高の墓はもともとは木曽免と呼ばれる近くの水田に墓があったのですが、延宝8年(1680)に移されました。その時に青磁器に入った人骨が見つかったと言われています。
また、木曽塚より少し下ったところに、姫宮塚があります。
これは、北条泰時の娘(誰なのかは?)の墓と言われていますが、別の伝承では源義高の許嫁であった大姫の墓ともされています。
個人的な見解としては、姫宮塚が泰時の墓よりも高い位置にあること(父を踏みつけることになる)や、木曽塚とあまり離れていない場所であることから木曽塚が移されたあとに大姫の供養塔として建立されたのではないか?
と、思っています。
奥にある栗船稲荷
御朱印